華氏451度

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共謀罪の悪夢

2006-05-07 09:49:06 | 憲法その他法律


共謀罪誕生後の或る日――(これは私の脳裏に浮かんできた悪夢)

 週明けの昼下がり、久しぶりにAという出版社に足を運んだ。同社は古いビルのワンフロアにオフィスを構え、月刊誌をひとつ、ほかに月に1~2冊程度の割合で単行本を出している。営業や経理の担当者まで含めて総勢十数人の零細出版社である。

 入った瞬間、ひどく奇妙なものを感じた。いつもであれば、たとえ4、5人しかいなくても社内は幼稚園の庭かと思うほど明るくざわついているのに、今日は空気が通夜のように凍り付いている。いつもと違って「あっ、華氏さん。今日は何?」と威勢良く声をかける者もおらず、皆がいっせいにじろりとこちらを見ただけだ。ん?……と入り口の所で立ち止まっていると、一番奥にいた青年がやっと立ち上がり、小走りに近寄ってきた。入社して確か1年余り、ようやく仕事に慣れてきたタナカ君である。

「何か妙な空気だね。社長でも死んだの」
私が悪い冗談を言うと、タナカ君は「そんなあ……」と泣き笑いめいた顔をして、「ちょっと出ませんか」と囁いた。
「スズキさん(月刊誌編集長)と打ち合わせの約束があって来たんだけど。スズキさんは外なの?」
「そのことで……。僕もお茶飲みたいし」

 ビルの近くに、よく打ち合わせがてら使う小さな喫茶店がある。マスターが社長の古い友人とかで、A社の社員達は息抜きしたくなるとすぐここに来る。半ばA社の分室のような雰囲気になっている店だ。その奥の隅に腰を落ち着けるや否や、タナカ君はいきなり「社長は弁護士の所に行ってるんです」と言った。
「弁護士? 何か訴訟でも起こされたの」
 私は首をひねった。『月刊A』は政治や思想関係の雑誌ではなく、スキャンダルを追う雑誌でもなく、健康ものの雑誌である。主な中身は健康関連の生活記事やエッセイ、専門家による健康相談などで、毎号、健康をテーマにした対談もある。私はその司会と、記事のまとめを請け負っているのだ。A社が出している単行本も、健康関係の軽い読み物や情報本ばかり。つまりはごくごくおとなしい、言い換えれば毒にも薬にもならない類の出版社で、訴訟などという事柄とは縁遠い。もっとも、だからといって裁判沙汰が起きないとは限らないが……。それとも、雑誌や本とは関係ないところで何か問題が生じたのだろうか。たとえば社員の誰かが大きな事故にでも巻き込まれたとか、ビルの持ち主から追い立てをくらっているとか。
 
 その時、白髪のマスターが近寄ってきて、テーブルにお冷やを置きながらタナカ君に向かって「大変なことになったよね」と言った。マスターは事情を知っているらしい。
「だからさ、何があったの」
「ええ……」とタナカ君は口ごもっていたが、乱暴な仕草で水を飲み干すなり、「逮捕されたんですよ。スズキさんと、それから……」
 指を折りながら名前をあげていく。全部で5人、月刊誌の編集部員の全員に近く、逮捕されていないのは目の前にいるタナカ君ともうひとり、同じく若手の社員だけだ。 

「たいほオ? いったい何の容疑で」
「共謀罪だって言うんです」
「共謀罪? 何の共謀」
「労働基準法ですか、あれで規定されている強制労働の共謀ということで……」
『月刊A』で表紙などのデザインを頼んでいるデザイナーがいる。腕は非常にいいのだが、ややだらしないところがあり、二日酔いだの、うっかり忘れていただのと言って期日に遅れたことが何度かあった。そのたびに編集部員は冷や汗をかき、発行日に間に合わせるべく印刷所を拝み倒さねばならない。編集会議の席上でその不満話が出て、「誰かが事務所に行って、仕上がるまで見張っているしかないね」「ちょっと散歩、なんて言って逃げ出すんだよな、あの人」「だからさ、絶対に一歩も出さないようにするんだよ」「仕上がるまで家に帰さないわけ」「いっそ、ここに監禁して仕事してもらったら?」などと半ば本気で言い合ったらしい。

