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華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

医療と「市場原理・競争原理」

2006-07-31 03:21:59 | 格差社会/分断・対立の連鎖

1.企業経営の診療所がオープン

 新聞などで報道されているので既に皆さん御存知のはずだが、「構造改革特区」の制度による「株式会社の診療所」が7月29日にオープンした。再生医療ベンチャー企業「バイオマスター」が経営する美容外科診療所、「セルポートクリニック横浜」(神奈川県横浜市)である。

 構造改革特区というのは、「経済の活性化や地域の活性化のため、地域の特性に応じ、区域を限定して規制緩和をおこなう」もの(だそうである)。2001年に「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」が策定され、その翌年「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」の中で構造改革特区の導入が決定された(参考資料として、末尾に基本方針の一部を掲載しておく)。

 たとえば現在の法律では、「医業非営利の原則」により、営利目的で医療機関(病院や診療所)を開設することは禁じられている。民間企業が設立主体となるのは、「職員とその家族などのための福利厚生施設」の場合のみ認められているのだ。日立、マツダ、NTTなど幾つもの企業が病院を持っているが、それらはすべて「職員の福利厚生施設のひとつ」であり、地域への貢献などという名目で一般の患者も受け入れている形である。だが、プランを国に申請して認可されれば、企業が堂々と営利目的の医療機関を開設できるようになった(ただし保険を使わない自由診療のみ)。「セルポートクリニック横浜」は、その記念すべき第一号というわけだ。


2.ひと昔も前からの要求

「小泉改革」がスタートする以前から、経済界は医療への「市場原理」「競争原理」の導入を求めていた。たとえば日経連は1996年頃から民間企業の参入を認めるよう公に文書も提示して要求し続けており、その意味ではいま日本中に吹き荒れている「改革」は決して小泉純一郎という変人?が登場したためにハプニングのように出て来たものではなく、その前からひそかに望まれ、計画されていたものと言えよう(小泉首相でなければもう少し遅れたか、あるいはもう少し目立たぬ形で進められたかも知れないが)。

 私の周囲には医療問題に関心の深い人が多いのだが、実は彼らの間でも今回の診療所開設はさほど大きな話題になっていない。それはおそらく、この診療所が美容外科だからではないか。「豊胸? 顔のシワ取り? そんなもの医療じゃない」「やりたきゃ勝手にやれ」という冷ややかな感覚があるように思う。だが、いずれは他の医療分野にも企業が参入してくるのは目に見えている。


3.ある医師の取材体験から

 経済界のみならず、医療界にも「市場原理・競争原理の導入」を是とする人は少なくない。私は仕事で、そのひとり(あちこちで発言している、知る人ぞ知る医師)に話を聞きに行ったことがある。質問をはさみながら相手の言うことをじっくり聞いたのだが、途中であまりの噛み合わなさに音を上げたのを覚えている。喧嘩するのが趣旨ではないので懸命に抑えたけれども、取材を終えても不愉快きわまりない気分が続き、その夜は友人と飲んで悪酔いした(記事の中ではむろん発言はそのまま紹介したが、地の文は少々皮肉になった。おそらく彼の方も、二度と私の顔を見たくないだろう……)。

 彼の意見は、およそ次のようなものであった(その時のメモが何処にあるか探さないと出てこないので、細かな言葉使いは再現できない。ただし内容は正確である)。

○法律を改正して、企業が病院を経営できるようにすべきだ。人間は「利益を上げたい」と思うからこそ頑張るのであり、「病院だから儲けてはいけない」というのはおかしい。
○診療報酬の規定も取り払うべきだ。報酬は病院、または医師の側が自由に設定すべきである。たとえば外科医が手術1件1000万円と提示したとする。それでも彼が
優秀な医者であれば、1000万円払っても手術して欲しいという患者はいくらでもいるはず。逆にヤブであれば、1回1万円でいいと言っても患者は来ないだろう。腕を磨けば「1回手術して1000万円」の収入を得られるとわかれば、医者はみんな必死で努力する。結果として、医療の向上に役立つ。「優秀だろうとヤブだろうと診療報酬は同じ」などという状況で、誰が本気で努力するだろうか。


4.「金」は人間の尺度なのか

 この人は「すべてカネ」なんだな……と私はつくづく思った。そりゃまあ、私だってカネが欲しくないわけではない。あれば嬉しい。道で100円拾ったら、わくわくしたりする(セコイ!)。しかし人間の仕事は――何だか使い古された言い方で自分でも気が引けるのだが――カネだけじゃないだろう、とやはり私は思うのだ。私の仕事などなにほどのものでもないけれども、「これは」と思う仕事は足が出てもやる(おかげで食うためにセコセコとゴースト・ライターなどせねばならず、まったくもってナサケナイ)。そしてカネはそこそこ飢えないだけあれば充分で、使い道に困るほど欲しいとは思わない。

 そりゃまあね、私は優秀な人間じゃないし、医者のような社会的エリートから「おまえと一緒にすんな!」と言われても仕方ないかも知れない。でもねえアンタ、人間、金を尺度にするようになっちゃあオシマイよ。寝言言ってんじゃねえッ!

 いかん、ついつい感情がモロに出た(苦笑)。話を戻す……。


5.「多様な選択肢」の幻想

 前述の医師は、「医療がすべて自由競争になれば、全体の質が上がるだけでなく、患者のほうも選択の幅が広がっていい」という意味のことも言った。「多様な選択肢」というのは、いまの社会でよく使われる言葉だ。ほとんど耳にタコが出来ている。だが、多様な中から好き放題に選べる人間がどれだけいると言うのか。私を含めた多くの庶民は、「選択肢はたしかに多様に示されているけれども、実は選べるものは限られている」のではないか。

 以前、記事の中で書いたことがある。
「選んだつもりで、選ばされているのだ」
(自分の文章が、一番気軽に引用できるのである……)


6.人間が生きるベースの部分に競争原理を持ち込むな

 酔って眠気がさしてきたので、話を急ぐ。百歩譲って「市場原理、競争原理」が正しいとしても、それをすべてのところに応用できるか。私は、最低限「命」に関わる部分には導入してはいけないと思う。いわゆるゼイタク品なら結構ですよ。競争して下さい(私はハナっから買う気はないし)。しかし医療や福祉、教育その他、人間の「文化的な最低限の生活」を保証する部分、生きていくベースになる部分にそれを持ち込んではいけない。金があれば最高の医療が受けられ、なければのたれ死ぬしかない社会を選ぶよりは――いささか極論ではあるけれども、私は「みんなでのたれ死にに直面する社会」を選びたい。

 ガキじみた理想主義者と言われてもいい、私は「能力に応じて働き、必要に応じて取る」社会を夢見ている。子供の頃から夢見てきてこの年(笑)になったのだから、おそらく死ぬまで変わるまい。そのあたりのことは、あらためて書き留めておきたいと思う。


〈資料〉「構造改革特区の目的」
――構造改革特区推進のための基本方針(2002年9月20日・構造改革特区推進本部決定)より抜粋

 経済の活性化のためには、規制改革を行うことによって、民間活力を最大限に引き出し、民業を拡大することが重要である。現下の我が国の厳しい経済情勢を踏まえると、一刻も早く規制改革を通じた構造改革を行うことが必要であるが、全国的な規制改革の実施は、さまざまな事情により進展が遅い分野があるのが現状である。こうしたことを踏まえ、地方公共団体や民間事業者等の自発的な立案により、地域の特性に応じた規制の特例を導入する特定の区域を設け、当該地域において地域が自発性を持って構造改革を進めるために、構造改革特区を導入する。構造改革特区の導入により、特定の地域における構造改革の成功事例を示すこととなり、十分な評価を通じ、全国的な構造改革へと波及して、我が国全体の経済の活性化が実現するとともに、地域の特性が顕在化し、その特性に応じた産業の集積や新規産業の創出等により、地域経済の活性化にもつながる。
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小泉から安倍へ――ムルとトマシーナの会話

2006-07-30 14:59:05 | ムルのコーナー

深夜の公園で、またムルとトマシーナが喋っている。(※)

※ムル=都の東北を縄張りとする、ご意見無用の堂々たる?野良猫。ときどき華氏451度の代理で、UTSなどに顔を出し、青年マルコに「やたら小理屈の多いネコ」などと言われてしまった。  トマ=生まれて2か月で今の飼い主にもらわれてきた(飼い主はうまく押しつけられたとぼやいている)、箱入りお坊ちゃま。飼い主の悪趣味でトマシーナという女性名をつけられた。通称はトマ。ポール・ギャリコの『トマシーナ』とモーリス・ブランショの『謎の男トマ』を合わせたような贅沢な名前のわりには、ごく平凡な食っちゃ寝ネコで、ムルの腰巾着。

トマ:ねえ兄貴、人間の世界では安倍って人が総理になるらしいと騒いでるね。

ムル:そうらしいな。おれらには関係ねぇけどよ。でも、ほかにタマはねぇのかよ、とは思うよな。

トマ:あの人ね、本出したんだってさ。うちの華氏はそれを読んでブログとかに書いてさ、みんなにあきれられてたよ~。ハムニダ薫さんて人には「わざわざお金出して買って、ご愁傷さま」なんて言われてたし。

ムル:けけけ。まっ、あいつは活字中毒で、書店に並んでる本を玉石混淆で片っ端から読みたい奴だからなぁ。普通はわざわざ読まんで。

トマ:安倍って人、人間には人気があるのかなあ。今の小泉って人も、人気があるんだってね。僕には何処がいいのかサッパリわかんないけど。

ムル:小泉人気かあ……わかる気はしないでもないな。つい2~3か月前だけどさ、おいらが道端で居眠りしてたら、タクシー運転してるおっちゃんが二人、車止めてペットボトルのお茶か何か飲みながら話してるのが聞こえてきてさ。「もっと小泉さんに頑張ってもらわないと」って言ってるわけ。もっとどんどん改革を進めてもらわなきゃ、ってニュアンスだったな。

トマ:その人達、「勝ち組」ってやつなのかしらん?

ムル:そうじゃねぇと思うけどな~。生活きついってぼやいてたし。でも、多分「完璧負け組」だとは思ってないし、そうなりたくないと必死なんだろうな。でもって、世の中が「改革」されたらもう少しよくなるんじゃないかと幻想持ってるんだと思う。

トマ:改革って、小泉流の改革?

ムル:何流か知らねぇよ。ただ、「改革」って、すごく耳障りがいいじゃん。小泉っていう男は、その言葉も合わせて、いやに「颯爽としたイメージ」を振りまいて登場したんだよな。今までの自民党の首相とはどっか違うぞ、という感じ。確かに何つうか、自民党の政治家ってひとつのイメージがあったじゃんか。ちょっと腹の出た泥臭いオジン。選挙民の前で土下座したりさ。で、地元の利益とか、自分の懐こやすとか、そういうことばっかり考えているというイメージ。自分の出身地に強引に駅作ったなんてのもいたしさ。

トマ:小泉って人は、そういう政治家とは違うイメージだったってわけ?

ムル:まぁな。日本の国の明日を考えてます、理念があります、というイメージだけは振りまいてた。見た目も若干違うだろ。あの髪型とかもさ、「今までの自民党の政治家とはひと味違う」っていう感じを持たせたんだと思う。「今までの常識とはちょっと違う」のが出てくると、期待を持つっていうか、好意的に解釈してしまうとこがあるんだよな。「今までの常識」がおかしいとしても、ほんとはどう破るかの方が大切なんだけどさ。

トマ:女の人とかにも人気あるんだって?

ムル:らしいな。おいらには、なんでなのかサッパリわからんけど。

トマ:人間の女性って、趣味が悪いのかな。

ムル:そんなことねぇと思うけど……。女性の人気ってのも、底には今言った「これまでの自民党政治家とはちょいと違うぜ感」があるんじゃないかなあ。若者に人気――があるかどうかは知らんけど、あるとしたらその場合も同じじゃないかな。

トマ:人間は今までの自民党政治家に飽き飽きしてて、だから「ちょっと違う」ふうに見えるのが登場したら喝采送ったというわけ?

