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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

コミュニケーションのルール(ブログ、そしてその他の場でも)

2006-05-31 03:24:03 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

ブログに寄せられるTBやコメントの扱いは人によって違うが、大別すれば次の3種類になる。

(1)TB、コメント共に受け付けない (2)TBは受け付けるがコメントは受け付けない    (3)どちらも原則として受け付ける。

 以前「愚樵空論」の愚樵さんが、メディアを「ピラミッド型」と「サークル型」に分けて論じておられた。その記事によれば、従来のマスメディアは情報の発信者と受信者が明確に区別され、しかも前者は少数で後者は多数の「ピラミッド型」であった。それに対してブログは発信者と受信者の区別がなく、「サークル型」の意思伝達を可能にするツールであるという。非常に秀逸でわかりやすい語り方で、感心しながら読んだ。なお愚樵さんは、ブログがすべてサークル型だと言っておられるわけではない。中にはピラミッド型のブログもある、とも書かれていた。私も、「ピラミッド型ブログ」は結構多いと思う。政治家やタレントのほか、たとえば小説家や評論家といった文筆業の人達のブログも多くはピラミッド型と言ってよい。形式はブログでも、いわゆる「ホームページ」と同じで、情報の伝達はほぼ一方通行である。

だが、愚樵さんの言われるとおり、やはりブログは基本的に「サークル型メディア」であろう。それを考えれば、TBやコメントの扱いも最初の分類で言えば(3)になるのが最も自然ではないかと私は思う。TBやコメントは、発信者と受信者の間にコミュニケーションが成立していることを表すものであるから。もちろん、(1)や(2)だからといって、そのブログがピラミッド型を志向していると決めつける気はない。アクセスが非常に多いためTBやコメントを受け付けていると収拾がつかない等々、さまざまな理由からシャットアウトしているケースもあると思う。「一般論としては(3)が自然だ」と言っているだけである。

ただ、(3)の場合でも、いっさい削除せず、100%受け付けるということはあり得ない。「原則として」という但し書きがつくのは当然である。では、「削除するかどうか」の線をどこに引くか。

最も寛容?なのは、「よほど目に余るものだけは削除する」というやり方。私は今のところ、この方法をとっている。削除するのは基本的に、「明らかに営利を目的としたTB」と「間違ってTBが二重に入った場合、その片方」だけである。コメントは、ほとんど削除したことがない。時には「コメンテーターが何を言いたいのかわからない」ものや「挑発的な言辞が目立つ」ものもあって、削除しようかとけっこう真剣に思い悩んだ?こともあるが、(ひとつには面倒臭いということもあって)そのままにしている。「あなたの考えはおかしい」と決めつけてくるコメントも、削除していない。何とかして意思の疎通をはかれればそれに越したことはない、と思っているからだ。

ちなみに双方向コミュニケーションに対する志向がなければ、私はブログを始めなかったし、続けてもいない。単なる情報発信なら、本業に専念している方がいい。こんな言い方をすると語弊があるが、収入にもつながるし(ブログ書いたって1円にもならない)。政治家やタレントではないから、支持者やファンを増やすなどという目的もない。

私は世の中に大きな影響を与えるような記事など書いた覚えはないし、おそらくこれからも書くことはないだろが、それでも自分で取材して記事を書いたり、企画や取材に協力したり、「アンカー」(人海戦術で取材し、1人が記事をまとめる場合、そのまとめ役をアンカーと呼ぶ)を引き受けるなど、こまごま仕事している。そしてそれらの出版物は多ければ十万単位、少なくとも数千の読者を持つ。むろん買ってくれた人々全員が私が関わった記事を読むなどということはあり得ず、せいぜい2~30%程度だろう。うっかりすると、10%にも満たないかも知れない。だが、それでも私のブログを読んでくださる人よりははるかに多いのである。ブログの場合も雑誌と同じで「ちょっと覗いてみただけ」の人の方が多いはずで、斜め読み程度であってもまともに読んでくださる人はおそらくアクセス者のごく一部だろう。私が「多少なりとも関わった記事」を読んでくださる読者の100分の1、もしかすると1000分の1にもあたるまい(客観的に見て、おそらく多くても40~50人といったところであろう)。

実際問題として私の場合、「護憲」や「共謀罪廃案」「教育基本法改定阻止」のためには、ブログなんぞ書いてるヒマがあったら、ビラを配ったり集会の企画を手伝ったりしている方がよほどいいのだ。それを十二分に承知の上で半ば自分を嘲笑しつつ「たかがブログ」を続けているのは、ひとえに「直接民主主義的なあり方」に希望をつないでいるからである。だからTBもコメントも、できれば削除したくない。

もっとも、私がこんな太平楽なことを言っておれるのは、いわゆる「荒らし」の被害に遭っていないからであろう。幸いなことに狙われるほどのメジャーなブログではない(どころか、過疎ブログのひとつだと思う)から、嫌がらせを受けたこともない(今後も受けないことを祈る)。明らかに嫌がらせとしか思えないTBやコメントの攻勢に晒されたブロガーは、それどころではあるまい……ということぐらいはわかる。

ごく最近「お玉おばさんでもわかる政治のお話」「嗚呼、負け犬の遠吠え日記」など、よく訪問しているブログが「迷惑コメント、迷惑TBを管理人の判断で削除する」方向に踏み切った。 いずれも執拗な嫌がらせに業を煮やした結果である。(嫌がらせと言えば「喜八ログ」のように、炎上させられてやむなくコメント欄を閉鎖せざるを得なかったブログもある)

TBやコメントはコミュニケーション成立の表れだと先に述べた。だが、人と人とがコミュニケーションを希求する時には、自ずから守るべきルールがあるだろう。

○「自分の主張だけ」を「自分だけがわかっている言葉」で押しつけるのではなく、相手の言葉にも耳を貸し、理解しようと努力すること(おまえは敵だと言い切るのはその後である)○最大限、イマジネーションを働かせること○「罵倒のための罵倒」的な言葉に酔わないこと○たとえ幻想だと言われても、コミュニケーションの可能性を信じること○「眼高手低」を肝に銘じること……エトセトラ

私も今後、コミュニケーションの基本を踏みにじったTBやコメントがあった場合、削除するかも知れない。いわゆる「ネット右翼」と呼ばれる人々や、愚樵さん言われるところの「サークル型」メディアの考え方をくだらないと切り捨てる人々は、激烈で、一見カッコよさげな言葉に酔っているのではあるまいか……などと私は思う。おずおずと手を差し伸べ合う関わりを冷笑したとき、ヒトはその傲慢さに復讐される時が来る。

 

〈以下、余談〉

こんなことを言うと、スパム・コメントなどに悩まされている人達は怒り心頭に達するかも知れない。おまえはヒトゴトだから甘いこと言ってるんだ、と叱責されるかも知れない。それを承知の上で(ひょっとすると出入り禁止にされるかも知れないけれども)、あえて言う――ある意味、「言葉による脅しなど、なんぼのことでもない」のである。ノーム・チョムスキーは、辺見庸との対談の中で「あなた自身、(アメリカ)政府当局から脅しを受けたりはしていませんか」という問いに対して次のように答えている(集英社新書『メディア・コントロール』)。

【批判的な立場をとると、脅迫の手紙を受け取ったり、人から嫌われたり、新聞に悪く書かれたりはする。そういうことが起こり得る、という現実に不慣れな人々は驚きはするでしょう。しかし、ここで起こっていることなど、どうということはないのですよ。それを取り立てていうこと自体、「不面目」なことです】

国家権力に批判的な言葉を口にしただけで逮捕されるような国の現状に触れた後、チョムスキーはさらに続ける。

【例えば、昨夜はMITで私を批判する大規模な集会が開かれた。気にはしていませんが。私を批判するために集会をしたければすればいい。ちっとも構いません。それを抑圧と呼べるでしょうか。世界中で、人々がいったいどのような現実と闘っているかに思いをめぐらせたならば、「抑圧」などと口にするのすらおこがましい。(中略)主流からはずれたことを言えば、知的ジャーナリズムからは批判されるかもしれない。誹謗され、断罪され、ひょっとして脅迫状の1通も受け取るかもしれない。しかし、だから何だというんでしょう】

「嫌がらせ」や「荒らし」は不快なことである。だが――ほんとスミマセン、被害者でもない私がこんなこと言うの悪いんですけど――積極的に何かに関わり、何かを発信しようとすれば、嫌がらせや脅しは常に、多少なりともつきまとう。私自身、ヤクザ系(変な言い方だな……)のオッサンに「夜道歩く時は気をつけろ」と脅かされたり(むろん平気だったわけではなく、膝がガクガクして小便ちびりそうになったが)、政治家に取材したときに「ボク、○○出版の重役とは親しいんだよねエ」とニンマリ笑われた(つまり、変なこと書くと圧力かけて干すぞというわけだ)こともある。いや、そんなものは脅しのうちには入らない。私の仲間には、カミソリ送りつけられたり、出版社に圧力かけられて大きな仕事を失った者もいる。そんな時、(私をはじめとする)臆病な者は心の底からビビる。だが、「ビビりっばなしでは、どの面さげてジャーナリストを名乗れるか」という最低限の誇りもあり、それこそ半ば逃げ腰で小便ちびりそうになりながら、ちまちまと抵抗を続けるのである。場合によっては仲間と手を携え、励まし合いながら。

