華氏451度

我々は自らの感性と思想の砦である言葉を権力に奪われ続けている。言葉を奪い返そう!! コメント・TB大歓迎。

芸は売っても身は売らぬ。もちろん心も売りませぬ

2006-04-22 16:31:53 | 憲法その他法律

ヤな世の中になった。あるいはヤな世の中が続いていると言うべきか。与党の教育基本法“改正”案が決定したと思ったら、次は共謀罪が審議入り。以前、「足音が聞こえる」などと書いたことがあるが、それが日々大きくなり、こっちに近づいてきているような実感がある。

「愛国心」(※1)を強要しようとする教育基本法も、社会に都合の悪い(とオカミが判断した)ことを考えて話し合うだけで処罰しようとする共謀罪も、どちらも「人の心や思想」を縛るもの。「法」というものの権限を超えている。私は法律の専門家ではないから法の正確な定義はわからないが、21世紀の法治国家に生きている者として、法律とは「集団の構成員が支障なく暮らしていくための最低のルール」「自由を阻害されたり踏みつけにされたり、あるいは他者の自由を阻害したり踏みつけたりしないためのルール」だと思っている。それ以上のことを、法律に望んだ覚えはない。

※1/「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という表現になっているが、そんな猫なで声出されても気持ち悪いだけだ。衣の下に鎧を隠したりせずに、堂々と「愛国心」と言いなさい。そのほうがわかりやすいから。

法は構成員を守るためにあるはずなのに、時として支配のための道具になる。いや、支配の道具として使おうとする者達が出てくる。「あいつは犯罪者だ」「ルールを守れない奴だ」「反社会的人間だ」「変なこと考えている奴だ」、果ては「非国民だ」……。ともすれば守り手を欲しがる弱い庶民(むろん私もそのひとり)を、遵法者と違法者にするどく分け、人と人とのかかわりをみみっちく、薄汚くしてゆく。

「心は売り渡さない」などと偉そうにそっくり返っているけれど、これがいつまで続けられるやら。私は弱い人間で、「千万人といえども我ゆかん」などと孟子サンみたいなことは言えませぬ。いや、単に白い目で見られたり陰口きかれるぐらいなら――「千万人」はちょっとしんどいが、ある程度の人数なら多分平気だ。平気でないかも知れないが、びくびくしながらも、まあ無視していられる。少数でも味方がいれば、さらに心強い。だが、とっつかまって塀の向こうに放り込まれたり、そこまでいかなくても仕事を失って路頭に迷うようなハメになったら、泣く泣く踏み絵を踏んでしまいそうなイヤな予感がする。だから!――そんなことになる前に、何としてでもこのゾッとするような流れをせき止めたいのだ。

……ちまちまとブログなんか書いてる場合じゃないんだよな、とふと思ったり。むろんブログの中には大きな影響力を持つものがたくさんあり、それはそれで有効な活動のひとつであると思う。だが私のはいわば「その他大勢」で、死ぬまで続けていたって反権力運動に寄与するわきゃあない。自分自身の考えをまとめるには有効だし、多くのブロガーとのコミュニケーションを通して発見するものも多いが、どちらにせよ「自分のためのもの」。精神的マスターベーションの延長である。

「書を捨てよ、街に出よう」じゃなかった、「ブログを捨てよ、街に出よう」かな? と思いつつ、今日もこうやって書いてしまった私はいったい何だろう(嫌な情報が多いので、少し気分が疲れ気味。陽春だというのに……)。


教育基本法や共謀罪について自分が考えていることについては、今までも何度か書いた。基本的な考え方は変わっていないので(大したこと言ってるわけでもないし)、繰り返して書くのはナンであるが、このエントリの参考として3月17日付けの記事をコピーしておく(註と、治安維持法関係の資料は省略)

◇◇◇◇(長ったらしいコピー)
共謀罪の審議は先送りされているが、それも「今のところは」である。共謀罪については本やブックレットが出されているし、多くのブログでも触れておられる。法案の内容・問題点などは専門の法律家や、一貫して反対運動をおこなってきた団体の書いたものを見ていただいた方がいいと思うので、私がここでシタリ顔でいろいろ言う気はない。

私が書いておきたいのは、たったひとつ――「やっぱり、これもか……」と恐怖を感じている、ということだ。

共謀罪というのは「犯罪の計画や合意に関する罪」であり、対象となる犯罪は600を超える。「内乱」「内乱予備・陰謀」に始まり、「強盗」「窃盗」「詐欺」「背任」「恐喝」「横領」、そして「選挙の自由妨害」「防衛秘密漏洩」「偽りその他不正の行為による消費税の免税等」「業務上過失致死傷等」「組織的な威力業務妨害」……エトセトラ。「決闘」などというのもある(それにしても、業務上過失致死傷の共謀罪とはいったいどういうことだろう。これは業務上過失致死にしようぜ、と相談して人を殺したら、それは過失ではないと思うが……)。刑法その他のあらゆる法律で、軽微なもの以外はすべて対象になると言ってよい。

法律の専門家によれば、「犯罪」には4つの段階があるそうだ。最初が「共謀」で、犯罪の合意。次が「予備」で、具体的に準備すること。3番目が「未遂」、そして最後が「既遂」である。たとえば会社で気にくわない上司がいて、殺意を抱いたとする。飲み屋で集まったときにさんざん愚痴をこぼし、「あいつ、ぶっ殺してやりてえ」「そうだそうだ、やっちゃおうぜ」と意見が一致し、夜道で待ち伏せしてナイフで刺そうか、お茶に青酸カリ入れようかなどと話し合えば「共謀」。ちょっと本気になってナイフ買ったりすれば「予備」。刺そうとしたけれど手が震えて袖をちょっとかすっただけ、というのは「未遂」。本当に殺してしまえば「既遂」である(非常にいい加減なたとえであるけれども)。