ムル:そう言っちゃうと単純すぎるかなあ……でもぶっちゃけて言うとそういう面も大きいんじゃねぇのかな。それに人間って、言いたいことを言う奴、中身はどうであれ派手にものを言う奴を「カッコいい」と思ってしまうとこがあるんだよな。憧れるっつうか。地べた這って生きてりゃ、普通、なかなかそうはできないもんな。

トマ:だからそういうの見るとスカッとする?

ムル:うん。都知事の人気にも、そういうところがあると思う。強いリーダーという感じもするんだろうな。なんで強いリーダーが欲しいのかわからんけど、世の中が悪くなってくると「強いリーダー待望論」「英雄待望論」が出てくるのが世の常らしいや。誰か何とかしてくれ~!という感じかな。

トマ:何か怖いね……。

ムル:そりゃ人間もね、バカじゃねぇからさ。小泉の改革って自分達のためのものじゃないらいしぞって内心気づいてると思う。でもいったん賭けちまったからには、少々のことじゃ賭けから降りられないのさ。パチンコ行って1000円すっちゃうとするだろ? そこで止めときゃ傷は浅いのに、損を取り戻したくて台にしがみついて、結局1万円すってしまいました、ということになる。

トマ:変なたとえだなあ……。

ムル:じゃあ、こう言おうか。ある女性が、結婚した。相手の男のことはよくわからないが、ともかくそれまで会って失望させられた男とはちょっと違うように見えた。言うこともカッコよく思えた。でも結婚してみたら、とんでもないエゴイストの暴君だった。そんな男にはさっさと見切りつければいいようなもんだけど、彼女は自分の最初の選択が間違っていたと思いたくない。だから「ほんとはイイ人なの」「この人が言うようにしていれば幸せになれるはず。いま不幸なのは私の努力が足りないのね」などと自分自身に言い聞かせて、地獄への道一直線……。

トマ:それってバタード・ウーマンのパターンみたい(笑)。でもさ、小泉はもうすぐ辞めるわけじゃない。その後は安倍って人が有力だそうだけど、この人はなんで人気があるのかなあ。

ムル:ほんとに人気、あるのかなあ……。いわゆる庶民っつうの? おまえんちの華氏みたいな連中には人気ないと思うぜ。ただ、みんなもう完璧に失望してるのかもな。「誰が首相だろうと結局、よくなるわけがない」って。だからもう冷ややかになっちゃって、興味がないと言うか……。ただ、周囲は「人気」を作り上げていくだろうな。本とやらを出したのも、人気作りのひとつ。

トマ:とんでもない本だったそうだけど、そんなもので人気が作れるの?

ムル:知るか、そんなこと。でもあの本は、努力とか可能性とか平和とか、キレイキレイな言葉がテンコ盛りだっていうじゃん? 

トマ:「みずからかえりみてなおくんば、千万人といえどもわれゆかん」って言葉も出てくるんだって。華氏がひっくり返って大笑いしてた。いやあおもしろい、寄席行くよりおもしろいって笑ってたよ。

ムル:おいらも笑っちゃうぜ~。みずからかえりみて正しいと思ったから、千万人に非難されても覚悟の上で統一協会にも祝電送ったのかね。その割には言い訳がしみったれてたけどな。

トマ:ふふ……。あれじゃあ、孟子も泣くよね。

ムル:でもそういう言葉って、考えてみるとほんと危険だよな。人間、キレイで颯爽とした言葉には弱いから。言葉なんて道具に過ぎないのに、人間はそれに酔うから始末悪い。こういう言葉が塗り重ねられていくと、「安倍さんってイイコト言うじゃん」と人気めいたものが醸し出されてくるんだろうな。イイコトだけなら誰でも言えるぜ。おいらだって言えるぞ。

トマ:小泉は「出るべくして出て来た首相じゃないか」という話もあるよね。安倍もそうなのかな。

ムル:安倍晋三という政治家個人がどうこうって問題じゃなくてさ、「ああいう政治家」が出てくる方向なんだろうなとはおいらも思う。

トマ:ああいう政治家?

ムル:「日本! 日本! 日本!」って叫ぶ愛国心政治家。小泉もそうだったけど、安倍はその部分がさらに肥大してる気がする。いよいよ時計の針が戻るな。

トマ:何でそんな政治家が出てくるわけ?

ムル:「いいことなんか何もない」っていう息苦しい状態になると、なぜかアイコク的気分が蔓延してくるんだよな~。「大道廃れて仁義あり、(中略)国家混乱して忠臣あり」とかって昔のエライ人が言ってるだろ。道が廃れたから仁義がことさらに言われるようになったし、国が無茶苦茶になったから忠臣が讃えられるんだ、って意味らしい。仁義だの忠臣だのが言われる世の中は不幸だぜっていうことだよな。

トマ:兄貴、老子とアイコク的気分とどう関係あんのさ?

ムル:黙って聞けって。愛国心なんてことがことさらに言われるのは、世の中がおかしいことの証拠だとおいらは言いたいの。こんな国ヤダ、と思うから、愛国心~に酔ってしまう。オカミのほうもそういう気分を利用する、というか煽るんだよな。この国は多分、袋小路に迷いこみ始めてる。だからヒステリックな愛国心が生まれるし、そこんとこでいい気分にさせてくれる政治家が歓迎されるんじゃないかな。そりゃ前々から「愛国心! 愛国心!」とわめくのはいたよ。ほら、さっき話に出た都知事とかさ。自虐史観がどうこう、なんて言ってる連中とか。でも、あれは趣味で言ってるんだ、しゃーねぇな、みたいに距離をとって見ている人が多かったとおいら思う。半ばおもしろがったり。ところがさ、最近は趣味じゃなくなってきたんだよな……。この辺で立ち止まって方向転換しないと、ほんとにこの国はヤバイぜ。

トマ:自分の亭主はダメな奴だとうすうすわかってるからこそ、誰も聞いてやしないのに「私は彼を愛してるのよ!」と大声でわめいて回ってるって感じ?

ムル:おまえも変なたとえするじゃんか(笑)。ま、雰囲気としてはそうかな。もうひとつ、世の中が息苦しくなってくると、「生け贄」を欲しがるっていうところもある。誰かを虐めたくなるんだよな。でも普通の人間は誰でも彼でもやみくもに虐めるのはさすがに後ろめたいんで、「あいつは悪い奴だからどんなに叩いても大丈夫」な存在を求める。それについては、「美しい季節とは誰にも言わせまい」のnizanさんて人が鋭いことを言ってるよ。

【北朝鮮や金正日なら、いくらでも批判できるし、叩ける。劣情満載でテレビのワイドショーでいくら、激烈な言葉を吐いても許される。そう、みんな生贄が欲しいのだ。つい、この間までは、光市母子殺人事件の犯人がその劣情の生贄だった】(『国防と劣情』より引用)

トマ:なーんか、ヤな感じ。

ムル:オレは強いんだぞ、オレは正しいんだぞ、って言いたいために誰かを虐める。虐めないと自分の強さや正しさを自分で納得できない。不幸なことだと思うぜ、ほんとに。人間は万物の霊長とかって威張ってるけど、そういうとこを見るとつくづくアホだと思わないかい? 神様とやらがいたら、こんな生き物を作ったことを後悔してるんじゃないかなあ。

トマ:そうじゃないってことを証明して欲しいよね。

 

 

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絶望の果てに来るもの

2006-07-26 22:41:41 | 雑感(貧しけれども思索の道程)

 7月23日にNHKで『ワーキング・プア~働いても働いても豊かになれない~』と題する番組が放映された。私はこの番組は観ていない。というより、普段はテレビを観る習慣がほとんどないので、これも見逃してしまったのだ。ただ、この番組は放映された翌日から私の周囲でも大きな話題になっており、おかげで大まかにではあるが内容は掴めた。

 ブロガー達の中にも観た人は多いようで、とむ丸さん、玄耕庵日乗の素楽さんら、何人もの人がブログで触れておられる(登場した貧困層の人々の実情については素楽さんがわかりやすくまとめておられる。観ておられない方はそちらを参照していただくとよい)。

 ともあれ自分は観ていないので、番組自体に対する感想は述べられない。だが「一生懸命働いても最低限の生活さえ保障されない層」が増えていることはよく知っているので、そのことについては語ってもよいかと思う。

 このエントリを書く直接のきっかけになったのは、素楽さんの記事に寄せられた、愚樵さんの次のようなコメントである。(勝手に引用して、素楽さん、愚樵さん、すみません)

【日本もいよいよ戦争のできる国に変容しつつあるということでしょうか。改憲のような法制度の面だけでなく、国民生活のありようも戦争ができる状態になっていくようです。ワーキング・プア層は兵士予備軍となっていくでしょう】

 明日に希望が持てなくなった時、ひとは何を考え、どんな行動をとるだろうか。自死を選ぶこともあるだろうし、そのほかたとえば――自分よりももっと不幸な存在を探して(場合によっては作り上げて)、「自分はまだマシだ」とひそかに安堵する。自分よりも弱い存在を見つけていじめ、ひそかに溜飲を下げる。あるいは思考停止状態に陥って、大きな声で何かを指し示してくれる(ように見える)リーダーを求め、言われるままの行動に身を任せる。

 働けど働けど――の絶望的な状況に陥っても、崇高な精神と明晰な目を持ち続けられる人もいるだろう。だが、皆がそうではあるまい。私自身、飢えと隣り合わせになれば自分の人間としての矜恃を何処まで保てるか自信がない。世の中のすべてが信じられなくなり、どうでもいいと自棄的になってしまうかも知れない。「みんな滅びてしまえ」と悪魔的な気分になるかも知れず、強盗をしてでも今日を生きるための金が欲しいと思うかも知れず、ふらふらとカルト宗教に近寄るかも知れず……。

 そんなのはおまえだけだ、って? そうだろうか。私は人間はそれほど強くない、と思う。絶望すれば何をしでかすかわからず、一杯の飯と引き替えに魂を売り誇りを売り思想信条を売り、親兄弟や友人も売ってしまいそうな自分の危うさをよく知っているがゆえに、私は「絶望したくない」と心から思い、そして誰をも絶望させたくないと思うのだ。

 人は希望がなければ生きられない。パンドラの箱でさえ、その底には「希望」が残っていた。だから絶望すればするほど、せめて「希望の幻想」にすがろうとする。さらに言えば絶望と真向かった人間は当然のことながら自信を喪失し、自虐的な気分に満たされているから、すべてのことに受け身になってしまう。差し伸べられた手には、それが冷静に考えれば嘘くさいものであっても、遺棄された子供のようにすがりつく。これほどコントロールしやすい存在はあるまい……。だから……大量の「負け組」なるものが産み出され、再生産され、さらには絶望する階層が産み出されつつあるのは、確かにこの国の為政者の巧みなシナリオだったのかも知れない、とふと思った……。

 私はごく若い頃から、社会がもっと悲惨になればいい、さもなければ革命は起こらない――というネチェーエフの思想に幾分か惹かれるところがあった。だが今のこの国の現状を見ていて、それはやはり間違っていたかも知れないと思い始めている。絶望は革命のエネルギーにはならない。

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安倍官房長官の「本」

2006-07-24 23:19:19 | 本の話/言葉の問題

〈なぜか安倍官房長官の本などを……泣〉

 私は活字中毒で、手の空いている時は何か読んでいないと落ち着かない。常に読むことに集中しているとは限らず、目は字を追いながら、頭では別のことを考えていたりするのだけれども(つまり環境テレビならぬ環境活字として、本を利用している面もあるのだ)。そんなわけで出かける時は必ず本を携えるか、さもなければ駅前の書店でひょいと何か1冊買う癖がある。軽くて携帯に便利というだけの理由で、持ち運ぶのは文庫か新書が多く、電車の中などでハードカバーの本を開くことは少ない。