何かを発信するというのは、そういうことである(と私は思う)。怖いのは、同じ土俵に立っている(と思える)人間とのすれ違いだけではないだろうか。その「基本」が自分の中で崩れた時、私はおそらく(私的にも、仕事としても)情報の発信を止めるだろう……と思っている。

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「愛国心」への執念ほか

2006-05-29 22:00:00 | 憲法その他法律


〈愛国心への執念、恐るべし〉
教育基本法の危機については多くの方が書いておられるし、私も何度か書いた。ここ数日の間に森喜朗前首相、武部勤幹事長、片山虎之助参院幹事長らが「会期を延長しても改正法案を通すべき」と発言、改定に向けた自民党の執念にあらためてゾクリとさせられる。

同法の改定案はいくつも問題点があるが、第一は多くの人が指摘されているように「愛国心」の問題である。むしろこれは問題点の象徴、と言ってもいい。

なぜ権力側は愛国心にこだわるのだろう(いや、理由は私なりにわかっているつもりです。私がここで『なぜ』という言葉を使ったのは、頭で考える前にまず『げげげげげ』という感覚に襲われるという意味)。民主党もさきごろ独自の法案をまとめたが、こちらもまったくいただけない。部分部分の違いはあるが、これまた「愛国心」をしっかり盛り込んでいるのだ。

民主党案では「日本を愛する心を涵養し」という表現が用いられている。「水がじわじわとしみこんで行くように自然体であることを意味する涵養という言葉を使うことで、国を愛する心を一方的に押し付けられることはないよう配慮した」(衆院教育基本法特別委員会の審議における笠浩史議員の答弁)と説明されているが、じわじわと染みこまされようと頭ごなしに押しつけられようと、こちら側にとっては同じこと。違いは鞭でひっぱたかれ怒鳴られながら飼い慣らされるか、頭を撫でられ猫なで声で囁かれながら飼い慣らされるかだけである。それはまあ、どうしてもどちらか選べと言われればひっばたかれるより撫でられる方がいいが、飼い慣らされて行き着く果ては同じだ。

同じ委員会で小坂憲次文部科学相は、同法改正案成立後の「愛国心評価」について「総体的に評価できるようにする」と述べた。国を愛することだけに限定せず、教育の目標として明記した「伝統と文化の尊重」「国際社会の平和と発展に寄与」などと一体として評価をするというのだが、そんな綺麗事ですむはずがない。

皆さん御存知と思うが、毎日新聞が26日に発表した全国調査によれば、「愛国心」を通知表の評価項目に盛り込んでいる公立小学校が埼玉県で52校、そのほか岩手、茨城、愛知県にもあるという。「教育現場」は、既に子供達の愛国心を評価し始めているのだ。実はこれは、文部科学省の学習指導要綱に依る。
【「愛国心」表記の通知表が見られるようになったのは、学習指導要領が02年度に改定され、小学6年社会科に「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする」などの目標が設定されて以降といわれる】(26日付毎日新聞の記事より)
指導要綱でさえ、これほど現場を変えるのである。教育の基本ルールを定めた法律に「国を愛する心」が明記されればいったいどうなるか、火を見るより明らかではないか。

飼い慣らされた者達は飼い主の顔色をうかがい、命じられる前にその意図をいちはやく察して忠義なご奉公をしようとする。その競争がエスカレートした先に待っているもののモデルは、世界中の歴史の中にいくらでも見つけることが出来る。日本もほんの60~70年前に、経験したばかりだ。「総動員される」のではない。「総動員されたい」と自ら望むのである。

まだ間に合う。今ならまだ間に合う。教育基本法改定に断固反対の声を上げよう。


〈頑張れ、宗教者たち〉
いいニュースもひとつ取り上げておこう。毎日新聞(京都)5月28日付朝刊の記事である。
【憲法9条を守ろうと宗派を越えて宗教者が連携した「宗教者九条の和」(東京都)が27日、中京区のカトリック河原町教会で「諸宗教者間の協働と九条」をテーマにシンポジウムを開いた。
 仏教とキリスト教、教派神道から僧侶や牧師、司教などのパネリスト4人が出席した。日本キリスト教協議会総幹事・牧師の山本俊正さんは、憲法9条を取り巻く状況について「十数年前から法制度などのいわゆる“ハード面”で9条を変えるための整備が始まった。それが最近は愛国心について盛り込む教育基本法改正案など、人の心という“ソフト面”にまで改正への動きが及んでいる」と説明し、「人の内面に触れる部分で私たち宗教者は大切な役割がある」などと話した。
 昨年4月の結成当時、55人だった同会の賛同者は、現在は1467人に及ぶ。その後、参加者は「平和巡礼」と題して河原町通をパレード、9条の維持と平和の実現を訴えた】

結構なことだと思った。――などと言うと他人事みたいであるが、いや、実はある意味では他人事なのである。私はいかなる信仰も持っていないから。ただ、仏教徒であれキリスト教徒であれイスラム教徒であれ……国家権力がしばしば企む「心の囲い込み」には肯んじることができないはずだと(ごく素朴に)思う。「国には国の掟あれど、われらにはまた我らの道」(高橋和巳『邪宗門』※)ではないか。宗教者たち、頑張れ。
(それにしても創価学会は何を考えているのでしょうかね)

※大本教に対する弾圧事件をモデルにしたと言われる小説。なかなおもしろいので、未読の方は機会があればぜひ。
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続・「上からモラル」のうさんくささ――モラルを奪い返そう

2006-05-24 01:12:50 | 雑感(貧しけれども思索の道程)


〈戸塚ヨットスクールと石原都知事・1〉
前回のエントリで都知事が提唱する「心の東京革命」などに触れて「心の支配」への恐れを書いたところ、布引洋さんから次のようなコメントをいただいた。

【最近戸塚ヨットスクールの戸塚が刑務所から出所しました。彼の後援会会長が石原慎太郎です。戸塚のやった事は、石原慎太郎の教育方針を先取りした理想の教育です。戸塚宏によると、教育とは子供に恐怖を与えることだそうです。恐怖によって生徒の自主性を引き出すのだそうです。石原慎太郎が三選を考えているのは、都立学校を全部戸塚スクール風にしたいからです】(引用了)

ここで簡単に「戸塚ヨットスクール」についてまとめておく。同スクールは家庭内暴力、不登校などの子供達を集団生活とヨット訓練によって「矯正、治療する」(スクール側の表現)ということで設立され、教育方針はいわゆる「スパルタ式」、というより「軍隊式」。規律に違反すれば過酷な体罰が加えられた。その結果として同スクールでは2名の行方不明者(合宿の帰路、海に飛び込んだ)と3名の死亡者が出、1983年に戸塚校長らが逮捕された。直接の逮捕容疑は当時13歳の訓練生をヨット上で角材などで殴り、死に至らしめたこと(傷害致死)。1審判決は執行猶予つきで、検察・弁護側ともに控訴。2審では執行猶予なしの実刑判決が下された。弁護側はそれを不服として最高裁に上告したが2002年に棄却され、全員の有罪が確定した。

石原慎太郎はもともと戸塚宏の「畏友」だったそうで、1987年には「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会長にも就任している。むろん今も同スクールの方針に全面的な賛意を表明しており、4月3日付産経新聞紙上で、次のようなエールを送った。

【生徒の死亡事故の責任を問われ服役していた戸塚宏氏がこの四月に刑期を終えて出所してくる。戸塚氏は服役中保釈を申請することなく、あくまで刑期を満了した上で悪びれることなく以前と全く同じ所信で、歪んでしまった子供たちの救済再生のためのヨットスクールを再開運営していくつもりでいるという。
(中略) 
 畏友戸塚宏の社会復帰は子供たちに関する今日の風潮の是正に必ずや強く確かな指針を啓示してくれるものと思っている。我々は我々の責任で、人間としての絶対必要条件である我慢について今こそ教え強いなくてはならぬ。失われつつある子供たちの数は戸塚氏を襲った事件の時よりもはるかに増えているのだ】(連載エッセイ『日本よ』)


〈戸塚ヨットスクールと石原都知事・2〉
どんなに言葉を飾ろうと、戸塚ヨットスクールでおこなわれたことは「リンチ」である。「1銭5厘(徴兵通知の郵送料)」で軍隊に引っ張られた経験を持つ高齢者達の体験を聞くと理不尽な暴力沙汰の話がよく出てくるが、それと同様のサディスティックな行為に過ぎない。号令かけられるままの一糸乱れぬ行動を要求し、日常の細部に至るまで規則づくめで縛り、違反したり間違えたりした場合は容赦なく殴り倒す。戸塚ヨットスクールを擁護する人達は「多くの少年達が立派に立ち直った」と言うが、それは立ち直った?のではあるまい。ものを考えるいとまも与えられず、感性は鈍磨させられ、否応なく飼い慣らされていったのだと私は思う。