その犯罪の内容がどうであるか(つまり犯罪として正当に?認められ得るものであるかどうか)は別として、「既遂」であれば法にのっとって裁かれるのは――原則として当然であろう。場合によっては、未遂も裁かれるであろう。しかし「予備」や、さらに言えば「共謀」まで裁くのは法の越権ではないか。

共謀罪を成立させようとやっきになっている側は、これは暴力団やテロ組織などを取り締まるためのものですよ、善良な(!)庶民とは縁遠い話ですよ、と甘い声で宣伝している。いやはや、巧いことを言うものである。我々善良な(笑)庶民は、ついついこういう言葉にフラリとしてしまう。だが――

よく比較して語られるものとして、1925年に公布・施行された「治安維持法」というとんでもない悪法がある(資料1、2参照)。これはそもそも、「左翼思想」を取り締まるためのものだった。当時は「アカ」イコール「おぞましい連中」と考えている(実は思い込まされている)人達が多かったから、「そういう危険分子を取り締まる法律なら、いいんじゃないの?」という感覚で受け入れられたようだ。だがしかし、当初は左翼運動だけをターゲットにしていたこの法律は、拡大解釈によって濫用され、さらに幅広く「国家にとって好ましくない思想(を持つ人々)」の弾圧に使われた。治安維持法違反に問われた人や団体として、有名なところでは、哲学者の三木清(獄死)や大本教などがあり、「横浜事件」など雑誌の編集者達が逮捕拘禁された例もしばしば取り上げられる。

「暴力団やテロ組織による、市民生活を脅かすような犯罪を未然に防ぐためのものてすヨ」などという甘言に騙されてはいけない。……むろん法律ができても、明日、いきなり市民運動の団体や同好サークルなどが共謀罪にひっかかって逮捕されることはないだろう。最初はおそらく、善良な市民(私もしつこいな……)の多くが納得するような形で適用されるだろう。しかし、そうやって安心させながら、包囲網は縮められていく。そして気がついた時には、我々の「思想」や「心」はガンジガラメにされているのだ。

たとえ社会的にNOと言われることであっても、「考え」たり「合意」するだけで罪になるはずはない。たとえば――あまりいい例ではないが、ペドフィリア(小児性愛)。実際に小さな子供をだまくらかしたり脅迫したりして性的関係を強要すればそれは犯罪だが、ひそかに妄想したり、ペドファイル(小児性愛者)たちが集まって空想話を楽しんだりすることにまで私は禁止しようとは思わない。「日本は神の国である。民衆は神の子孫である天皇を元首として敬うべきで、それに反対する“非国民”は殺してもいい」といった考え方も同様。私はむろん徹底的に否定するけれども、考え方が存在すること自体は「勝手に思ってなさい」てなものだし、同志を募って組織を作っても、まさかそれだけでとっつかまえて死刑にしようとまでは思わない。

何を考え、何を夢想して、同じことを思う人々と合い語らおうとも、すべては我々の自由である。具体的に人の権利を侵害したり人を傷つけたりしない限り、後ろ指さされることはいっさい無い。そういうごく基本的なところが侵されようとしているのだと私は思う……。私たちは――いや、私は、何だかんだ言いながら結構小心に世渡りしている。危ない橋は、できれば渡りたくない。日常生活は、遵法精神にのっとって送っているつもりである。そんな人間だから、危ない橋が身の回りに無数に架けられるのは息苦しくてたまらない。橋を渡るまいとして、ますます小心に、ますますいじけていくに違いないのである。

そして一番肝心なのは、「なぜ今、共謀罪なのか」ということだ(むろん共謀罪の法案はつい最近できたものではないけれども、比較的新しいものではある※)。共謀罪は戦前の治安維持法より、悪法という意味においてはるかにまさると法律の専門家の人達は言う。そうかも知れない。いや、確かにそうなのだろう。治安維持法よりも緻密で、初めに書いたように軽微な犯罪以外すべてに網をかけているのだから。

そのことは承知の上で(というより、専門的に研究している人達の正確な解説に任せて)、私は大雑把なことだけを言おうと思う。ブログで何度か書いたような気もするが、今しゃにむに「改正」や「成立」をもくろまれている法律は、すべて根っこの部分で通底している。「国あっての人民である」「国を愛せ」「国を守れ」というかけ声と共に、「国家」という幻想をあたかも太古の昔から確定していた実体のように我々の心に焼き付けようとしている者達がいる。だから、ひとつとして譲ってはならず、ひとつとして負けてはならない……。一昨日「飼い慣らされまい」というタイトルで文を書いたが、「不逞なことを、集まってこっそり話すだけでも罪に問う」のは飼い慣らしの方法のひとつであり、それもかなり飼い慣らしが進んだ時に有効になってくる方法だ(飼い慣らしが進んでいなければ、普通、テメエ何言ってやがると反発を食らうはずである)。そうか、既に飼い慣らしは相当の段階まで進んだという判断があるのだな……と私は思わずにはおれない。

以前、こんなことを書いた覚えがある(大したこと言える人間ではないので、何を書いても結局のところだいたい似たような話になってしまうのだ)。
【憲法改定国民投票法案も憲法改定も、「あれはいいが、これはダメ」という話ではないのだ。おまえの考え方、おまえの姿勢、おまえの依って立つところすべてが「NO」なのだと言わねばならない】

憲法改定はノーだが共謀罪はイエスとか、共謀罪も対象をもっと限定すればイエスであるとか、そういう問題ではないのだ。今の日本は、まさしく「戦前」なのである。
(了)◇◇◇◇◇
コメント (2)
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