 今日は何と……安倍晋三著『美しい国へ』(文春新書)を読んだ。数日前から、この本が書店に平積みされているのは知っていた。本当は読む気はなかったのだが、とくらさん再出発日記さんがブログで話題にされていたので、ついつい買ってしまったのだ……。いや、ヒトのせいにしてはいけない。読んでおいた方がいいかも知れない、という気持ちは(ほんの少しだけれども)自分の中にあった。安倍官房長官の本? 読まなくてもわかるさ、読むだけ無駄じゃん、という方も多いだろう。しかし、「読まなきゃわからない」ことも世の中には少なくない(と私は思う)。どれほど馬鹿げていたとしても、そのくだらなさの度合いは読んで改めてわかる、ということもあるのだ(読まなくても100%わかるという方は別。私はあまりカンが鋭くないので、読んで初めてわかる人間である)。読んでみたら意外な発見が……ということもないではない。というわけで、730円プラス消費税を支払った。(ひどく損したような気になって、おかげで今日の昼食は立ち食い蕎麦ですませるはめに陥った)

〈おそらくゴーストライターの代筆であろうが〉

 この本は安倍晋三著、となっているが、おそらく90%以上……私の感覚では99%の確率で、本人が書いたものではあるまい(世の中には意外な事実というものもあるから、100%とは断言できない)。秘書が書いたか、あるいはフリーの人間がゴースト・ライターをしたのかはわからないが、いずれにしても「代筆」であろうと思う。もっとも――書店に並んでいる本は小説以外、かなり高率で代筆なのだが、「だからダメ」とは私は思わない。訴えたいこと、記録に残しておきたいことがあるが、忙しくて文章書いてる時間がないとか、文章を書き慣れていないなどの理由で書けない人達が代筆を頼むのは、悪いことではない(ちなみに、ゴースト・ライターというのは私のような二流のフリー・ジャーナリストの収入源のひとつでもある。私は自分の信条として政治家とタレントさんのゴーストはしたことがないが、僻地で長年教育に携わってきた小学校教師だの、伝統工芸の職人さんだのの著作?を代筆したことは何度もある)。

 そしてたとえ実際に書いたのはゴースト・ライターであったとしても――従って構成や表現は彼のものでなかったとしても(ゴースト・ライターは独自に資料にあたるのはむろんのこと、場合によっては名義上の著者に代わって取材することもある。ライターが文中で使った故事を名義上の著者が知らず、あれはどういうことですかと密かに聞いた、などという話も枚挙にいとまがない)――「言いたいこと」の核は彼のものであるはずで、私はその部分だけを読み取りたいと思った。

〈あなたの言葉と私の言葉〉

 言葉というのは便利なものだな――というのが、『美しい国へ』を読んだ私の第一の感想である。

 著者(本当に自分が書いたかどうかは別として、少なくとも名義上の著者ではある)安倍氏は、この本の中に叡知、努力、可能性、信念、未来、平和、理想……エトセトラ、誰もが否定できない高邁な言葉をこれでもかと言うほどちりばめる。いや、単語だけではない。

「自らかえりみてなおくんば、千万人といえども吾ゆかん」という孟子の言葉を御存知の方は多いと思う。安倍官房長官は著書の中で「私の郷土である長州が生んだ俊才、吉田松陰先生が好んで使った言葉」としてこれを紹介し、自分の「信念」に重ね合わせている(孟子の言葉は、もしかするとゴースト・ライターが安倍氏の主張をきらびやかに飾るために挿入したのかも知れない)。

 私は孟子も吉田松陰もさほど好きではないが、安倍官房長官に引用されて嬉しくはないだろうな、とは思う(先生、などと言われても嬉しくはあるまい)。「千万人といえども」などと格調高く言われると、私を含めた雑草のような庶民はつい納得してしまう。しかしよく考えてみれば、「千万人といえども」と思っているのはお互い様なのである。

 観念的な言葉など何ものでもないということを、この本はあからさまに見せてくれる。上滑りな美しい言葉は人を酔わせるが、「それらの言葉が意味するところ」を私達は冷静に見ておかねばならない。

〈すり替えの論理〉

 ずらずらと並んだ綺麗な言葉を「そんなもの、単なる言葉だろ」と言い捨てれば、この本は突っ込みどころ満載である。いちいち書いていると果てがないので(私のエントリはやたら長くて読みにくくわかりにくい、という助言を戴き、多少は反省もしているのである……)、例として二つ三つ挙げておく。

○空き缶投棄と愛国心

 著者は日常的なモラルと「国に対する愛」を結びつける。かなり粗雑な結びつけ方だが、粗雑であるがゆえに、うっかり読み飛ばせば納得しかねない怖さがある。

【飲み終わったジュースの空き缶を平然と道端に捨てられる人は、その土地に愛着を持っていない人だ】(94ページ)

 自分か帰属している土地を綺麗にしたいという郷土愛、それが国に対する愛につながると安倍官房長官は言う。ちょっと待てよ、と思うのは私だけだろうか。

○改憲論

 直接的には「改憲すべき」という主張は述べられていないが、「9条否定」の思想は繰り返し繰り返しBGMのように流れている。

【たとえば日本を攻撃するために、東京湾に大量破壊兵器を積んだ工作船がやってきても、向こうから何らのま攻撃がないかぎり、こちらから武力を行使して相手を排除することはできない】(133ページ)

【憲法という制約を逆手にとって、きれいな仕事しかしない国が、国際社会の目にずるい国だと映っても不思議はない】(141ページ)

 彼は、「国を守る」ことを至上の課題とする。「国家のため、国民のため」という表現をしているが、彼の中でどちらが重いかといえば「国(=国体)」のほうであろう。

○再チャレンジの思想

「顕著な格差の拡大は見られない」と(小泉首相そっくりのことを)言いつつ、「負けた者が再挑戦できないような社会は絶対にダメ」と言う。何気なく聞いていると「そうですね」と頷きそうになるが、これまた「ちょっと待て」である。彼はひとの人生を「勝ち負け」で色分けしているのだ。

【競争がおこなわれれば、勝つ人と負ける人が出る。構造改革が進んだ結果、格差があらわれてきたのは、ある意味で自然なことであろう】(224ページ)

 駆けっこをしたり相撲をとったり、囲碁将棋の盤に向かうなら、そりゃ勝ち負けは出るでしょう。しかし人間が生きるというのは、そんな単純なものじゃあない。勝つとか負けるとか、そんな価値観でキレイに整理できるはずないだろう。人間の人生の勝ち負けを言える者があるとすれば、それは――無神論者の私が言うのはおかしいのだが――神仏だけである。(6月30日付けで「再チャレンジなどいたしません」という記事も書いたことがある)

◇◇◇

以上、簡単な紹介のみ。興味が湧かれたら、書店で立ち読みしてください(ますます腹が立ってくるので、その意味で値打ちがあるかも知れない)。綺麗な言葉の羅列が目立つ代わりさほど目新しいことが書かれているわけではないから、速読できる(綺麗な言葉というのはこんなふうに使うのか、という参考にもなるかも知れない……)。

 

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靖国問題に関する基本線

2006-07-22 01:50:28 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

 昭和天皇の靖国神社A級戦犯合祀に対する不快感を証拠立てるメモが発見されたというニュースがあった。

【昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)について「あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと話したとするメモを、元宮内庁長官の富田朝彦氏(故人)が残していたことが20日、分かった。昭和天皇は戦後8回、靖国神社を参拝したが、75年11月を最後に参拝していない。メモからは、昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示していたことが読み取れる。】(7月20日、時事通信)

 この問題について新聞報道や閣僚発言などが相次ぎ、何人ものブログでも扱われていた。私自身の所にTBいただいたり、私も参加しているUnder the SunへTBが入っていて読んだものとしては、たとえば「日本がアブナイ!」、「反戦な家づくり」、「お玉おばさんでもわかる政治のお話」など(追加――記事書いた後で、「とりあえず」でも取り上げられているのを発見)。これらを読んで戴く方がためになると思うが、そんなこと言っているとブログ書いてても仕方ないだろ、の話になってしまうので一応私も書いておく。

〈明月さんの記事より〉

「反戦な家づくり」の明月さんは、次のように書かれている。

【私もそうなのだが、もともと天皇制に反対していると、この天皇の発言に対してどう反応して良いのか、迷ってしまうかもしれない】

 私もまさしくそうだったのである。天皇が「快」であろうと「不快」であろうとどちらでもいい、というのが私の基本的なスタンスだ(現天皇の憲法を守ってうんぬんの発言があっても、だからと言って現天皇を護憲の旗印にしようとは思わない)。「天皇の言葉」は諸刃の剣。そういうメモがあったという事実は押さえておきたいが、鬼の首でもとったように騒ぐのは「ちょっと待てよ」とも思う。

 だが、次の文を読んで、ある種の「意味」(それも考えようによっては大きな意味)は存在するかも知れないと思い直した。明月さんは小泉首相と記者団のやりとりを紹介し、「それぞれの心の問題」という言い逃れを厳しく批判する。そして次のような意見を述べておられた。

【安倍やつくる会などの極右勢力は、「A級戦犯は無効だ、犯罪人ではない」という類の詭弁を繰り返してきた。ここで、そのデタラメ見解へのなし崩しを許さずに、安倍自身の口から「A級戦犯は犯罪人」と言うことを確認させたのは大きい。】

【民主も共産も社民も、迫力無さ過ぎ。これで一気にコイズミと安倍を引きずり降ろそう、くらいの気力が無くて何の野党か。】

 確かにその通りである。天皇を崇拝しつつ、東京裁判は誤りであったと言い、A級戦犯を犠牲者のように語る人々は、この天皇発言についてどんな見解を持つのだろうか。小泉流にいつまでも「心の問題」ですませておくわけにはいくまい。

 

〈私の基本的な考え方〉

「日本がアブナイ!」のmewrun7さんの記事の中に、次のような一文があった。

【私個人はA級戦犯を分祀することによって中国、韓国が批判しないように
なれば、首相の靖国参拝はOKになってしまうという解決の仕方をされるのには、
疑問を覚える部分がある。】

 私も同じような危惧を強く持つ。むろん、A級戦犯が祀られているというのは大きな問題であるけれども、A級戦犯さえ分祀されれば、それで何の問題もなくなり、すべて丸く収まるのか。そうではあるまい。B級C級はどうなのだ、という議論もあるが、それよりも私は靖国神社の思想そのものが一種の「危険思想」だと思っている。これが靖国問題に関する私の最も基本的な部分、と言ってよいだろう。

 靖国神社は、神社自身の説明によると「最初は戊辰戦争で斃れた人達を祀り、後に国内の戦乱に斃れた人を合わせて祀り、明治10年の西南戦争後は外国との戦争で日本の国を守るために斃れた人達を祀ることになった神社」だそうである。同神社ホームページには「(靖国神社に神として祀られている人達は)日本を守るためにその尊い命を国に捧げられた」という言葉があり、また「靖国神社にお祀りされている英霊を奉慰顕彰するとともに、そのみこころを受け継ぎ、健全なる国民道徳の作興と国家社会の安泰に寄与する」という目的の会「靖国神社崇敬奉賛会」も組織されている(名誉会長は靖国神社宮司)。同会では「名誉の戦死」を讃えたり「国民は靖国神社に象徴される愛国心を持つべき」などのテーマの講演やセミナーなどがおこなわれているようだ。「天皇の赤子(せきし)」として1銭5厘(ハガキ代)で徴兵され、死を強要された人々を「英霊」と讃え、その死(国のために死ぬこと)を美化する思想がここにはある。

 私は徴兵されて戦場に行った人々を非難する気はない。彼らが「国を守ろうという純粋な気持ち」を(たとえ教育や意図的な報道によって一方的に刷り込まれたとしても)持っていたのも事実であると思う。しかしその死を美化してはいけない。美化するのはむしろ、彼らに対して失礼なことではないか。彼らの死を悼むのであれば、二度とそんな馬鹿馬鹿しいことは繰り返さないと決意し誓うべきであろう。(もちろん戦死者だけでなく、戦災で亡くなった人々を始め戦争によって直接間接に命を奪われた人々すべてに対して)