それに共感する石原都知事は、間違いなく「他者に対する暴力的な支配」を是とする立場にある。それも単に「オレの言うことに従え」ではなく、「心からオレ(の考え方)の前に跪け」であろう。支配する者は常に「心まで縛ろう」という方向にいくのだが(※1)、その行き方の速度や激烈さには当然、差がある。石原都知事はかなり極端な方で、普通の感覚ではほとんど信じられないほどに牙を剥き出しにしてくる。

君が代・日の丸に代表される「国を守る気概」の押しつけはそのひとつ。私は何人か小・中・高校教師の知人がいるが、そのひとりは久しぶりに会った時に、「石原都知事になって以来、息が詰まりそうだ」とぼやいた。ちなみにこの知人は、いわゆる左翼でも何でもない。日教組にも所属しておらず、いわゆる無党派層で時には自民党に投票することもある。子供が好きで教師になり、子供と接していれば幸せで、今でも政治状況にはさほど興味がないそうだ。天皇に対しては崇拝していないまでもそこそこの親愛の情を持ち、国旗国歌にも特に反発は感じていないそうだが、それでも、式典で国旗掲揚や君が代斉唱を無理無体に強制されることなどについて「息が詰まりそう」と小さな声でぼやくのだ。

※1/ごく単純に考えて、それはまあ当然だろう。支配された者達が面従腹背状態であっては、いつ背かれるかわからない。彼らを「唯々諾々と従うことに歓びを持つ」マゾヒスト(しかもそれを自らは意識しない)に仕立て上げなければ、枕を高くして眠れないだろうから。


〈モラルを奪い返そう〉
こういう類の――人の心を縛り、支配することに快感を覚える人間(※2)に、我々の暮らしの生殺与奪権を握らせておくわけにはいかない。そして、「正義」だの「倫理」だの「思いやり」だの、あるいは「愛」だの「願い」だのといった言葉言葉を人質にとられたままにしておくわけにはいかない。こういった本来は人間の崇高さにつながるはずの言葉が、彼らが口にするたびに何と薄汚く見えていくことか。支配のためのモラルは、もう御免だ。我々が共生するために、モラルを奪い返そう。

※2/むろん、そういう人間は石原都知事だけではない。国籍・性別・年齢・職業・社会的地位や教育程度などはむろんのこと、実のところ思想的立場や信条ともあまり関係なく存在する。奴隷を欲しがる人間にNOを言うところから始めるのだという単純なことを、私は今ゆっくりと自分の中で反芻している。


 
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「上からモラル」のうさんくささ。そして――都知事殿、三選に意欲など出さないでくだされ

2006-05-21 04:45:33 | 東京都/都知事
神経を尖らせていた共謀罪の強行採決は回避されたが、この後も審議は続く。ほかに教育基本法改定案をはじめ、肝の冷えるような法案がまだまだ我々に襲いかかろうと手ぐすね引いている。そういう気分の悪い状況の中、それに追い打ちをかけるような情報が……。

!!石原慎太郎都知事、来年春の都知事選挙出馬に意欲!!

ぎゃああああ、マジかよお~という感じである。年も年だしそろそろ引退するのでは、とひそかに期待していたのだが……。私はこのブログでも何度か書いたが、石原慎太郎なる人物が苦手である。「嫌い」というより「苦手」という方が現時点の私の気分に近いので、今日はあえてこの言葉を使おうと思う(※1)。ほとんど天敵という感じで、彼の発言等に触れる機会があるたびに胃のあたりがおかしくなるほどだ。彼が都知事になる前から苦手な種類の人間の代表格だったが、単なる小説家であるならまだいい(むろん小説家をおとしめているわけではない。だが小説家は影響力はもっていても原則として権力は持たず、我々を直接的に脅かすことはないのだ)。

※1/あくまでも今現在の感覚だが、苦手感覚は嫌い感覚ほど鋭くないけれども、それだけに哀しみも深く、同じ空気を吸っているだけで自分の内臓が饐えてくるような、じわじわした――自分の存在の根源をせせら嗤われているような、知らず知らずのうちに血管に毒液を注ぎ込まれているような、そして地の果てまで逃亡したくなるような感覚、と言えばいいだろうか。

石原慎太郎が政治家になったのは1968年。この年に参院全国区でトップ当選した(そうだ。既にこの世に存在していたけれどもまだ都民ではなく、選挙権なんぞもなかった)。そして1999年に都知事に――。知事選の熱狂は今も覚えている。背筋がざわざわするほど不愉快だった記憶と共に。思えばあの年は、日本が今日の危機的状況のとば口に立った時だったかも知れない。確か国旗国歌法が成立した年でもあるし。

石原慎太郎の政治姿勢?その他については緻密に批判している方が大勢おられるので、わざわざそんなことをなぞる気はない。私が彼を苦手とする1番の理由は、彼が「ヒトの心を支配すること」を歓びとする人間だからだ。――いや、表現がおかしいかな、こう言った方が近いかな、「心の支配は一見迂遠に見えて、実は最も確実な方法であることを知っており、それを希求する人間である」からだと。

東京在住の方はよく御存知だろうが、彼は都知事に就任した時に「心の東京革命」を提唱した。そして2000年に「心の東京革命推進協議会」が創られた。ちょうどこの頃、私はある出版社の企画に協力する形で、教育問題を巡ってちまちまと取材を続けていた。だから協議会創設時の衝撃は他人事ではなかったし、「これから来るもの」を垣間見た気がして仲間とかなり真面目に話を重ねたことも覚えている(それでも実際には何ら実のあることを出来なかった自分を私は今、心の底から呪う※2)。

※2/またしても酔っている。夜遅く友人に会い、明け方近くまでちびちびと飲んで、戻ってきたところなのだ。私は取材とちょっとした報道文章を書くことなどで生活している人間なので、それゆえに――というべきか、何かを書くことに対して穴があったら入りたいほどの羞恥とおそれを感じる。それならばブログなんか書かねばいいようなものだが、やむにやまれず発作的に始めてしまったのだ……ほんとにアホみたいな話。今でも発信ということに対するおそれは消えず、アルコールが入らないとなかなかブログを更新できない……。体質的に酒に弱いので、ほんのちょっぴり舐めるだけで軽く酔い、気が大きくなって恥もかける(おまえの発信なんか毒にも薬にもならないから勝手にほざいてろって? あは、失礼しました)。

話を本題に戻す。
「心の東京革命協議会」が言っていることは、字面を眺めるだけならさして問題はない。

【「心の東京革命」は、親や大人が子どもたちに正面から向き合い、関わっていこうという呼びかけであり、次代を担う子どもたちに対し、親と大人が責任をもって正義感や倫理観、思いやりの心を育み、人が生きていく上で当然の心得を伝えていく取組です】(協議会サイトより)

提唱している「心の東京ルール」も、字面そのものは別に問題はない。いや、私の感覚としては問題あるのだが、「あ、そう」ですむ程度のことだ。こういうことを言う(良心的?な)人は世の中に多いし。ちなみに「心の東京ルール」は7つ。
○毎日きちんと挨拶させよう
○他人の子供でも叱ろう
○子供に手伝いをさせよう
○ねだる子供に我慢をさせよう
○先人や目上の人を敬う心を育てよう
○体験の中で子供を鍛えよう
○子供にその日のことを話させよう

まあ挨拶というのはコミュニケーションの始まりだし、他人の子供でも叱った方がいいし(もっとも私は“自分の子供”を持っていない。ごく若い頃に自分という存在に憎悪に近い感情を持ち、自分の遺伝子を持った人間をこの世に送り出すことに腰が引けてしまった人間である。だから他人の子供と言われてもピンとこず、子供という子供はみんな等距離だけれども)、先人や目上の人を敬うのも結構でしょう。しかし……そういう「モラル」は、上から指示するものではないでしょうよ。

権力を握った人間がモラリストを気取る時は、私達はよほど警戒しなければいけない。江戸時代、オカミは「親孝行」な人間を賞賛し、多分わずかではあろうけれども報償を与えたりもした。いや、親孝行はいいんですよ。私は親不孝な人間だが、それでも人並みに孝行してやりたい気持ちは持っている(少々マザコンだし)。

だが、モラルなんてえものは、オカミが規定し、判断するものじゃない。

オカミが「モラル」を看板に掲げる時は赤信号――と私の感覚は告げる。モラルは我々庶民の砦であり、オカミに奪われてはならない。と言うか、モラルなんて規定し、強制するものではないはずだ。規定して強制した瞬間に、「モラル」は薄汚い看板に成り下がる。以前のエントリで「言葉を奪い返そう」と言ったが、奪い返すものはおそらく言葉だけではない。モラルも、また――。

ちょっと前になるけれども、Under the Snn の「日替わりコラム」で、石原慎太郎が脚本を書いたという映画について触れた。ついでと言っては何だけれども、その部分をコピーしておく。

【だがいくら船出好きの私でも、御免被りたい出発はある。去る7日、石原慎太郎都知事(※)脚本・製作の映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の制作発表がおこなわれた。民主党代表選出のニュースも幾分か気が重くなったが、ゾクッとする度合いはこっちの方が大きかったかも知れない。「特攻隊員たちの散りゆく青春を描いた作品」だそうだが、(脚本を読んでおらず、完成も待たずにこんなことを言うのは乱暴かも知れないが……あえて言う)これは愛国戦争プロパガンダ映画である。