「らしい?」
「いや、僕はいなかったんです。実は病気でしばらく休んでまして、やっと昨日出て来たところで。だから逮捕されなかったみたいです」
「しかしねえ……お宅の編集部がね」 
 A社はとてものこと、当局に目をつけられそうな所ではないのだが……と考えているうちに、私はようやく思い当たった。
「Bさん……かな」
「あの評論家のBさんですか?」
「うん。彼の記事を載せてるんで、睨まれたかな」
 B氏は医事評論家だが、医療問題をめぐって昔から政府のやり方を批判し続けている。そればかりでなく先頃成立した憲法改定国民投票法に対する反対運動に名を連ねるなど、最近は幅広い活動が目立つ。『月刊A』との付き合いは長いそうで、今も同誌に連載記事を書いているのだ。

「でも、そんな……睨まれるような記事じゃないですよ」
 確かに政策批判ではなく、軽いエッセイではある。巷の健康情報などをネタにして、さらっと気軽に書いたという雰囲気のものだ。ちらっと皮肉が覗くところもあるが、普通はあの程度ならオカミも目くじら立てまい。睨まれたのは『月刊A』の記事ではない。
「目障りな人間は、干すつもりなんだよ。Bさんの記事を載せると睨まれるとわかれば、出版社はビビる」
「でもオ」とタナカ君は不満そうだ。「何でBさんなんですかあ。そりゃあの人はいろいろ言ったりしてるけど、もっと大物はいくらでもいるでしょう。たとえばほら、あの……」
「まさかノーベル文学賞受賞の世界的な作家は、干せないからねえ。著名な大学教授とかも。こう言っちゃ何だけど、Bさんあたりはスケープ・ゴートにしやすいというか、狙うのに適当な人なんだろうね」
「そんなあ……」

「これも言っちゃ悪いけど、お宅のような小さな出版社もスケープ・ゴートにしやすいんだよね。ほら、共謀罪で捕まったのって、小さな所の編集者や記者ばかりじゃない。まあまあそのうち、徐々に大手も狙われるだろうけど。……それにしても、編集会議の席で、ってことだったよね。誰かが通報したの」 
「どうやらワタナベ君が」と、タナカ君は彼以外に唯一逮捕を免れた社員の名を口にした。「警察に垂れ込んだらしいんですよ。義憤にかられてか何か知らないけど、訴えるなんてやり過ぎですよねえ?」
「義憤……じゃないよ多分」
「え?」
「向こうから接近してきたんだろうね、ワタナベ君に」
 タナカ君の顔が、可哀想なほど歪んだ。
「うちの雑誌、ハメられたってことですかあ?」
 スズキさん達がいなかったら、雑誌出せませんよ。うちの会社、つぶれるんでしょうか。僕、失業するんですか。共謀罪でみんな逮捕された編集部にいたなんて言ったら、何処も雇ってくれませんよ……と泣き言を並べるタナカ君を見ながら、私は共謀罪成立前後の日々を思い出していた。

 あの頃、マスコミは共謀罪に対して今ひとつ反応が鈍かった。個人的には危機感を持つ人間が多かったのだが、それがマスコミ内部からの大きな声にまとまっていかなかった。今も、巨大メディアはやや鈍い。最初の頃は主に、いわゆるピンク系の雑誌などを出している出版社の編集者が挙げられた。大手の新聞社や出版社を中心としてマスコミ内にも「下品な雑誌を作っている連中」というある種の偏見があり、それが「そういう連中だから違法行為もするだろう」といった冷ややかな感覚につながっていたように思う。そのうち反体制を標榜する雑誌の編集者が狙われるようになり、既に2~3の逮捕例がある。だが、いずれも吹けば飛ぶような小さな出版社の社員だから、巨大メディアは足元に火がついたと感じていないのかも知れない。いよいよ本格的な攻勢が始まっているのに……。
コメント (10)
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