「A級戦犯を合祀しているからよくない」と主張する人は少なくない。たとえば民主党の岩國哲人・衆議院議員。彼は昨年、大阪高裁の判決があってすぐ、自身のサイトで「A級戦犯合祀後は天皇の参拝は1度もない」ことに触れ、「亡くなられた方への追悼の意を、そして今後の平和を願ってというのであれば、総理大臣以上に、日本人にとって大切な天皇陛下という国民統合の象徴、その方こそ先頭に参拝されるべき」であり、天皇が参拝しない神社への参拝に固執するのは「天皇から認証された行政の長として、国民統合の象徴である天皇に対する不敬行為ではないか」と書いている。かなり多くの賛同を得られそうな意見――ではないかと思う。(で、あるがゆえの危険性についてはここではいったん置く)

 ひとまず「A級戦犯の合祀に天皇さえ不快感を示している神社に、なぜ首相が参拝するのか」という線で政府を追及するのは悪くない。追及すればするほど、ボロが出てくるに違いない。だが、それだからこそ、私は同時に自分自身の中であらためて念を押しておきたいのだ。「国のために命を落とすことが尊いなどという思想を掲げる神社は、きわめて危険な存在である」と。(国、というものについては何度か書いている。最も近いところでは7月14日のエントリにも少々)

追記/私はどんな「危険思想」や「風変わりな思想信条」も、存在を否定、抹殺しようとは思わない(そのことは、何度か書いていたような気がする)。たとえば「天皇は神であり日本は神国である」と信じようと、「日本をアメリカ合衆国の51番目の州にしてもらいたい」と望もうと、「△△教の教祖・△師は世界の救世主」と崇めようと、「働けなくなった老人は姥捨て山に送るべきだ」と考えようと、「一夫多妻(または一妻多夫)がいいなあ」と憧れようと、「人間は他の動物と同様に裸で暮らすべきだ」と思おうと。そして同好の士?が集まって気勢を上げている分には、いくらやっていただいても結構である。他人に説くのも、まあ結構(違うと思えばこちらはそう言うだけである)。しかし、そういった奇妙な考え方を国中の人間が持つべきだとなれば迷惑だし、「公僕」に持たれるのも困る。所属する人間の命を犠牲にしてまで守る国(ここでは国体という意味に解釈していただきたい)など、無い。あるいは存在してはならないのである。

追記2/「戦死者の遺族の気持ちを考えたことがあるのか」(靖国神社の否定は遺族の気持ちを踏みにじるもの)という言葉がある。私はそれを聞くと、死刑廃止を唱えるたびに投げかけられる「遺族の気持ちうんぬん」という罵倒を連想してしまう。死者を悼む感情を利用してはいけない。

(ところどころ文字が大きくなっているのは単なるミステーク。面倒臭いからまだ直していないだけである……すみません。私は普段はテキストを使っており、HTMLはちょっと使いにくいもので)


 

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「国防アンケート」について

2006-07-18 02:14:26 | 戦争・軍事/平和

7月14日のエントリで、Under the Sunの「国防に関するアンケート」を紹介し、参加を呼びかけた。私自身の考え方はエントリの中で書いているが、「全世界の非武装を目標とする」 「武力攻撃を含めた侵略や弾圧に対しては非暴力・不服従を貫く」というのが基本である。

ところでこの記事について(と言うよりこのアンケートについて)、いつも貴重なご意見をくださる布引洋さんから「非常に悪質なアンケートである。即刻中止すべき」という厳しい指摘があった。下に布引さんのコメントをそのまま掲載する。

【最初、このアンケートを見た時、読売新聞が始めたのかと思いました。(即座に中止するべきです)非常に悪質です。(単に無知なだけかも知れませんが)まず第一に日本の安全と国防と言う名称が間違いで軍事問題とすべきです。第二に七つの選択肢の内、軍縮は一つだけでその他は現状肯定か軍備増強になっていて明かに公平さに欠ける。第三に『外国が攻めてきたら』の設問が間違いで、世界第二の経済大国が攻められる可能性より、攻める可能性の方が遥かに高い。第四に軍隊の本質を間違っている。軍とは本来国民を抑えるもので、余裕が出来た時には他国に侵攻する。第五に憲法の精神と真っ向から反するアンケートを、今する意義が考えられない。第六に軍事は政治の内で、非常に小さい問題しか解決しません。軍事は軍事問題しか解決しない。(万能薬ではない)こんなアンケートが今出てくる現状の、問題点こそ議論すべきでしょう。何時も思うのですが、正しい質問は、質問された時点で大方は正しい答えが出ています。間違った質問からは、間違った答えしか帰って来ず、正しい答えは、正しい質問からしか出てきません。】

このご意見に対して私は「ご指摘については非常によくわかるが、このアンケートは自体は悪質とは思わない」とご返事し、理由として次の4点を挙げた。○最低限でも、軍事、軍隊、自衛隊などについて「考えてみる」機会になる。○「その他」の選択をされた中に、「この設問自体に疑問」という意見もあった。そういう意見にも基づいて、ゆっくりと深めていくべき問題であろうと思う。○選択肢の多くは言われるように現状肯定か軍備増強だが、多くの人は軍縮を選ぶのではないか。○「国防ではなく軍事問題」というご意見はその通りなのだが、同時にあえて意識的に「国防」と言う言葉を使う意味もないではない。私自身、その言葉に反応して「では国とは何か」を改めて考えた。

それに対してまた丁寧なご返事があり(詳細は14日のコメント欄)、いまかなり真面目にさまざまなことを考えている。

設問に対する疑問は、「再出発日記」さん、「アルバイシンの丘」さんら、お付き合いいただいている何人かのブロガーの方が表明されていた。また、布引さんの問題提起は多くのブロガーに「考えさせた」ようで、ヘンリー・オーツさん、「独裁制をぶっ壊そう!」さんらが記事を書いてTBしてくださった。皆さんのブログを読めば読むほど、私の(もともとあまりよくない)頭はもつれた糸のような状態になる。

布引さんの指摘は正しいと思うのだ。再度いただいたコメントの中には、【皆さんご存知のように世論調査(アンケート)は設問しだいで幾等でも結果を誘導できます】という言葉があった。そう……それは全くのところ、自明の理なのである。私自身、「世論調査の陥穽ということ」「改憲賛成65%? 冗談は休み休み言って欲しい」「世論調査のいかがわしさ」などのエントリで何度か世論調査の陥穽について書いてきた覚えがある。(余談だが、社会学を専攻したことと、マスコミの世界にいることとで、答えを誘導する設問の作り方も知っていたりする……)

ただ……それは百の承知の上で、私はこういう議論が巻き起こったことだけでも、今回のアンケートは「ひとつの成功」であったとも思う。私は人間が甘いのかも知れないが、「正しい方向を模索するためには、何でもやらないよりやった方がまし」「道はすべて試行錯誤。間違っていればその場で衆知を集めて改めればいい」と思っている人間である。見る前に跳べ――なのだ。

Under the Sunは、小さな輪である。「勝手連的に集まっているだけ」と呼んだ人もいるが、要するに我々の今日と明日とを少しでも息苦しくないものにしたい、未来の人達に対して誇れる社会にするためにほんの少しでも何かをしたい、と思ったブロガーが、「小異を捨てて大同につく」精神でゆるやかに手を結んだのである。

ピラミッド型の組織ではない。カリスマもいらない。そういう「輪」だからこそ、私は伸びやかに育って欲しいと思う。そのためには、互いを尊重し合った自由闊達な議論を。今回のアンケートがそのきっかけになれば、私はワクワクするほどに嬉しい。

追記/私個人としては、「選択肢を設けない、自由回答型」のアンケートにした方がよかったかと思っている。ただしこれもいわば後知恵。アンケートが出されなければ、そんなアイデアも出なかったのだ。アンケートを作ってくれた仲間(愚樵さんが、同志という言葉を使いたいと言っておられたな……だから同志というべきか)に感謝しつつ、「さらに前向きに発展させませんか」と提案したい。

 

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UTSで「国防」アンケート実施中――私にとって国防とは

2006-07-14 22:53:05 | 非国民宣言(反愛国心・反靖国など)

私も参加しているUnder the Sunで、「日本の国防に関するアンケート」(TBで回答する形式)を実施中。皆さん、ご参加下さい。

質問は「あなたが考える、この先、日本がとるべき国防の方向は?」で、回答の選択肢は次の8つ。

1.非武装をすすめ、他国から侵略されても抵抗をすべきではない
2.他国から侵攻は防衛しても、攻撃はおこなうべきではない
3.専守防衛は現在でも可能なので、現状を変更する必要はない
4.武装を強化し、専守防衛に徹すべし
5.武装強化・憲法改正をおこない、専守防衛に徹すべし
6.日本にとって危険な国に対しては、先制攻撃を加えるべき
7.核兵器の開発までふくめ、軍事力を増大していく必要がある
8.その他

◇◇◇◇◇◇◇

非常にデリケートで、難しい問題である……。

このアンケートについてTBをもらった瞬間、「2」を選ぶ人が最も多いのではないだろうかと思った(今、途中結果を見たら、実際にそうなっていた)。「他国に武力攻撃を加えない」「紛争の解決手段として武力は用いない」。ただし日本が攻撃された場合、何らかの形で防衛はする。憲法9条の精神は、まさしくこれであろう。

だが、私は「1」を選びたいと思う。実は「1」もやや違和感があって「8」を選びたいところなのだけれども、「その他」はありとあらゆる考え方が含まれる。一応、設定された中で一番近いものを……と考えた末の選択である。

「1」はあまりに非現実的であるとは言える。全世界が武装と無縁になるのが理想ではあるけれども現実にはまだまだ遙かに遠いユートピアだし、「万一侵略されても抵抗」しないなどというのは、多くの人にとって「馬鹿げている」としか思えないに違いない。「腰抜け」「おまえにはプライドがないのか」と眉をひそめられるかも知れない。人によっては「そんなことを言うのは、侵略してくださいと言っているのと同じだ」といきり立つかも知れない(※1)。

しかしそれらの嘲笑を承知の上で、私は「抵抗しない」という道を選ぶ。いや、むろんある程度の抵抗はするだろう。侵略されないように手を尽くし、侵略を企んでいる国があればそれを阻止するために手を尽くすだろう。だが、それでも侵略されたとしたら――まあ落とし穴を掘る程度のことはするかも知れないが、武装した軍隊に包囲されたら、私はあっさりと白旗を掲げる。人間の命と引き替えになるものなど――個々の人間にとってはそれぞれに存在する(自分の命と引き替えてもいいと思えるものが、常にではないが存在することがある)のだけれども――社会や集団には何ひとつ無いのである。国体はその最たるものだと言ってもよい。

もっとも、白旗を掲げるというのは「尻尾を振る」ということと同義ではない。侵略し新しい支配者となった者達に対しては徹底して不服従の姿勢を通したい。

「非暴力・不服従」などと言ってしまえば、まるでマハトマ・ガンジー(※2)の真似をしているようだが……。むろん彼ほど深い思想も信念もありはしないけれども、ああいった徹底した暴力否定以外に、世界の明日を拓く道はないのではないかと思ったりする(ちなみにカースト制度を否定しなかったなど幾つかの点が引っかかって、私はガンジーを充分には評価できないでいるのだが)。

不服従といっても、「服従しなければ殺すぞ」と言われれば表面だけ「服従したふり」をするかも知れない。

あるいは「逃げ出す」かも知れない。ボートに乗って海へ(何処かに行き着くまでに海の藻屑とやらになりそうだが……ほとんど普陀落渡海。笑)。あるいは山に籠もって隠者になるか。