※都知事なんかどうでもいい、という人もおられるかも知れないが、不幸にして私は都民(都民税もきっちり払っている)。気にせずにはおれないのだ。私の天敵のひとり、と言ってもいい。

記者会見場には「特攻隊員を演じた役者たちが特攻隊の姿で整列し、報道陣を敬礼で出迎えた」らしい。業務命令で記者会見に行かされた記者のかたがた、仕事とはいえ、本当に気の毒なことである(私ならどうしたかな。忙しいんで別の人に~と逃げまくり、どうしてもダメならこれも給料のうちとかブツブツ言いながら、仏頂面下げて行っただろうな……)。まさか、感動はしなかっただろうネ? 主演の窪塚洋介は自衛隊の訓練にも参加したそうで、会見では「未来の礎となってくれた英霊に、感謝と尊敬をもって自分の役を演じたいと思う」と語ったとか。英霊……英霊!! そんな言葉がいつ甦ったのか。私は聞いてないぞ。

私は「君のために死にに行」きたくなどなく、「君のために死にに行」ってほしくもない。君のために死ぬなどと言われれば、言われた方が迷惑だろう。こういうのを「自己陶酔的押しつけ」、いや、「精神的無理心中」、もっとくだけるなら「大きなお世話」と言う。子供や恋人から「ママ、僕はママのために死にに行くからね」「オレ、あんたのために死にに行くからさあ」と言われて喜ぶ女性がいるだろうか(もしいたら、是非ともインタビューに行ってみたい)。「ああ弟よ君を泣く、君死にたまふことなかれ」というのが普通の感覚ではあるまいか。】(コピー了)

ああ、心の支配! 私はこれが一番恐ろしい。行動に対する規制ならば、抜け道を考えることができる。だが心に対する規制に抜け道はない。

追記/散漫なエントリだなあ。かなり酔ってるかも知れない……。ちょっと仕事が忙しかったのと、ヤなことがいろいろあるせいで、このところ少々ウツっぽい。(単なる私事だけれど)危篤の報を受け、通夜に参列したことも、冥い気分に拍車をかけている。すべてを捨てて出家遁世?してしまえない自分が情けなくもある。「失うものは鉄鎖のみ」とカッコヨク言いたいけれど……。あああああ。少し寝よう(睡眠時間は最低ゼロ、最高10ン時間という無茶苦茶な生活。でも地を這うように暮らしている人間にも心はあり、それだけは売り渡したくない……膝がガクガク震えるほど恐がりながら言っているのだけれども)。覗いていただいた方、相も変わらぬ言い散らし、すみません。

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5.17「共謀罪反対緊急集会」の報告

2006-05-18 00:31:36 | 憲法その他法律


5月17日午後6時半から都心で開かれた「共謀罪反対!超党派議員と市民の緊急集会」に出席して来た。会場の星陵会館は全400席。それが満席になり、立ったままの出席者も多かったので、目算で450名は超えていたはずだ(集会の最後に司会者が約500名、と発表)。民主・社民・共産3党の国会議員や、労組、NPOなどの組織の代表、弁護士らがそれぞれの立場から報告や発言をおこなった。行かれた方も多いと思うが、それらの発言の中から特に印象に残ったものをいくつかご紹介しておく(走り書きのメモをもとにしているので、語尾その他、発言そのままではない)。

「共謀共謀といって、いったいそれはどの段階で成立するのか。じゃあ共謀の手前というのは何か、という質疑を重ねている。法務省によると『モヤモヤした段階』などと言うが、モヤモヤしたなどというそれこそ曖昧な表現で法律を応用されてはたまらない」(社民党・保坂展人議員)

「(世論の盛り上がりによって)政府は法務省のサイトで釈明するなど、言い訳に回らざるを得なくなっている。その弁明の中から、(この法律によって権力が)市民団体や住民運動などに介入するという可能性が国民の前に明らかになりつつある」(共産党・赤嶺政賢議員)

他の国会議員も口をそろえて「国会の中の空気も変わりつつあり、19日に採決強行とはいかなくなっている。これも世論が盛り上がってきたおかげである」と発言。東京新聞をはじめとして新聞も共謀罪を取り上げ始めた(たとえば毎日新聞では5月9日から『共謀罪新設に言いたい』を連載、朝日新聞も5月9日に、第3社会面でやや大きく取り上げたなど)ことで、強行に通してしまえなくなり、弁明を繰り返してはボロを出している。これからも反対の声を広げ、その声で野党の後押しをして欲しいと壇上から訴えた。

「この法律の一番いやなところは、人間の良心を信じないという哲学を基盤にしていることだ。普通の法律は犯罪を犯そうと思っても、後悔して後戻りすれば罪に問わないが、共謀罪は中止しても罪になる。今、国会は数の上ではいつ通されてもおかしくない。しかし国民の関心の高まりによって、数のみでは押し切れない状況が生まれつつある」(中村順英弁護士ら、日弁連・共謀罪立法対策ワーキンググループの3弁護士)

「やっと野党がスクラムを組んだ。これはすぎらしいことだと思う。万が一強行採決されてしまったとしても、私達は諦めない。野党の大連立で政権を変え、廃案にもっていきたい」(グリーンピース・ジャパン事務局長)

「4月30日におこなわれた『自由と生存のメーデー06』に対する異様な弾圧は、共謀罪を先取りするものだと弁護士の先生がたにも言われた。あらゆる表現行為を弾圧しようする意図が明らかになっていると思う」(メーデー救援会)※

注※「自由と生存のメーデー06」事件/プレカリアート(不安定な雇用を強いられた人々)が訴えを発し、集会の後にサウンド・デモ(音楽を流しながらデモ行進するもので、海外はむろんのこと、最近は日本でもよく見られる)を計画した。このデモはむろんあらかじめ届け出られ、原宿署の許可を得ておこなわれたのだが、公安と機動隊がデモ出発点のそばで待ちかまえていた。そして3名を道路交通法違反や公務執行妨害で逮捕し、デモをつぶしたという事件。メジャーな団体のデモではなかったため、つぶす対象ににしやすかったのでは、とも言われている。詳しくは下記。
http://mayday2006.jugem.jp/

共謀罪(をはじめとする現政権の動き)に反対する集会などが、今後も数多く計画されている。そのうちの1つをご紹介しておく。

☆「小泉暴走にSTOP! 6.1集会――共謀罪、憲法改悪国民投票案、米軍再編に反対しよう」
6月1日(木)日比谷公園野外音楽堂にて。午後6時半から集会、7時半からデモ。連絡先=フォーラム平和・人権・環境(03-5289-8222)、憲法共同会議(03-3221-4668)、共謀罪に反対する市民と表現者の集い実行委員会(03-5155-4765)

他にもあるが、それはまたあらためて。


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しつこく――芸は売っても身は売らぬ。もちろん心も売りませぬ(3)

2006-05-14 01:09:34 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
【「共謀罪」の新設を柱とした組織犯罪処罰法改正案などをめぐり、与党は12日の衆院法務委員会理事会で、適用対象をより具体化した再修正案を正式に提示して協力を求めるとともに、「16日に審議を終結させたい」と委員会採決を求めた。民主党は「主な内容は変わっていない」と反発、対決姿勢を強めており、同法案の審議は週明けから大きなヤマ場を迎える。】(共同通信5月12日)

憲法改定や教育基本法改定に賛意を表する人達の中からさえ、「なぜこんな法律が必要なのか」「なぜこれほど採決を急ぐのか」という疑問の声が聞こえる共謀罪。「適用範囲が広すぎる」「拡大解釈に対する歯止めをしっかり設けるべき」といった意見から「そもそも存在してはならない法律だ」まで、その反対意見には幅があるが、タダゴトではないと感じている人が多いのは確かである。だから2日ほど前にちょっとご紹介したように日弁連のサイトはアクセス数が大幅増、日によっては8万件近くに達しているわけだし、共謀罪に言及するブログも増加の一途を辿っているのだ。そして共謀罪に反対する集会も何度も開かれている(17日にも集会がある。既に御存知の方も多いと思うが、エントリの尻尾にお知らせを掲載しておく)。

共謀罪の危険性は、多くの団体や個人によって語られている。特に日弁連のサイトは法律専門家の観点からわかりやすく解説してあるので、この法律のイロハや問題点などを知りたければそちらを見ていただくのが一番である。(http://www.nichibenren.or.jp/)

私は法律家でも何でもないので、そう大したことは言えない。庶民のひとりとして感じたことを言い散らしたり書き散らすほかないが、共謀罪は教育基本法改定と並んで、「国民精神総動員(運動)」を推し進めるためのカナメであると思っている。

共謀罪に関して私が一番恐ろしく感じるのは、「恣意的に使われる可能性、あるに決まってるだろ」としか思えないことだ。たとえば、鈍器でひとを殴って重傷を負わせたとする。殴った状況がどうであるか、情状酌量の余地があるかどうかなどによって裁判の結果は違ってくるだろうが、そういう「犯罪」を犯した場合は誰であろうと「犯人」である。思想信条が国家にとってプラスになる人物だろうが、与党の国会議員の息子だろうが、文化勲章受章者だろうが、関係はない。(むろんオカミにとって有益な人物の場合はそれが有利に働くこともあるだろうし、場合によってはもみ消されることもあるだろう。ここではそのあたりは計算に入れない。大勢の人が見ている前で犯罪行為に及び、隠そうにも隠しようがなかったというケースを想像してもいいだろう)

しかし、共謀罪は違う。「健全な生活を送っている普通の市民には関係ない」と、法務省などは盛んに言う。確かにその通りであるが、実はこの点が最も恐ろしい。「健全」も「普通」も、オカミが考える範囲でというだけの話だからである。かつて日本には「不敬罪」や「姦通罪」などの法律があった。天皇や皇族に不敬行為があったとみなされれば手が後ろに回り(※1、2)、既婚女性がいわゆる不倫に走ると男女双方が処罰されたのである。

※1/不敬行為といっても、天皇御幸の行列に石投げるとか、天皇の写真を破るとか、天皇制反対を唱えるといった「意図的な」行為だけではない。たとえば新聞や雑誌記事の誤植で皇族の名前を1字間違えたなども、不敬罪にあたるとされた。

※2/ちなみに創価学会の初代会長は、不敬罪と治安維持法違反で逮捕され、翌年獄死している。そういう歴史を持つ学会をバックにした公明党が、自民党に唯々諾々と従っているのは変だとごく素朴に思う……。

戦前の日本では、「天皇や皇室に対して不敬な(考え方を持っていると思われる)人間、(たとえうっかりでも)失礼なふるまいのあった人間」や、「夫がありながら他の男と通じる女性および相手の男性」は「悪い奴」だったのである。

日本の過去の時代、そして世界のあらゆる国の過去と現在を見れば、「悪い奴」「悪いこと」の種類は実にさまざまであり、国により時代によって随分違うのだということがよくわかる。たとえばの話、一般市民が拳銃を携えることだって、悪いことだと思う国とそうでない国があるのだ。

「絶対にしてはならない悪いこと」というのは、世の中にはそんなに多くないと私は思っている。たとえば人を殺傷すること、他者の自由を奪うこと、他者の権利を阻害すること……等々、人間としてのルールを踏み外すことだけだろう。だが、「悪いこと」の範囲を広げれば統治しやすくなるため、為政者はともすればそれを狙う。言い換えれば、都合の悪い人間(や組織)を「悪い奴」視することで、分断をはかろうとする。「こういう人間は悪い奴です。皆さんは健全な生活をしている普通の市民ですから、そんな悪い奴の味方はしませんよね?」

共謀罪が成立しても、よく冗談半分で言われるように「酒の席で『あの上司は気にくわない。いっぺん殴ってやろう』と盛り上がった」だけで逮捕されることは、まあ、あるまい。だが、盛り上がった仲間が組合運動をしていて、会社にとって目の上のタンコブだったら? あるいは市町村の政策に対して反対運動を起こしていたら? これ幸いと、共謀罪で「引っかけられる」ことはなきにしもあらず。また、オカミにとって目障りな運動をつぶすために、署名やカンパをした市民が共謀罪容疑で取り調べを受けるといった事態も大いにあり得るだろう。

怖いのは実はこの点だ。「冗談言っても逮捕されるんですってネ」と戦々恐々としていた人々も、「単にそれだけ」なら逮捕されたりしないとわかって「あれはデマだったんだ」「やっぱり逮捕されるのは悪い人達だけ」と思い始める……。私は妙な言い方だけれども、共謀罪ができるならば、本当に「すべての人達が、ほんの冗談で言ったつもりのこと」で次々と逮捕された方がいいと思う。その方が、私達は自分達が崖っぷちにいると身にしみる。「デマだったんだね」と安心しているうちに徐々に真綿で首を絞められるより、むしろその方がいい。でも、オカミも利巧だからなあ……。いつの間にやら、ということになってしまうだろうなあ。やっぱり成立する前に阻止した方が安全だ。 

書けば書くほど「いつも同じことばっかり言ってるなあ」と忸怩たる思いがしてくるので適当に切り上げ、共謀罪に関する過去のエントリを2~3上げておく。もし関心を持っていただけたのでしたら、御用とお急ぎのない節にでも。

「治安維持法が甦る――それもさらに協力に」(3月17日)
http://blog.goo.ne.jp/bebe2001pe/d/20060317
「芸は売っても身は売らぬ。もちろん心も売りませぬ」(4月22日)
http://blog.goo.ne.jp/bebe2001pe/d/20060422
「共謀罪の悪夢」(5月7日)
http://blog.goo.ne.jp/bebe2001pe/e/051be39c5028d73666866cee8264bc10


〈緊急集会のお知らせ〉
5月17日(水曜日)に、超党派国会議員の呼びかけによる「共謀罪の強行採決に反対する緊急集会」が開催される。

日時/5月17日(水)午後6時半から 
場所/星陵会館(千代田区永田町2-16-2  TEL 03-3581-5650)
☆国会裏手、日比谷高校グラウンドに隣接
☆地下鉄有楽町線、半蔵門線、南北線・永田町駅下車6番出口徒歩3分、地下鉄千代田線・国会議事堂前駅下車5番出口徒歩5分

問い合わせ先/平岡秀夫事務所3508-7091  保坂展人事務所3508-7070  仁比聡平事務所3508-8333

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続・感性礼賛――知ろう。しかし振り回されまい。

2006-05-11 22:01:28 | 雑感(貧しけれども思索の道程)
 

Ⅰ 基本的な知識は大切だ

ちょっと明るいニュースをひとつ。

◇◇◇◇◇◇◇
「日弁連HP、アクセス数が大幅増」(毎日新聞5月11日)
日本弁護士連合会のホームページ(HP)へのアクセス数が、連日、通常より1万件以上アップ。「96年の開設以来、最高記録かも」と関係者を驚かせている。過去の平均アクセス数は1日約4万件。ところが、国会審議中の「共謀罪」について、正当性を主張する法務省HPへの反論を掲載した8日に5万件を突破。取り調べの録画・録音の試行が発表された9日には7万7843件に達し、10日も5万件を超えた。                                 ◇◇◇◇◇◇◇

よいことじゃないか!と、ごく単純明快に思った。「知識より感性が大事」などと喚いているくせにこんなことを言うのは矛盾しているようだが、「基本的な情報」だけは知っていなければどうしようもない。「共謀罪? それってどんな法律?」と目をパチパチさせているようでは、オハナシにならないのだ。

私が嫌うのは、「知識や情報」を次のように使うことである。

(1)マニアックなほど細かい知識や情報をコレクションし、その多さが何より重要であるかのように思い込むこと。
そういう情報コレクターは、他人が――たとえば与党案による「共謀罪が適用される犯罪の数」の1桁のところまで覚えていなかったり、さまざまな法律の話をするときに「第○条か忘れたけど」と言ったりすることに対して「無知な奴」と嗤う。共謀罪が適用される犯罪の数などは「600以上もの数」と覚えておけばそれで充分。正確な数字が必要な時はちょっと調べればいいだけだと私は思っている(むろん法律家や、政治に携わる人はそれでは困る。きっちり覚えていてください)。話が逸れてしまうが、歴史の年号だって基本的に(ほとんどのものについては)およそのことを知っていればいい。応仁の乱は15世紀の後半、フランス革命は18世紀末。必要があれば年表見ればいいのである。

むろんこれは私の頭の容量の問題でもある(しかも少々スが入っている……)。オマエと一緒にするなと言われれば返す言葉がないけれども、人間、そうそう細かいことまで覚えていられません……よね? だから知っておくべきこと、覚えておくべきことには優先順位をつけておいた方がよい。そして何が優先順位の1番か(あるいは1番、2番、3番……か)を見てとるのは、やはり一種の直感力ではないだろうか。その直感力も知識の積み重ねで養われるという考え方もあり、そうなると話が堂々巡りなのだけれども。

(2)知識や情報を手当たり次第に詰め込んだ結果、それに振り回されてしまうこと。
誰はこう言っている、ここにはこう書いてある……という知識・情報だけは豊富だが、「ではあなたはどう思うか」と言われた時に首をひねってしまう。うっかりすると、そういう質問に対しても「(評論家の、小説家の、哲学者の、その他)誰それが言うには」と答えたりする。かなり頭のいい人の場合は露骨に「誰それは」などとは言わないが、じっくり聞いているとツギハギ部分がちらりと見えたりする。

むろん、私はどんなことに関しても「自分の意見を持て!」などと乱暴なことは言わない。どっちでもいいことは世の中、たくさんある。
時々、こんなことを言う人がいる。「大勢でレストランなどに入った時『私もみんなと同じものでいい』というのは、自分というものを持っていないからである」ひどいのになると、「こんなところにも自分の意見をはっきり言わない、他人と違った意見を述べることを非とする日本人の特徴が表れている」とか。
クソクラエである。レストランでカレーライスにするかピラフにするかなんて、大した話ではあるまい。美味しいもの・珍しいものを食べるのが目的で行けば、誰でも熱心にメニューを睨み、自分の食べたいものを選ぶ。そうでない時は「時に積極的に食べたいものはない」わけで、私もあまり考えずに他の人達と一緒に「お勧め」と言われたものや「サービス・ランチ」を選ぶ(しまった、また話が逸れてきた)。
ともかく、である。「どうでもいいこと」については「どっちでもいい」と言い、周囲に合わせて一向にかまわないと私は思う。友人と待ち合わせる時に駅の改札口にするか駅前のドトール・コーヒーにしようかという話で、相手が「改札口がいい!」と言えば私は「あ、そ」と合わせる。そんなところでまで懸命に自己主張?するのは時間とエネルギーのムダだと思うからである(生活のあらゆる局面において自己主張するのが趣味、という人は別)。