「国防」という言葉は、「守るべき自分達の国」というものの存在が前提にある。では、国とは何か。いわゆる国体か。時の政府か。元首か。国土か。住む人々か。守り育てられてきた文化か。あるとすれば、私は最後の2つであろうと思う。国体などというものは、そしてやや極論過ぎるかも知れないが国土(※3)でさえも、「器」にすぎない。そこに住む人々が生きることができれば、そして彼らにその信念があれば、文化は守り続けることができる。また、何処かの国が侵略してきて、今の日本の国土にその侵略国の住人が大勢移住してきた時、彼らがいつの間にか日本の文化に巻き込まれ、文化的にも生物学的にも混血が進み、今までなかった新しい国?が生まれる可能性もないではない。

侵略には、武力的侵略以外のものもある。第二次大戦後、日本は連合国の(実質的にはアメリカの)占領下におかれ、アメリカの価値観を受け入れた。連合軍による占領はむろん言葉の普通の意味では侵略ではなかったわけだが、結果として文化的な侵略につながったことも事実であろう。当時、欧米型の食事を奨励されて「米を食べると頭が悪くなる。パンを食べよう」と本気で(?)言っていた、などという話を聞くと、ふと「日本人はもともと自分達の文化に大して愛情はないのではないか」「捨ててもいいと思っているのではないか」などと皮肉な感想を持ってしまう。

実のところ私も日本の文化にはさほど思い入れはない(国体に対してはさほどどころか全く無い)。したがって、愛国心も薄い。だが、他人の愛国心にケチをつける気はないし、彼らはおそらく「同朋の命を大切に思い、日本の山河や文化に愛情を持っているのだろう」と思う。いや、思いたい。それならば、「同朋が死んだり山河が焼け野原になってもいい」とは考えないはずだ。重ねて言う、器などは(どうでもいいとは言わないが)何よりも大切なもの、ではないのである……。

私は「腰抜け」で「いくじなし」だ。しかしどうせなら、「国家や国体などいう器を白い眼で見続け、それよりもひとりひとりの人間が生きていくことの方が大切だと呟く腰抜け」になりたい。少なくとも、中身よりも器の方が大切だと考える勇者や、「敵」に対する憎悪に身を焼く英雄にだけはなりたくないと常に思う。

〈蛇足的註〉

※1/侵略してくれと言っているようなもの=以前、こんなふうに言われたことがある。「女性が『私は襲われたら絶対に抵抗しないわ』と言ったり、おっさんが『オヤジ狩りに遭ったら抵抗せずに財布を差し出す』と言うのと同じ。カモにしてくれと言ってるようなものだ」と。人によってはなるほどと頷くかもしれないが、ちょっと待って欲しい。強姦やオヤジ狩りをする連中は、相手が抵抗しようとしまいとやるのである。圧倒的に強かったり、複数だったりすれば、少々抵抗しても無駄というもの。場合によっては命にかかわるかも知れない。それよりも、そういう犯罪が起きないような社会を目指し、「ギャーッ、助けてー!」という大声の上がるのを聞けばすぐ駆けつけるような習慣をつけるなどの方法を皆で考えるほうが有効であろう。

※2/マハトマ・ガンジー=マハートマ・ガーンディーと書く方が原音に忠実だと言われているが、ここでは「俗に使われている表記」に従う。余談ながら、私は人名にせよ地名にせよ原音になるべく忠実に呼び、かつ表記した方がいいと思っているけれども、完璧に原音を再現するのは困難なことも多い。悪意でなく単なる発音のしやすさなどで多少変わるのは、まあいいのではないか、とかなりいい加減に考えている。むろんお互いにである。他国の人の名前は原音通りに発音しないくせに、自分たちの名前だけは間違えるなと言うなどは問題外。

※3/国土=ある国のものとされた山河、という意味である。地面も山も川も木々も、そして人間以外の動物もすべて、実際には国という枠組みとは無関係に存在する。たとえば日本という国がなくなっても、その瞬間に富士山や琵琶湖が無くなったり、国中の松が杉になったりシカがトラになったりするわけではない。

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英『タイムズ』紙7月6日の記事(翻訳を転載)

2006-07-13 22:57:19 | お知らせ・報告など


 このところ日本のマスコミはテポドン騒ぎで浮き足立っているが、日本と比べると他の諸国は格段に冷静なようである。7月6月付けの『The Times』(イギリスの保守系新聞。別名、ロンドンタイムズ)に、この問題に関する長文の論説が掲載されたそうだ。政治学者の岡本三夫氏(現・広島修道大学名誉教授)による同論説の翻訳が、私の参加しているMLで紹介された。転載自由とのことなので、ここに翻訳文を掲載させていただく。

◇◇◇◇以下、タイムズ紙の記事
No damage, no laws broken: so just what has made everyone so jittery?
被害も違法性もないのに、なぜ世界はナーバスになったのか
リチャード・ロイド・パリー
Analysis by Richard Lloyd Parry
岡本三夫訳
Translation by Mitsuo Okamoto

 米国のスパイ衛星がミサイル発射台のテポドン2号を最初に発見してから7週間が過ぎ、その間、多くの新聞論評と外交交渉がこれにどう対処すべきかについて時間を割いてきた。
 ミサイル自体の発見は5月半ばだった。その直後に、発射台近くの燃料トラックが目撃され、補助ロケットと補給燃料タンクがミサイルに装着された。それでも、昨日のミサイル発射が生んだショックと怒りとパニックから判断すると、突然だった印象がぬぐえないようだ。
 東京では外交官と軍幹部が小泉純一郎内閣総理大臣の首相官邸に設けられた非常事態タスクフォースの右往左往ぶりがテレビに映し出された。新聞の見出しは「国際社会への衝撃」とか「恐怖―それは現実だった」という調子だった。外交官は世界へ飛んで、事件への対応を模索した。しかし、この危機感を生んだのは、実際はなんだったのか。
 昨日の間に6基の中距離ミサイルが北朝鮮から発射され、数百マイル離れた海上に落下したが、被害はなかった。従来、北朝鮮が繰り返しやってきた実験だ。明らかに長距離ロケットの新しいテポドン2号大陸弾道弾も発射されたようだが、失敗したか、同じく遠い洋上で単独に破壊されたらしい。
 これらの発射は物理的損害を与えることもなく、国際法にも違反しなかった。国際法は主権国家がミサイル実験をすることを認めている。ではなぜ、世界中の軍隊がルーティンでやっている軍事演習ごときにあのような激怒が起きたのだろうか。北朝鮮とその指導者の金正日があのような行動をとった動機は何だったのか。そして、世界はどのような対策を―もしあるとしたら―講じることができるのだろうか。
 月並みの答は、金正日は極めて危険な指導者であり、彼の予測不可能性は狂気に近く、合理的な理由はないというものだ。安全で、豊かで、快適な日本の視点からするならば、まさにそう感じられるのだ。昨日の読売新聞は評論家の意見を書いている。
「多くの日本人は7月4日(米独立記念日)のスペースシャトル打ち上げに期待しながら就寝したが、朝になってテレビをつけたら、空を飛んでいたのは北朝鮮のミサイルだった。北朝鮮の指導者の馬鹿さ加減には言葉もない。頭がおかしくなったのではないか」。
 小泉首相は似たような見解を表明した。「その意図が何であれ、北朝鮮にとってこれらのミサイルを発射するメリットは何もない」、と。
 しかし、平壌から見ると世界はまったく違って見えるのだ。金正日は残酷な独裁者からも知れないが、狂人ではない。昨日のミサイル発射は北朝鮮とその指導者の不適合性だけでなく、主要国の不適合性を暴露している。
 北朝鮮が北日本の空を超えて長距離ミサイルを発射してからほぼ8年になる。それ以来、北朝鮮を囲む環境は劇的に変化した。あの国は破局的な飢饉を経験し、西側とのかつてない純粋な和解の一歩手前まで漕ぎ着けた。2000年に、金正日は韓国の金大中前大統領とも、クリントン米大統領の国務長官マドレーヌ・オルブライトとも、初めて握手を交わした。しかし、いわゆる「太陽政策」という寛大なかかわりかたはブッシュ大統領の当選によって突然の終焉を迎えた。
 ブッシュ大統領は有名な2002年の施政方針演説で北朝鮮を「悪の枢軸」の一味と呼んだ。1年後、金正日は「枢軸」の一員であるサダム・フセインが侵攻され、退位させられるのを目撃した。一方で、米国は北朝鮮が不法なウラン濃縮プログラムを実行し、核兵器製造能力を開発していると非難して、北朝鮮の現存する原子炉を買い取る約束を迫った。
 これに対する北朝鮮の反応は核不拡散条約からの離脱とプルトニウム生産の開始であり、すでに10数の核弾頭を製造したかも知れない。北朝鮮は直接米国としか協議しないと宣言している。これに対して、米国はそれは北朝鮮のわがままを認めることであり、あらゆる協議は多国間でなければならないと突っぱねている。中国、韓国、ロシア、日本を含むいわゆる六ヵ国協議が何回か開催されたが、北朝鮮は譲歩していない。そして次第に明らかになってきたことは、米国がどれほど強く直接協議という考えに反対しても、米国には厄介者の金氏に決定的な影響を及ぼすことはほとんどできないということだ。
 軍事力行使は論外である―すくなくとも現時点では―というのは、北朝鮮のミサイル攻撃が韓国に与え得る甚大な被害があるからだ。北朝鮮の唯一の同盟国である中国はこれまで北朝鮮に強力な圧力をかける選択をしていない。しかし、今年はじめ、米国は北朝鮮がマネーロンダリングと紙幣捏造をしていることを理由にマカオ銀行が北朝鮮と取引することをやめさせ、北朝鮮に圧力をかけることに成功した。
 理性的な見かたからするならば、ミサイル実験は米国の金融的な圧力に対するリベンジの域を出ていないのかも知れない(7月4日の米独立記念日とほとんど同時のスペースシャトル発射というタイミングに合わせたミサイル実験は米国へのダブルパンチのようにさえ思われる)。
 実験が北朝鮮の強力で自尊心の強い軍部―その支持なしに金氏の存続はあり得ない―を喜ばせることは疑いようもない。そして、さらには、実験は混乱と警戒を撒き散らすことによって金氏に利益を与え、彼の敵たちをたじろがさせている。
 実験はまた、世界にはほとんどなす術のないことも裏書している。昨日のショックウェーブが広がると、日本は「制裁」の音頭とりを始めた。制裁の内容は北朝鮮の官僚の訪日禁止と貨客船の6ヶ月入港禁止である。しかし、この貨客船は帰国する修学旅行生を乗せて停泊していることが判明し、結局、入港許可になった。
 これからの数日間、小泉政権は東京から平壌への銀行送金を停止させる措置をとるかも知れないが、送金は間接的なルートで可能になるだけの話である。米国は北朝鮮との商取引禁止措置に踏み切るかも知れないが、この措置には限界がある。何年も前に経済が破綻した国に経済的制裁を加えるのは容易なことではないからだ。
 出入港禁止などのような付帯的措置に対しては中国が確実に反対するだろう。国連安保理大使たちがこれからの数日間この問題を討議するだろうが、中国の態度がカギとなるだろう。しかし、北朝鮮のサイズの小ささ、極端な隔離、経済危機の深刻さを考えるならば、選択肢がほとんどないことは驚くほどである。
 おそらく、このことは昨日のミサイル実験が惹き起こしたパニックを説明してくれるかも知れない―それは、実験自体が脅威だということよりも、誰にもほとんど何をする手立てもないということだ。
 