「自分の意見をしっかり持とう」という話はよく聞くが、さらによく聞いてみると「どうでもいいこと」でアレコレ言うことを勧めている場合が少なくない。そんなところで「主張」を浪費してはいけない。


Ⅱ 知識や情報とは距離を持って付き合おう

私はマニアックな知識や情報そのものを嫌っているわけではない。誰でも自分に関わりの深いことに関しては「必要最低限」を超える知識・情報を持っているし、好きなことに対してはさらに「そんなこと知ってて何になる」的な知識や情報も山ほど持っている。それはそれで披露してもらうと楽しいし、実のところ私は「役に立たない知識や情報」は大好きでもある。役に立つものばかりで成り立っている世の中は息苦しい(役に立つ・立たないという言葉の意味は難しいが、ここではややこしい話は抜き)。私の友人のひとりに埋もれた古書から「巷のしょうもない話」を見つけ出してくるのが大好きな人間がいて、彼の話はいつもおもしろい。ほかに酒にやたらと凝っている人間、アマチュア無線をやっている人間、東洋医学にむちゃくちゃ詳しい人間……等々さまざまなのがいて、彼らのウンチクは本当におもしろいのだ。

だが、彼らのウンチクがおもしろいのは、おそらく彼ら自身が「これは無用の知識・情報」とはっきり思っているからだろう。日々の生活に有用なわけでも、世の中を(少なくとも直接に)変える力になるわけでもない。しかし、知識や情報というもの自体、(必要最低限のもの以外は)もともとそういうものではないかとも私は思ったりする。「所詮は」と距離を置いて付き合いながらも貪りあさる時、知識・情報は私達の親しい武器になる。


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目覚めよと呼ぶ声がする

2006-05-09 22:21:20 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

タイトルはバッハの教会カンタータから借りてきたが、私は音痴で音楽のことは(音楽のこともと言うべきか?)全くわからない。言葉として好きなので使っただけである。

ヘンリー・オーツ氏のブログ「ヘンリー・オーツの独り言」に次のような一文があった。(この記事には「政治状況を表すチャート」も載っていて、これがなかなかおもしろい。ちょっと見ておかれることをお勧めする)

【昨日のサンデープロジェクトを見ていて感じたことは権力側の恐れが尋常のものではないということだ。彼らは自分たちに正義がないことが解っているから間違いを見られまいとすればするほど声が大きく荒くなる。つまり一般国民が目覚めることを非常に恐れているということなのだ】

私達は自分は目覚めていると思っている。新聞を読み本を読み、物事をよく知っていると思っている。物事を判断する知性もあると思っている。だが、本当に「目覚めて」いるのだろうか?

2~3日前に『感性礼賛』という文章を書いた。 知識はあった方がいいが、基本的な部分以外は必要十分条件ではない、と。知識や情報は目覚めるための有効な道具だけれども、いくら豊富な知識を持ち、豊富な情報を手に入れていても、それを自分の中で仕分けし、整理し、判断する能力がなければ目覚めることはできない。

現代人は、五感が鈍っているという。まずい水をまずいと感じたり、微かな音を聴き分ける能力が鈍っているという。おそらく五感だけではなく、「おかしいものをおかしいと直感する能力」も鈍ってきているのだろう。それを知識や情報で懸命に補うわけだが、基礎の部分が脆弱なままでは、知識や情報に溺れるだけだ。たとえば共謀罪にしても、法務省と日弁連のサイトを睨み比べ、どちらが正しいかよく考えてみよう――などということになってしまう。

眠っているのは、この「基礎になる部分」ではないか。いや、眠っているのではなく、信じない(くだらないと思う)習慣がついているのかも知れない。王様が裸で練り歩いた時、大人達は裸に見えるのは自分だけではないかと怯え、それを口にできなかった。自分が見たありのままを、信じることができなかったのだ。新聞にこう書いてあるから、政治家がこう言っているから、インテリの人達がこう言っているから――そんなふうな情報コレクションはいったん止めて、生き物である自分の声に耳をすませてみよう。「身も心も縛られるのはイヤだ」「人に踏みつけにされたくない、踏みつけにもしたくない」等々、ごく当たり前の声に……。

〈追記〉私は昔からTEXTに慣れてしまっているのでそれを使うことが多い(goo blogの場合、HTMLでは記事内に複数のバナーを貼りにくいという事情もある)。他のブログやサイトを紹介するときも普段はhttpをそのまま紹介することで御容赦願っているが、今日はHTMLを使った。それでついでと言っては何だが、ここ2日ほどの間にTBいただいた共謀罪関連のエントリを2~3ご紹介しておく。

「共謀罪とカルト前夜」(T.N.君の日記)――共謀罪は内心の自由という価値体系を崩壊させるもので、カルトを大量に生み出す結果になるだろうと警鐘を鳴らす。

「井戸端会議で冗談も言えない社会に」(再出発日記)――共謀罪に今ひとつピンとこない主婦の人にやや乱暴な説明をしたところ一発でわかった、という話がおもしろかった。

「オウムのような(以下略)」(雑食系ブログ(仮))――オウムのようないわゆる“反社会的集団”の犯罪を防ぐために必要な法律、という言い方に対するわかりやすい反論。

ほかにも優れたエントリがたくさんあり、(さぼってるだけだが)全部ご紹介しきれない。TB欄を参照して、行って御覧ください

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緊急のお知らせ/5日9日「9条講演会」インターネット中継

2006-05-08 20:57:17 | お知らせ・報告など

明日5日9日、埼玉県さいたま市で『9条の会・埼玉講演会』が開催される。その模様が、インターネット上で音声中継されることになったというお知らせをもらった。皆さんにも広くお伝えしたい。

講演者/大江健三郎氏、加藤周一氏、澤地久枝氏

時間/午後6時~8時

中継/http://www.jca.apc.org/jca-net/live9/

 

 

 

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共謀罪の悪夢

2006-05-07 09:49:06 | 憲法その他法律


共謀罪誕生後の或る日――(これは私の脳裏に浮かんできた悪夢)

 週明けの昼下がり、久しぶりにAという出版社に足を運んだ。同社は古いビルのワンフロアにオフィスを構え、月刊誌をひとつ、ほかに月に1~2冊程度の割合で単行本を出している。営業や経理の担当者まで含めて総勢十数人の零細出版社である。

 入った瞬間、ひどく奇妙なものを感じた。いつもであれば、たとえ4、5人しかいなくても社内は幼稚園の庭かと思うほど明るくざわついているのに、今日は空気が通夜のように凍り付いている。いつもと違って「あっ、華氏さん。今日は何?」と威勢良く声をかける者もおらず、皆がいっせいにじろりとこちらを見ただけだ。ん?……と入り口の所で立ち止まっていると、一番奥にいた青年がやっと立ち上がり、小走りに近寄ってきた。入社して確か1年余り、ようやく仕事に慣れてきたタナカ君である。

「何か妙な空気だね。社長でも死んだの」
私が悪い冗談を言うと、タナカ君は「そんなあ……」と泣き笑いめいた顔をして、「ちょっと出ませんか」と囁いた。
「スズキさん(月刊誌編集長)と打ち合わせの約束があって来たんだけど。スズキさんは外なの?」
「そのことで……。僕もお茶飲みたいし」

 ビルの近くに、よく打ち合わせがてら使う小さな喫茶店がある。マスターが社長の古い友人とかで、A社の社員達は息抜きしたくなるとすぐここに来る。半ばA社の分室のような雰囲気になっている店だ。その奥の隅に腰を落ち着けるや否や、タナカ君はいきなり「社長は弁護士の所に行ってるんです」と言った。
「弁護士? 何か訴訟でも起こされたの」
 私は首をひねった。『月刊A』は政治や思想関係の雑誌ではなく、スキャンダルを追う雑誌でもなく、健康ものの雑誌である。主な中身は健康関連の生活記事やエッセイ、専門家による健康相談などで、毎号、健康をテーマにした対談もある。私はその司会と、記事のまとめを請け負っているのだ。A社が出している単行本も、健康関係の軽い読み物や情報本ばかり。つまりはごくごくおとなしい、言い換えれば毒にも薬にもならない類の出版社で、訴訟などという事柄とは縁遠い。もっとも、だからといって裁判沙汰が起きないとは限らないが……。それとも、雑誌や本とは関係ないところで何か問題が生じたのだろうか。たとえば社員の誰かが大きな事故にでも巻き込まれたとか、ビルの持ち主から追い立てをくらっているとか。
 
 その時、白髪のマスターが近寄ってきて、テーブルにお冷やを置きながらタナカ君に向かって「大変なことになったよね」と言った。マスターは事情を知っているらしい。
「だからさ、何があったの」
「ええ……」とタナカ君は口ごもっていたが、乱暴な仕草で水を飲み干すなり、「逮捕されたんですよ。スズキさんと、それから……」
 指を折りながら名前をあげていく。全部で5人、月刊誌の編集部員の全員に近く、逮捕されていないのは目の前にいるタナカ君ともうひとり、同じく若手の社員だけだ。 

「たいほオ? いったい何の容疑で」
「共謀罪だって言うんです」
「共謀罪? 何の共謀」
「労働基準法ですか、あれで規定されている強制労働の共謀ということで……」
『月刊A』で表紙などのデザインを頼んでいるデザイナーがいる。腕は非常にいいのだが、ややだらしないところがあり、二日酔いだの、うっかり忘れていただのと言って期日に遅れたことが何度かあった。そのたびに編集部員は冷や汗をかき、発行日に間に合わせるべく印刷所を拝み倒さねばならない。編集会議の席上でその不満話が出て、「誰かが事務所に行って、仕上がるまで見張っているしかないね」「ちょっと散歩、なんて言って逃げ出すんだよな、あの人」「だからさ、絶対に一歩も出さないようにするんだよ」「仕上がるまで家に帰さないわけ」「いっそ、ここに監禁して仕事してもらったら?」などと半ば本気で言い合ったらしい。

「らしい?」
「いや、僕はいなかったんです。実は病気でしばらく休んでまして、やっと昨日出て来たところで。だから逮捕されなかったみたいです」
「しかしねえ……お宅の編集部がね」 
 A社はとてものこと、当局に目をつけられそうな所ではないのだが……と考えているうちに、私はようやく思い当たった。
「Bさん……かな」
「あの評論家のBさんですか?」
「うん。彼の記事を載せてるんで、睨まれたかな」
 B氏は医事評論家だが、医療問題をめぐって昔から政府のやり方を批判し続けている。そればかりでなく先頃成立した憲法改定国民投票法に対する反対運動に名を連ねるなど、最近は幅広い活動が目立つ。『月刊A』との付き合いは長いそうで、今も同誌に連載記事を書いているのだ。

「でも、そんな……睨まれるような記事じゃないですよ」
 確かに政策批判ではなく、軽いエッセイではある。巷の健康情報などをネタにして、さらっと気軽に書いたという雰囲気のものだ。ちらっと皮肉が覗くところもあるが、普通はあの程度ならオカミも目くじら立てまい。睨まれたのは『月刊A』の記事ではない。
「目障りな人間は、干すつもりなんだよ。Bさんの記事を載せると睨まれるとわかれば、出版社はビビる」
「でもオ」とタナカ君は不満そうだ。「何でBさんなんですかあ。そりゃあの人はいろいろ言ったりしてるけど、もっと大物はいくらでもいるでしょう。たとえばほら、あの……」
「まさかノーベル文学賞受賞の世界的な作家は、干せないからねえ。著名な大学教授とかも。こう言っちゃ何だけど、Bさんあたりはスケープ・ゴートにしやすいというか、狙うのに適当な人なんだろうね」
「そんなあ……」

「これも言っちゃ悪いけど、お宅のような小さな出版社もスケープ・ゴートにしやすいんだよね。ほら、共謀罪で捕まったのって、小さな所の編集者や記者ばかりじゃない。まあまあそのうち、徐々に大手も狙われるだろうけど。……それにしても、編集会議の席で、ってことだったよね。誰かが通報したの」 
「どうやらワタナベ君が」と、タナカ君は彼以外に唯一逮捕を免れた社員の名を口にした。「警察に垂れ込んだらしいんですよ。義憤にかられてか何か知らないけど、訴えるなんてやり過ぎですよねえ?」
「義憤……じゃないよ多分」
「え?」
「向こうから接近してきたんだろうね、ワタナベ君に」
 タナカ君の顔が、可哀想なほど歪んだ。
「うちの雑誌、ハメられたってことですかあ?」
 スズキさん達がいなかったら、雑誌出せませんよ。うちの会社、つぶれるんでしょうか。僕、失業するんですか。共謀罪でみんな逮捕された編集部にいたなんて言ったら、何処も雇ってくれませんよ……と泣き言を並べるタナカ君を見ながら、私は共謀罪成立前後の日々を思い出していた。

 あの頃、マスコミは共謀罪に対して今ひとつ反応が鈍かった。個人的には危機感を持つ人間が多かったのだが、それがマスコミ内部からの大きな声にまとまっていかなかった。今も、巨大メディアはやや鈍い。最初の頃は主に、いわゆるピンク系の雑誌などを出している出版社の編集者が挙げられた。大手の新聞社や出版社を中心としてマスコミ内にも「下品な雑誌を作っている連中」というある種の偏見があり、それが「そういう連中だから違法行為もするだろう」といった冷ややかな感覚につながっていたように思う。そのうち反体制を標榜する雑誌の編集者が狙われるようになり、既に2~3の逮捕例がある。だが、いずれも吹けば飛ぶような小さな出版社の社員だから、巨大メディアは足元に火がついたと感じていないのかも知れない。いよいよ本格的な攻勢が始まっているのに……。
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感性礼賛――「知るは力」、ただしそれを支えるものの方が重要

2006-05-06 07:28:35 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

ゴールデン・ウイークも、そろそろ終わり。もっとも、私は休みではなかった。貧乏暇無しというやつだ(周囲の人々が休んでいる時に働くというのは、かすかな不遇感?を伴うものである……ああ疲れた)。共謀罪、教育基本法改定等々、週が明けたらまた攻勢が始まる。今日はひと休みがてら、日頃感じていることをちょっと書いておこう。

10代の終わり頃、友人から「首から上で生きている」と評された。10代半ばからハタチ前後にかけて何度か同じようなことを言われた覚えがあり、どうやらオトナになりかけた頃の私は、頭の中だけでひねくり回した理屈をしゃべりまくる人間だったらしい。理論的にしゃべっていた、というわけではない。所詮は平凡なガキだから単に屁理屈を垂れ流していただけなのだが、「理論的に喋らなければいけない」と思い込んでいたのだろう。また、知識は豊富であればあるほどいい、と思っていたのも確かである。たまたま小さい頃から活字中毒で本だけはやたらに読んでいたから、文字で書かれたものを無秩序に頭に詰め込み(※1)、それを始終、適当に取り出してはひけらかしていた。

※1/そもそも10代の頃は誰でも記憶力が旺盛なので、自然に入ってしまうのである。もっとほかのものを詰め込んだら、人生、変わっていたかも知れない……。

……そういうことが、馬鹿馬鹿しく、かつ恥ずかしくなったのはいつ頃だろう。

「知るは力なり」「無知が栄えたためしなし」などと言われる通り、知識は大切である。正しいことを知り、正しい情報を得ることによって、私達はものを考える手掛かりを掴むのだから。ただ、あくまでも知識はものを考えるための参考資料である。自己満足のための飾りや、他者に対して優位に立つための道具ではない。そして、「知っているだけ」では何の意味もない。

知識はあった方がいいが、絶対に必要な基本的なところ以外は必要十分条件ではない。たとえば共謀罪。どんな法律であるかぐらいは知っていないと話にならないが、治安維持法との比較とか、法律家の意見はどうであるかとか、他の国の事情はどうであるかとか等々とは――むろん知っているに越したことはないけれども、知らねば意見を持てないわけではない。時間などの余裕があれば細かく知る努力をすればよいが、無理に情報を集めあさる必要はなく(あせってむやみに集めると、頭を整理するだけで大変で、未消化になってしまいかねない)、大まかなところを掴んでいればよいのではないか。

「もっと(本を読むなどして)勉強しなければいけない」という人は多い。それはある意味で正しいのだけれども、一生懸命に「お勉強」しても、「歩くエンサイクロペディア」になるだけでは何の意味もないのだ。知識を自分のものにできたかどうかは、「自分の言葉」で語れるかどうかでわかる(※2)。

※2/これは私自身のハンセイでもある。昔の私は嬉しげにムツカシイ言葉を使い、ダレがこう言った、ダレの理論によればこうである、などとひけらかして喜んでいたのだ。思い出すだけで赤面する。自分の言葉で語りたいと思い続けてきたが、「まだまだだなあ」というのが正直な気持ちで、この点も赤面。

知識を自分のものにできるかどうか――の鍵を握っているのは、いわゆる「感性」ではないかと私は思う。実は私は、感性という言葉があまり好きではない。ほかに適当な言葉を思いつかないままに安易に使っているが、ちょっと手垢にまみれすぎている気がするのだ(どうでもいいようなことに、ご大層に感性感性と大声あげられているし)。「思惟の素材となる感覚的認識」(広辞苑)とでも言った方が、何となく近いだろうか? あるいはいっそ、「存在を賭けたカン」とでも言ってしまった方がわかりやすいかも知れない。

そして今の私は、知識や理屈よりも「(やむを得ず使うが)感性」の方を優先している。知識を最上位に置く人は、知識によって足をすくわれるからである。「知識万能主義」で、かつ「理屈が通っている(ように見える)」ことに無条件でシャッポを脱ぐ人の場合は、自分以上に「よくものを知っていて」「理路整然としゃべる」人に会った時、コロリと転んでしまうことがある。