◇◇◇◇以下、翻訳に添えられた岡本三夫氏の意見
 今朝 衛星放送で米国のABCテレビを観ていましたが 北朝鮮は「極東の平和を乱したことは非難されるべきだが 国際法にも国際条約にも違反はしたわけではない」という論評がありました。
 おしなべて 諸外国の報道では 北朝鮮のミサイル発射を一般的軍事演習の延長上に捉えているようで 「日本は騒ぎすぎだ」という論評もあります また ミサイル=核弾頭と連想する人も多いようですが これは短絡的です。
 深夜に一部のMLには送信した英『タイムズ』紙の冷静な分析の拙訳を再送しますが 米英日の3国が国連で同一行動をとり 中露と対立している中 米英のマスコミは比較的冷静なのに比べ 独り日本のマスコミのみが 政府と同調して国民
の感情を煽る結果の報道に流れていることこそ 私には大きな不安の種です。
 長く愛読してきた大新聞も 保守派の論客の「バッシング」 週刊誌上での執拗な攻撃 支局員暗殺などで ビビッてしまったのでしょうか。 最近は 社会の木鐸としての役割意識に乏しい紙面になってしまっているような印象をぬぐえません。上層部が戦後生まればかりになってしまったからだという理由だけでは説明できないと思います。
 憲法第9条改悪 教育基本法改悪 共謀罪法案の提出 国旗・国歌の「押し付け」 防衛庁の防衛省への格上げなどなど 戦争のできる国家への準備がなされているなかでの 北朝鮮によるミサイル発射は「奇貨」として政府に利用され 虚偽のナショナリズム 国防意識 敵愾心を煽っています。
 インターネットやMLで情報が交換できる時代ですから 「大本営発表」的な情報操作がアジア・太平洋戦争時代のように首尾よく行くとは思いませんが 大新聞や放送の影響は想像以上ですので 心してかからなければと気持を引き締めています。
◇◇◇以上、転載終わり◇◇◇

『The Times』の記事も、実のところ単に評論しているだけという面があり、その点では日本の大新聞の社説などとさほど変わりはない(転載させていただいておいて、岡本先生すみません)。しかし日本の大新聞とは、「煽るような口調であるかどうか」というところが違う。日本新聞、いやテレビや雑誌も含めたマスコミは、何かというとアクドイほどしつこい味付けにする(派手に派手に書き立てる)癖がある。その方が読者が喜ぶという判断なのだろうが、ニュースはドラマやバラエティー・ショーではない。受け手の方も、濃い味付けに慣らされてはいけない、とふと思った。


〈お知らせ〉
Under the Sun で「国防について」アンケート実施中。ご協力下さい!
http://utseqt.exblog.jp/2786092
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生きて還らぬ――感傷的ニヒリズム(1)

2006-07-12 07:17:47 | 本の話/言葉の問題


 軽い食中毒に罹ってひっくり返ったおかげで、仕事がパニック状態に陥った。自由業は、スケジュールを乱して1日2日休むと恐るべき事態になるのである。それは私が売れっ子だからではなく、むしろ逆。力関係の問題でメジャーな人達はある程度自由がきくが、私のようなマイナーなフリー・ジャーナリストは無理を重ねてでも最大限、他者のスケジュールに合わせなければならず、自分の都合でスケジュールを変更する時は調整が死ぬほど大変なのだ……。

 しょうもない愚痴を言ってしまった。ともかくそういうわけで、戴いたコメントにもすぐに返事できず、せっかくTB入れていただいた記事もきちんと読めていない。皆さん、すみません。……体調が本調子でないので、今日は雑談めいたメモを書いておく。

◇◇◇◇◇
 時々、早熟な子供がいる。他の同年代の子供に比べて言語の習得が速く、妙に大人びた知識を身に着けたりするので親は「この子は優秀だ」と勘違いするが、何のことはない、早めに成長したというだけである。多くの場合、急速に成長の速度は鈍る。何を隠そう(?)私もそのひとりで、成人して間もない頃に親戚のジイサンがしげしげと私の顔を見、「10で神童、15で才子、はたち過ぎればタダの人という言葉があるが……」と首を傾げた。いや、それならよくある話だが、「タダで止まったら、まだええんやけどなあ。はたち過ぎたらタダ以下、ってのもあるんやなあ。大器晩成の逆やなあ」とのたもうたのには、さすがにズッコケた(ほっといてくれ)。

 それはそれとして、要するに比較的早熟な子供だったので、小学校4、5年の頃から冒険小説などにワクワクするかたわら、イキがって大人の本を読みあさった。
ドストエフスキーを読んだのは確か小学校6年生の時だ。ただ、これは今でも間違っていたと思う。筋を追い、言葉の表面だけ理解することは出来ても、何も読み取ることはできなかったのだ。人間と本との関係は「出会うべき時期」があり、遅くても早くても至福の出会いを持てない、と今も私は思っている……。

 そのイキがった淫書の中で――10代半ばの頃に、中里介山の『大菩薩峠』を少しだけ読んだことがある。別に時代小説や剣豪小説?が好きだったわけではないし、中里介山なる小説家についても何も知らなかった。ただ、その頃なぜか一時的に「長い小説(物語)」を読むことに凝っており(※1、2)、理解できたかどうだかはまことにあやしいものであるけれども、ドストエフスキーだのトルストイだのスタンダールだの、果ては『源氏物語』や『今昔物語』や『西遊記』や『イーリアス』などまで読み散らしていたのだ。

※1/誰でもそういう時期があると思う。もっと言うならば、おそらく読書に関しては「何か特定のものを読みふける時期」が幾つもあるのではないか。多分、10代から20代の初め頃にかけて。私の場合は長い物語を読む時期のほか、シュール・レアレスムに凝った時期あり、哲学書なるものに凝った時期あり、エロティシズム小説に凝った時期あり、詩に凝った時期あり……。
※2/長い小説に凝る、というのは振り返れば悪いことではないように思う。少なくとも私の場合、小説であれ何であれ活字になったものが「長い」ゆえに腰が引けるということだけはなくなったし、字を読むスピードがかなり速くもなった(後者の方はいいか悪いか不明。読み飛ばしの癖がついてしまったのかも知れない)。

 そして「もっともっと長い小説(物語)はないか」とバカみたいに探している時に――本当か嘘か知らないが、その当時においては「『大菩薩峠』は日本で最も長い小説」だと聞いて、何となく最初の2~3冊を図書館で借りてきたのである。

 先に結果を言うと、この小説を読み通すことは出来なかった。おそらく3分の1ぐらいのところで、ついに投げ出してしまったという記憶がある。1~2巻目あたりからかなり退屈で、それでも意地を張って読み続けたのだが、とうとう根負け?したのである。「義理?で」あるいは「仕事の必要上、やむを得ず」読まされた本は別として、自分の意志で読み始めて途中で投げ出した本はさほど多くない。特に小説の場合は唯一これだけなので、今でも変に引っかかっているのだ。

 何せ10代の乱読体験中のことだから、細かいところはまるで覚えていない。と言うよりも――はっきりと覚えているのはただひとつ。

夕べ朝(あした)の鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
鳥は古巣に帰れども
生きて帰らぬ死出の旅

 既に本が手元にないので(ごく若い頃、手持ちの本をまとめて古書店に売り、その対価でまた新しい古書を買う、という生活をしていたのだ)僅かな間違いもあるかも知れないが、私は文芸評論家ではないのだから、ご愛敬ということで御容赦願おう。これは(私の記憶が誤っていなければ)被差別に生まれ育ち、門付け芸人をしている若い娘が唄う「間の山節」(だったかな? 歌の題名はよく覚えていない)である。(※3)

※3/私は自分のブログでよく「はっきり覚えていないが」とか「確か……」といった表現をする。無責任だと叱られるかも知れないが、ブログというのは元来が個人の覚え書きあるいは日記である。いわゆる「事実関係」について嘘やいい加減なことを言うのは表現のモラルに反するが、細かな記憶違いは「かまわない」というのが私のスタンスである。学者の論文や、何十年も残しておくべき記録、あるいはジャーナリストの取材記事であればそういういい加減な態度は許されないが、覚え書きならばOKであろうと思う。(むろん私も原稿料をもらって記事を書く時は、事実関係について裏をとるほか、固有名詞その他間違いがないように自分なりの万全を期す。ただし入稿の段階では未確認で、校正段階で直すということもままある。私が自分のブログで書くことについて“細かな誤りは御容赦”とよく言うのは、その感覚があるからかも知れない。私にとって、ブログの記事は“校正前”の文章なのである)

 すみません、「注」で大幅に遮断してしまった。これもご愛敬ということで……(そのうち殴られるぞ)。何が言いたかったかというと、10代の私はこの「間の山節」(?)にひどく驚き、ほとんどショックを受けたのである。さらりと聞き流してしまえば単に感傷に満ちた言葉の羅列にすぎないのだけれども……それにアタフタとしてしまう自分に、私は驚いたのだ。

 ……センチメンタリズムとニヒリズムが野合したときの恐ろしさを書こうとしたのだが、仕事の準備をしなければならないので今日はここまで。(何か最近、尻切れトンボのエントリが多いなと反省することしきり) 

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「世界の孤児」を作ってはならない

2006-07-09 06:34:31 | 戦争・軍事/平和

「テポドン騒ぎ――陰でほくそ笑むのは誰か」というエントリに対して、何人かの方からコメントをいただいた。この記事については批判も多いと思うが、実際に批判コメントを書かれた方は2人だけである。

【国をよくしたいのではなく、一回ぶっこわして作り直したいわけですね。理想国家が出来るまで。結局、歴史からの学ぶ事は何もなかったと。】(ろみおさん)

【私はこのエントリーを読んでこう思いましたね。「こういう考えを持った人間がいる限り、ミサイルぶっ放して悦に浸るバカはなくならないんだろな」と。今回、重大なルール違反を犯したのは誰ですか? 北朝鮮でしょう。なぜそれをアメリカや日本政府非難に結びつけるのです?もしミサイルをぶっ放すことで世の中の反米風潮が高まるのなら、全世界の国がミサイルを撃ち乱れさせますよ。アメリカは世界中から嫌われてますからね。そうのような世の中の方がお好きですか?

>「悪い奴」と指さされる存在が出てくるとき、鳴り物入りで「正義の仮面」も堂々と登場する。

ならばこんな表現をしましょうかね。「悪い奴」がでてきたとき、中立を装って必死にかばう「正義の学級委員」がでてくる。だから「悪い奴」は図に乗って悪事を重ねる】(バイリニアさん)

ろみおさんのコメントは批判ではあるけれども記事のメーン・テーマとは少しずれるのでひとまず置くとして、簡単にバイリニアさんへの返事を書いておきたい。同じようなことを考えておられる方は多いだろうと思うからである。

◇◇◇◇◇

私のような考えを持った人間が地上から一掃されても、「ミサイルぶっ放して悦にいる○○」は無くならないと思います。言い訳に聞こえるかも知れませんが、私は北朝鮮を「必死でかばっている」わけではありません。北朝鮮が「国際社会のルール違反」をしているというのは、むろん言うまでもないこと。しかし「トンデモナイ国だ! 許せん!」と興奮して皆で指さすことが、国際平和のために有効であるとは私は思いません。

今回の事件で、私はふと第二次大戦前から敗戦にかけての日本の姿を連想しました。大戦前、日本は世界の多くの国と敵対し、国際連盟から脱退して「世界の孤児」への道を歩んだと言われています(国際連盟はアメリカは参加していませんでしたし、多くの問題も抱えていましたが、その話をしているとややこしくなるので、ここではいったん棚に上げます)。そして無謀な戦争への道へとひた走り、自国にも他国にも多大な損害を与えた。その愚を、いかなる国にも繰り返させてはならないと思います。それが「歴史から学ぶ」ということではないでしょうか。私は別に、その国に対して特別の思い入れがあるわけではない(ちなみに私は日本であろうとアメリカであろうと北朝鮮であろうと中国であろうと、国家というもの自体を好みません)。窮鼠猫を噛む形の愚挙をやってくれるのは勝手ですが、近所迷惑です。個々の人間であれ集団であれ、孤立すればするほど狂気の域に入っていく。狂気じみた愛国者達が生まれる、と言ってもいい。北朝鮮に対しては、北朝鮮という国を追いつめるのではなく、他の方法でゆっくりと向かい合うべきであると思います(どんな方法か?に関しては機会があればあらためて書きたい)。

北朝鮮という「国」が孤立し、狂気の道を(今でも充分に狂気だ、という見方もあると思いますが、今以上に)ひた走ったとして――では、「北朝鮮という国」をぶっつぶせばよいのか? 「ぶっつぶす」となればイラクに対して行って来、いまもおこなっているような「戦争」を仕掛けることになるのでしょうが、イラクの空爆では多数の「普通の庶民たち」が死んだり傷ついたりしました。ものごとの解決の手段を武力に求めたとき、不幸に陥れられるのは常に庶民です。北朝鮮という国がトンデモナイ国であったとしても(実際、とんでもない国ではあります)、たまたまその国に生まれ育ち、耳と目をふさがれたまま素朴な愛国心と共に生きてきた(それは私達の父母、祖父母たちの姿でもあります)庶民の命を奪っていいという理由にはならない。ただひとりでも弱い立場の人間を犠牲にすることを計算に入れた正義は、「正義」の名に値しないと私は思っています。

もうひとつ。「あいつは許せん!」と言って明確な「敵」を作るとき、人々の精神状態は帰属集団に対する同化の意識で昂揚します。ですからあらゆる集団は、声と歩調をひとつにするために、わざわざ「敵」を設定することもある。国とは限りません。企業でも学校でも。具体的な敵が設定されたとき、集団に所属する人々がどれほど「心をひとつにして頑張る」か、私達は自分の体験でよく知っているはずです。

「心を一つにする」のは必ずしも悪いこととは言えませんが、いま、日本は憲法改定や教育基本法改定などが具体的に取り沙汰されています。そういう状況にあって、「みんなで声をそろえて『あいつは敵だ』と言う」ことの意味を、私は考えずにはおれません。

突然話は変わって――妙な言い方ですが、私は自分を含めた「普通のおっちゃん、おばちゃん」が「テポドン、テポドン」と興奮すること自体、いささか異様な感じがするのです。社会問題に無関心であってはいけない。でも実際問題として、私達にとって最も大切なのは自分の日々の生活であり、また自分の家族であったり、友人とのひとときであったりする。社会問題というのはその延長線上にあるはずなのに、一億総評論家になって、挨拶代わりに「テポドンがどうのこうの」と新聞の論説委員のようなことを言う(実際、私はこのところそういう人に大勢会っています)。いい加減にしたらどうよ? というのが、私の今の正直な気分でもあります。

いささか尻切れトンボですが、本日はここまで。

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テポドン騒ぎ――陰でほくそ笑むのは誰か

2006-07-08 02:12:00 | 戦争・軍事/平和

連日のテポドン騒ぎに、少々うんざりしている。日々のなりわいは忙しいし、体調悪いしという時に、まったくもって、「ウザイ!」という感じだ。私は北朝鮮は問題の多い国だとは思っている(そもそも最高権力者が世襲だということ自体、信じられないほど変である。もっとも日本だって、レッキとした世襲ですが。北朝鮮ほど露骨ではなく、巧妙ですけれども)。花火に金使うなよ、という気もしている。

しかし、私がウンザリしているのは北朝鮮に対してではない。「千載一遇のチャンス、と喜んでいるのが大勢いるだろうなあ」と思い、そのことで吐き気がしてくるのだ。

北朝鮮は世界有数の弱小国家。キャンキャン吠えているけれども、世界中を敵に回して戦争する力など皆無。それでも「宣伝」には充分使えるというところが恐ろしい。自ら世界の保安官をもって任じているアメリカは、さぞ嬉しいことだろう。改憲派も勢いづくだろう……ああ、やだやだ。

それにしても、何でまた新聞各紙は、連日一面トップでこの話題を扱わねばならないのか。実のところ、私は新聞の一面にはさほど関心がない。と言うと語弊があるが……関心の程度は二番目ぐらい、である。もともと「社会面の右側」(つまり地味な社会ネタ)が専門だからかも知れないが、派手に報じられることよりも大事なことがある、といつも思っているからだ。

テポドン騒ぎで吹っ飛んだものや、陰でほくそ笑んでいる者達のことを忘れてはなるまい。浮かれたニュースが続く時こそ、足元にご用心。「悪い奴」と指さされる存在が出てくるとき、鳴り物入りで「正義の仮面」も堂々と登場する。

doll and peaceのぷらさんが、「私は比較的冷静」「今回のミサイル発射で一番得をするのって、ブッシュ政権と親米ポチだろ、と思うから」と書いておられる。いま我々に要求されているのは、こういう感性である。

ついでに余談――私は愛国心ゼロなので、「祖国」が滅びても別にかまわない(いや、かまわなくはないのだけれども、薄汚く存続するぐらいならすっぱり消えて出直した方がいい)。国破れて山河あり、という。山河とは限らないが「国」が滅びても生き続けるものはあり、私はそれらのほうがよほど大切だと思っているのだ。所属する人間を締め上げ、弱い奴は死ねとうそぶき、シタリ顔でエセ倫理を説く「国家」など、さっさと犬に食われてしまえばいいのである。

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マスコミへ働きかけよう(付・地方新聞社リスト)

2006-07-04 00:17:32 | お知らせ・報告など

 マスコミは本当にダメだ、という声をよく聞く。確かに日本のマスコミは腰抜けになりつつあるけれども、まだ腐りきったわけではないと私は思い、「この状況だからこそ、マスメディアを叱咤激励しよう」「マスコミを乗っ取られるままにしておくな」等々、ぶつくさと呟いてきた。同じようなことを考えておられる方は、決して少なくないはずだ。ダメだと切り捨ててしまうには、あまりに惜しいのだから。

 マスコミは「公器」である。情報の受け手である私達のものなのだ。だから乗っ取られるままに指をくわえていることはない。励まし、応援しつつ、「もっともっと、我々が必要としている報道を」と要求し続けていきたい。(私もマスコミの片隅にいるけれども、フリーなので大きな組織に対しては「要求し続ける」立場になる)

 実際、共謀罪の問題や、ハムニダ薫さんが始められた「《安倍晋三、統一協会に祝電》をネットに広める」キャンペーンなどで、マスメディアにメールや電話で報道を要求された方も多いのではあるまいか。

 マスメディアといえばまず新聞だが、皆さん、「新聞」と聞いて何新聞を思い浮かべられるだろうか。多分、朝日・毎日・読売・産経――つまり「全国紙」が真っ先に来ると思うが、むろん全国紙だけが新聞というわけではなく、地方紙(※1)と呼ばれる新聞もたくさんある。そして東京など一部の大都市を除き、多くの市町村では全国紙よりも地方紙の方がある意味でメジャーな媒体でもある。一般家庭では、地方紙の方をとっている例が多いのだ。ホテルや飲食店などでも、全国紙のほかに必ずと言っていいほど地方紙も置かれている(時には地方紙だけという場合もある)。

※1/地方紙=複数の県を販売対象エリアとする「ブロック紙」のほか、主に1つの県を対象とする県紙、さらにはある県の一部を対象とするものなどの種類がある。

 ご承知の通り、地方紙はエリア外のニュースは一般に共同通信など通信社に頼っている。たとえば国会で何が審議されているとか、首相が記者会見でどう言ったといったことや、エリア外の事件などは、独自取材のニュースではない。だが、大きな社会問題については(その地方地方の色合いを出しつつ)独自に特集を組むこともあるし、地域内でおこなわれている運動に関してはむろん全国紙より詳しい。私達は全国紙だけでなく、地方紙にも働きかけていきたいと思う。

 全国の新聞社の住所・電話番号・ホームページアドレスは、日本新聞協会のサイトの「メディアリンク」というページに網羅されている(ちなみにこのページには、全国の放送社などもリストアップしてある)。ここを見ていただくのが一番だが、リストが詳細すぎて逆に一目ではわかりにくいので、主な地方紙の住所と電話番号を抜き書きしてみた(※2)。新聞社名をクリックしていただけば、その新聞社のサイトにリンクする。必要に応じて役立てていただければ幸いであるし、お入り用な部分、ご自分のブログにコピーしていただいてもかまわない(いちいち断っていただく必要はありません)。

※2/「主に」の特別な基準はない。ブロック紙に、いくつかの(私が読んだことがあるという程度の)県紙を加えただけである。これを叩き台にして、個々に追加してお使い下さい。

〈ブロック紙〉

北海道新聞社 〒060-8711 札幌市中央区大通西3-6/011(221)2111

河北新報社 〒980-8660 仙台市青葉区五橋1-2-28/022(211)1111

東京新聞社 〒108-8010 港区港南2-3-13/03(3471)2211

中日新聞社 〒460-8511 名古屋市中区三の丸1-6-1/052(201)8811

中国新聞社 〒730-8677 広島市中区土橋町7-1/082(236)2111

西日本新聞社 〒810-8721 福岡市中央区天神1-4-1/092(711)5555

(一部白抜きになっているのは単なるミステークなので気になさらずに。時間のある時に直します)

〈ブロック紙以外〉

室蘭民報社 〒051-8550 室蘭市本町1-3-16/0143(22)5121    釧路新聞社 〒085-8650 釧路市黒金町7-3/0154(22)1111     東奥日報社 〒030-0180 青森市第二問屋町3-1-89/017(739)1111      陸奥新報社 〒036-8356 弘前市下白銀町2-1/0172(34)3111      岩手日日新聞社 〒021-8686 一関市南新町60/0191(26)5114      山形新聞社 〒990-8550 山形市旅篭町2-5-12/023(622)5271     常陽新聞新社 〒300-0051 土浦市真鍋2-7-6/0298(21)1780    上毛新聞社 〒371-8666 前橋市古市町1-50-21/027(254)9911     埼玉新聞社 〒330-9090 さいたま市浦和区岸町6-12-11/048(862)3371     神奈川新聞社 〒231-8445 横浜市中区太田町2-23/045(227)1111      千葉日報社 〒260-0013 千葉市中央区中央4-14-10/043(222)9211      新潟日報社 〒950-1189 新潟市善久772-2/025(378)9111       北國新聞社 〒920-8588 金沢市香林坊2-5-1/076(263)2111      福井新聞社 〒910-8552 福井市大和田町56/0776(57)5111      静岡新聞社 〒422-8033 静岡市駿河区登呂3-1-1/054(284)8900       南信州新聞社 〒395-0152 飯田市育良町2-2-5/0265(22)3734      京都新聞社 〒604-8577 京都市中京区烏丸通夷川北入少将井町239/075(241)5430      神戸新聞社 〒650-8571 神戸市中央区東川崎町1-5-7/078(362)7100     奈良新聞社 〒630-8686 奈良市三条町606/0742(26)1331     山陽新聞社 〒700-8734 岡山市新屋敷町1-1-18/086(231)2210           山陰中央新報社 〒690-8668 松江市殿町383 山陰中央ビル内/0852(32)3440      高知新聞社 〒780-8572 高知市本町3-2-15/088(822)2111     長崎新聞社 〒852-8601 長崎市茂里町3-1/095(844)2111     熊本日日新聞社 〒860-8506 熊本市世安町172/096(361)3111     沖縄タイムス社 〒900-8678 那覇市おもろまち1-3-31/098(860)3000      琉球新報社 〒900-8525 那覇市天久905/098(865)5111

     

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世の中、露骨になってきた……

2006-07-03 00:17:14 | ムルのコーナー

都の東北端を縄張りにしている野良猫ムル。気分よくうたた寝をしているところに、後ろから呼ぶ奴がいた。

ムル:誰だよ、うっせーなぁ。なんだ、華氏んとこのトマかよ。

トマ:何度言えばわかるのさ。僕はトマシーナ、っつーの。名前は正確に呼んでよね。

ムル:いいじゃんか、名前なんかどうでも。第一、トマシーナって柄かよ。うす寝ぼけた顔しやがって、ポール・ギャリコが泣くぜ。多分、発作的というか適当につけたんだろうけど、おまえんちの飼い主も変な趣味だよな……。

トマ:(兄貴、ギャリコ知ってんの。へえ~)発作的ってのは確かかも……トマシーナってほんとは女の子の名前なんだってね。それでうちに来るお客さんがみんな笑うんだけど、僕はそんなもの、どうでもいいや。猫だもん。……それはそうと、兄貴、ここんとこ顔見なかったけど、どっか行ってたの?