私は仕事柄「浅く広く」いろいろなことを知っているが、「まあまあ知っている」と言えるものは僅かしかなく、ほとんどの事柄についてはいわゆる「常識程度」の知識しかない。それはおまえがアホだからだ、と言われれば返す言葉がないが、同様の人は多いのではないかと思う……いや、思いたい(思い込んでいるだけだろうか?)。まあそれはそれとして、どれほど優れた人でも「すべてのことについて完璧な知識を持っている」ことは(皆無ではないかも知れないが)ほとんどあり得ない。だから知識の豊富さや理屈の通り方だけを尊んでいると、その点で勝っている相手に会った時、無条件でひれ伏してしまいかねない。

知識や理屈に対して「イエス」「ノー」と判断する時のよりどころになるのが、先ほどから言っている「感性」あるいは「カン」なのである。

A、B、2人の人物がいたとする。Aはインテリで山のように本を読んでおり、政治経済から世界情勢、文化等々さまざまな知識も豊富。Bはさほど本を読んでいるわけではなく、海外に行ったこともなく、ムツカシイ言葉も知らない。でも、たとえば「愛国心」について知識を総動員してしゃべるエライサンに会った時、Aは変に納得し、Bは「難しいことはわからんけどな。そんなん、強制するもんやないやろ」とひとことで片付けたりすることがある。これはAB両者の感性に依る。何千、何万もの本を読んだ人よりも、本など数冊しか読んだことがないという人の方が、一直線に核心に迫るというのはままあることだ。

先に「知識や理屈よりも感性を優先する」と書いたが、それでころか、もしかすると私は「思想信条」よりも優先しているかも知れない。思想信条は、何かのきっかけで変わることがある。「知識」が深まるにつれて変わっていくこともある。年をとるにつれて保守的になったとか、独身時代と家庭を持ってからでは微妙に思想が変わってきたとか、勝ち組になって自民党支持に回った、などという話はよくある。

だが感性は、(変わらないとは言わないが)おいそれとは変わらない。何を美しいと思い、何を嫌だと思い、何を歓び何を恐れるかという、個人の存在を根底から支えている、いわば骨髄のようなものだからだ。

だから私はひととの付き合いで――誤解を恐れずに言うならば――思想信条が一致しているかどうかよりも、感性が近いかどうかを重視する(むろん思想信条が正反対、では困るけれども)。思想信条が多少違っても、感性が比較的近ければ言葉が通じ、胸襟を開いたコミュニケーションができる。知識をひけらかしあうのでなく、知らないことを補い合うことができる。同じ目的を目指して行動していても、感性が全く違う人達とは必ずと言ってよいほど、何処かの時点で袂を分かつことになってしまう。あるいは目的のために目をつぶり、多くのことを我慢して手を結び続けたとしても、(お互いに)疲れ果て、心がやせ細ってしまう。

「勉強」は大切。――と心から思う。だが、自分を取り巻く世界との関わりの中で打ち震える感性を目覚めさせておくことは、それ以上に大切だと私は思う……(勉強しない私は言うのは忸怩たるものがあるのだが。こういうことは、できればきっちり勉強しているかたがたに言っていただきたいものである)。

これは(長いか短いかはわからないが、ともかく)ある程度の年月生きてきた私の実感である。随分と大雑把かつ舌足らずな言い方なので、何つまらんこと言ってるんだと嗤う人もおられると思うが、馬鹿をさらしているということで御容赦。

〈追加の余談〉
私はヒトが書いた原稿(取材記事)を読んだ時、「これに関する詳しい知識はないけれども、でも、この部分は間違ってるんじゃないか」とカンが働くことがある。ときどき仕事として若い人の書いた記事を読むことがあるが、たとえば「この流れの中でこういうことは出てこないはずだ」「ここはごまかしがある。もう1度取材した方がいい」などと思い、そのことを言ったりする。これは職業上いつのまにか身についたカンであって、同業人は誰でも同じようなカンを持っているはずだ(どんな人でも、自分の仕事上や生活上で関わりの深いことについてはカンが働くと思う)。だから感性とは何の関係もないが、「感性」はこれと似た働き方をするのではないかと思う。何かに接したとき、「ごく基礎的な、だいたいの知識」に基づいて「おかしい部分」を察するカン……である。





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マスコミを乗っ取られるままにしておくな

2006-05-01 02:50:23 | マスコミの問題
連休前ということで(私は連休ではありませんが)片付けておかねばならないことが多く、取り急ぎ思いついたことだけメモしておく。

1)続・マスメディアを叱咤激励しよう

「雑談日記」さんからTBいただいたエントリ「『4月30日現在共謀罪取組政党別マスコミ別評価バナー』を作りました」(※)の中に、次のような一文があった。

【現状を見るならばマスコミ批判の潮流の方がまだまだ弱い、弱すぎると思っています。(中略)まだまだマスコミ批判の舌鋒は不十分で徹底的にやるべきです。そうする中で、良いものをほめる】
 ※http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2006/04/430_b55a.html

まだまだマスコミ批判は足りない――と思っておられる方は、ほかにも大勢おられると思う。実際、いろいろな方のブログを読むと、マスコミの姿勢に対する鋭い批判をよく見かける。

実のところ私も、今のマスコミ――特に巨大メディアと言われる所には愛想が尽きるほどだ。それでもなお、私は「この状況だからこそ、マスメディアを叱咤激励しよう」などと書いてきた。それは「まともな情報を受け取りたい」と思っている人々がマスメディアを見放した時、マスメディアは完全にダメになってしまう――乗っ取られてしまうだろうからである。

むろん、批判はすべきである。大本営発表のような情報の垂れ流しや、重要な情報を覆い隠すような働きをする紙面(誌面、番組)作り、一種のアリバイとしか思えない(薄い水割りのような)政治批評……等々、すべて「何考えてるんだ」と厳しく批判し、抗議しなければならない。

ただ、その場合、我々は「マスメディアをどう捉えるか」を自分の中で明確にしておく必要があると思う。敵であるのか、それとも味方(に引き入れたいもの)であるのか。

むろん、「マスメディアは百害あって一利なし。まったく信用できない。我々の側ではない」と言い切る立場もアリだ。だが、私はマスメディアを「百害の一方で、まだ一利ぐらいはある」と思っているし、少なくとも「あんたらは全くダメ」と十把一絡げに捨ててしまいたくない。捨てるにはあまりに惜しい、ということもある。また、私はメディアは本来、報道する側のものでも、ましてやスポンサーのものでもないと思っている。報道される情報を受け取る側のものである。だから「叱咤激励しよう」という話になるわけだ。報道の姿勢や視点のおかしさを批判・抗議し、何々を報道せよと要求し、良質の報道があれば応援し……という関わり方によって、マスメディアを我々の手に取り戻さねばならない。


2)メディア攻撃をガス抜きに利用されまい

郵政民営化を叫ぶ時に、与党は我々の中に潜んでいる「反公務員感情」のようなものをうまく利用した。公務員は親方日の丸でヌクヌクとやってる、という感情……。権力は仮想敵をこしらえるのが巧い。仮想敵というと話が大きくなるので、「みんなが石を投げる対象」程度の言い方をしてもいい。それに乗る方も乗る方ではあるのだが、それはさておき、おおっぴらに罵倒する対象が与えられればつい尻馬に乗ってしまうのは我々のなさけないところである。中国や韓国はけしからん、オウムの信者は悪いヤツラだ、このあいだ逮捕された○○(誰でもよい)は人だ、公務員は楽をしている……エトセトラ。

そのうちマスメディアも、具体的に何処が問題であるかがほったらかしにされたまま、「まともな報道など何ひとつしていない」「嘘ばかりついている」「バカだ」と気持ちよく罵倒され石を投げられる対象になりかねない……というのは私の妄想だろうか。一億総評論家になって「マスコミはダメなんだよねえ」などと言い、それで溜飲を下げてしまっては肝心のところに霞がかかる。

一番よくないのはマスメディア自身だが、「ダメだダメだ」の大合唱をしているだけではラチはあかないのである。マスメディアをこれ以上、堕落させまい。いや、むろん堕落するのは自業自得みたいなものであるけれども、堕落を嗤って眺めていた結果、ツケを払わされるのは……。


3)そして、マスコミで働くすべての友人達へ

むろん、メディアの仕事に携わる人々に対しては別のことを言いたい。私達はいま、崖の側まで追いつめられている。その崖は目に見えないから、つい日々の業務の中で見過ごしてしまいがちだが、足が崖っぷちにかかった時はもう遅いのだ。

たとえば先日来、多くのブロガーが危機感を表明している共謀罪。あれはメディアにも突きつけられた刃である。表現すること、情報を伝えていくことを使命とするジャーナリストにとって、「語ること」に縛りをかけられるのは死の宣告に等しい。与党の改定案が明示された教育基本法も同様。思想と表現を縛ろうとする動きは、すべてジャーナリズムの敵であると何度も何度も自分の中で確認し続けねばならないと私は思う。

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