ムル:へへへ。とむ丸ちゃんつう可愛いコの家に行ってたのっ。

トマ:(またナンパしそこねて、それですごすご帰って来てふて寝してるってわけか……全く、こりないんだから)

ムル:何か言ったか?

トマ:わわわ、言ってない~。でも何か、いいもん食べさせてもらったみたいだね? 兄貴、ちょっと太った感じだよ。

ムル:ふふふ。とむ丸さんのママさんって人に、新鮮なサカナをたらふく食べさせてもらったんだよ。遠くからよく来たわねって、大歓待。寝床も提供してもらってさあ、おまえの飼い主とはえらい違いだぜ。いっそとむ丸ちゃんのお婿になって、ずっと居座ろうかと思ったんだけどさ、そういう素振りみせた途端にママさん警戒モードに入っちゃったんで、いったんサヨナラして来たっつーわけ(最初は素敵なママさんだと思ったけど、睨むと怖いんだよな~ほんと。オイラおふくろの顔をろくに覚えてないから、そのぶん幻想世界のマザコンでさ、ママさんって呼ばれる人にはてってー的に弱いの。へへ)。

トマ:(兄貴みたいな下品の塊を、お婿にしようなんて奇特な猫はいないと思う……)

ムル:ん? 何か言いたそうだな? まっ、いいや。しばらく長いワラジ履いてたんで世の中のことに疎くなっちまったけど、最近変わったことあったかい?

トマ:あるあるある。おーあり名古屋のコンコンチキ。

ムル:おまえね。若いくせに、さぶいオジンギャグかますんじゃねぇよ。……で、いったい何があったんだよ。

トマ:いっぱいあるんだけどね。そうだなあ、たとえば「教育勅語を暗唱させてる幼稚園がある」とか。「とりあえず」のluxemburgさんとか「doll and peace」のぷらさんがブログで書かれてね、そのTBもらって、僕の飼い主……っていうのかな? うちの華氏も頭から湯気出してるの。自分でも佐世保市の「子ども育成条例」が愛国心を盛り込んだなんていう記事書いたところへ、そういうTBでしょ? 何だこれは~とか荒れまくっててさ、おかげで僕の食事も忘れてる始末でさあ……(めそめそ)。

ムル:けけ、あいつは極めつきの単細胞だからなー。でも幼稚園で教育勅語なんて、おまえのしょうもないギャグの100倍もさぶいよなあ。

トマ:ねえ兄貴、きょーいくちょくごって何?

ムル:え??? おまえ、知らないの? って、オイラもよく知ってるわけじゃないけどさ、明治20年代に作られて、日本の国家イデオロギーを支えた「教え」らしいな。親孝行しろとか、主君には忠節を尽くせとか。

トマ:でも、親孝行、とかは悪くないよね。主君に忠、なんかは僕らはわかんないけどさあ。

ムル:親孝行? ふん、それ自体は悪くないさ。ほかにも夫婦相和しとか、それだけ取り上げたら「いいんでねぇの?」みたいな言葉がテンコ盛り。でもよぉトマ、言葉なんてほんと、いっくらでもキレイキレイに飾れるじゃん。「誰が言ったか」「何のために言ったか」「その言葉が意味するところは何か」ってところを、きちっ見ないとダメさ。

トマ:言葉って難しいんだね、兄貴。

ムル:うん……。オイラさあ、人間って、ほんとにダメな生き物だなあってよく思うんだよな……。キョーヨーとかジョーホーとかいうものに骨がらみになっちゃって、綺麗な言葉にすぐ騙される。生き物として最低さ。

トマ:そういえば、うちの華氏が「言葉を奪い返せ」って、ひとりで喚いてるよ……。

ムル:あいつはほっとけって。ともかくさ、教育勅語ってのは、天皇を頂点にして「富国強兵」にひた走った明治政府が、庶民を飼い慣らすために創ったものなの。そんなものをありがたがる気分って、オイラにはもう、理解不能!の世界だね。どんなトンデモ人間でも、時には「いいこと」を言うさ。いや、自分のトンデモぶりをうまくごまかすために、普通以上に「いいこと言う」かも知れねぇな。でもさあ、言葉の「字づら」なんて、なーんの意味もないさ。言葉を獲得したという点で人間は万物の霊長とやらの地位を占めたのかも知らんけど、それに振り回されているうちはダメだね。キレイな言葉にすぐ酔ってさぁ。

(続く)

 

 

 

 

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教育基本法改定の先取り――佐世保市、子ども育成条例に「愛国心」盛り込む

2006-07-01 23:23:26 | 憲法その他法律
 
◇◇◇◇◇まずはニュースの要約

 毎日新聞・読売新聞といった全国紙のほか、西日本新聞、山陽新聞、その他いくつかの地方紙や赤旗でも報道されたため既に御存知の方が多いと思うが、6月28日、長崎県佐世保市議会で「愛国心」を盛り込んだ「子ども育成条例」が誕生した。下に最も簡単な時事通信配信のニュースを載せておく。

【子育ての基本理念として「愛国心」を盛り込んだ子ども育成条例が28日の長崎県佐世保市議会本会議で賛成多数で可決、成立した。近く施行される。市議会事務局などによると、子どもの施策に関する条例の中で、愛国心をうたったケースは全国初とみられるという。同条例は、子育ての理念や大人の役割などを柱に全17条で構成。第3条で子育ての基本理念を定め、その中の1つに「人を愛し、郷土や国を愛し、世界の平和を願」う心を養うことを掲げた。】

 西日本新聞その他の記事によれば、佐世保市の「こども育成条例」は2003年から有識者らによって論議され、昨年12月に原案が提出された。この原案について自民党系会派などが「よりわかりやすいものにすべき」と批判し、市議会総務委員会で継続審査されていたという。そして6月23日に、自民党系をはじめとする5会派から修正案が提出された。原案では「子どもが優しさやたくましさを身に付け、平和を愛し、自然を大切にする心を」養えるよう支援する、という表現であった基本理念の部分が、修正案では「人を愛し、郷土や国を愛し、世界の平和を願い、自然を大切にする心、世界に通じる広い視野などを持てるよう支援する」という表現に変えられた。自民党市民会議の市岡博道委員は修正案について、「どう育ってほしいかを、より分かりやすく明文化した。生まれ育ったふるさとや国を愛することはごく自然なこと」と説明をおこなったという。この修正案に反対したのは社民会派のみ(※)。構成6会派のうち、5会派(保守系3会派、民主党系、公明党系)の賛成によって可決された。

※社民会派の反対理由=「過去、国のために多くのかけがえのない命が落とされた。『国を愛す』との言葉によって、国への忠誠心が子どもたちにはぐくまれていくのではないか」

◇◇◇◇◇「ボク、優等生」の名乗り上げが始まった……

 皆さんよくご承知の通り、与党は教育基本法を改定し、「国を愛する心」を盛り込もうとしている。秋の臨時国会では再びこの問題が俎上に上がるはずだが、佐世保市の「子ども育成条例」はこれを先取りした感がある。国が――いや、国でなくてもいい、組織や集団がある方向に向かおうとするとき、その中で必ず「上の意向」を敏感に察知してお先棒を担ごうとする動きが出てくる。時代の流れに乗り遅れまいと焦っているとか、やがて来る時代において少しでも優位を占めようと思っているとか、あるいは「上の意向」を先取りするのが利巧であると信じている等々、その動きの背景にある「気分」や「考え方」はさまざまであろうけれども。

◇◇◇◇「愛」はルールの条文にそぐわない

「人を愛し、国や郷土を愛し、世界の平和を願い……(以下略)」という基本理念のどこが悪い、と首を傾げる人は多いと思う。「国や郷土を愛し」の部分だけに絞っても、「別に問題ないのでは?」と思う人が結構多いのではないだろうか。

 そう……言葉としては何の問題もないのである。美しい言葉だ、と言ってもいい。私個人は国家というものが好きではなく(毎度ナントカのひとつ覚えのようにこればかり言っている)、したがって「国」を愛する心も無いけれども、ひとさまの「国を愛する気持ち」をとやかく言うつもりはない。

 ただ、(広い意味の)ルールというのは、「ちゃんと言っておかなければマズイこと」について最低限の取り決めをしておくものに過ぎない、と(頭の単純な)私は思う(だから規則なり法律なりの多さ・煩雑さは集団を構成している人間のモラルの高さに反比例するとも思っている。また、社会が生き辛くなるにつれて、動揺したりオカミに疑問を持ったり捨て鉢になる人間が増えるため為政者はさらに規則で締め上げようし、ますます生き辛くなり……という悪循環も存在するが、それらはまた別の話)。それ以外は大きなお世話なのである。

 個人的には、佐世保市「子ども育成条例」の原案さえ、少々お節介な気がする。「子どもたちが安心して暮らすことができ、それぞれに幸せになれるように支援する」程度では単純すぎてダメなのだろうか。私は法律、条例、何でもいいが要するに社会のルールに類するものは、できるだけ具体的であり、かつ観念的な言葉を極力廃した単純なものがいいと思っている。なぜならば観念的な言葉というのは、人によって持っているイメージが相当異なるからだ。

 たとえば日本国憲法第九条。「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言だけであれば、私はいい憲法だとは全然思わない。希求するだけなら誰でも出来るし、「国際平和の維持のために、平和を乱す国を攻め滅ぼす」という考え方だって(正しいかどうかは別として)存在するのだから。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という言葉が続くゆえに、九条は意味があるのだ(むろん前半が無意味だと言っているわけではない。理念を述べているわけで、これはこれで多いに意味がある。ただ、これで終わってしまっては何も言っていないのに等しい)。

「国や郷土を愛する」という言葉自体には文句はつけませんよ、私は。「国を愛するというのは、生まれ育ったふるさとを愛するということ。その伝統や文化に誇りと愛情を持つことである」という人は多く、それだけ聞けば「ああそうですか。結構ですね」と私は(別に皮肉でも何でもなく)言う。でも心からそう思っているあなた……みんながあなたと同じように思っているかどうかはわからないのです。愛するからこそもっと強い国を作りたいとか、愛するからこそ強大国の属国になった方がいいとか、愛するからこそ弱者は淘汰して優秀な国民だけにした方がいいとか、もしかすると「愛しているからこそ、こんなダメな国は無くなった方がいいと思っている」人もいるかも知れない。

 愛というのは美しいものだが、愛さえあれば何でも許されるわけではない。愛しているからといってストーカー行為をしたり、無理心中を迫ったりしてはいけないのだ。「愛」は口にする人間を酔わせるがゆえに、時として、「冷静に考えればトンデモナイこと」を正当化してしまうことがある。そんなある意味で危険な「取扱注意」の言葉を、法律や条令で使ってはいけないと私は思っている。

 もうひとつ――修正案を作成するにあたって、自民系の市会議員から「自然に生まれる感情を尊重すべき」という声があったという。国や郷土を愛するのも平和を願うのも自然を大切にするのも「自然な感情」、というわけだ。しかし、である。本当に自然な感情であるならば、なぜわざわざ「養うよう支援する」必要があるのか。黙って放っておけば生まれてこないから、「涵養」とやらをするのではないか。「盗むな、殺すな、姦淫するな」というルールを作るのは、「盗んだり殺したり姦淫したり」する人間がいるからである。もっと変なたとえをすると、誰も絶対に立ち小便するわけがない所に「立ち小便禁止」の紙を貼ったりはしない。

 おかしな話である。「愛国心は誰でも持っていて当然」という人達に聞きたいことはただひとつ。「自然な感情、持っていて当然の感情であるなら、それでいいではありませんか。なぜ、わざわざ言い立てなければならないのですか。何かほかに意図があるのではないかと疑われても、仕方ないのではありませんか」。







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