教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

シューティングと死のイメージ

2010-09-26 00:03:51 | シューティング
シューティングをやっていると、時折強く死をイメージしてしまうことがある。

シューティングという読んで字のごとく、敵を撃ち殺すということを意味しているのではない。
むしろその正反対の意味だ。
自分が敵に撃ち殺されるという意味だ。

俺は簡単に死ぬ。
俺は特別な存在でない。
シューティングをやった人なら誰でもそう思う。

これは負けが死のイメージには繋がらない格ゲーとは全く違う。
わざと極限プレイをしないかぎり簡単に全滅することはないように設計されているRPGともまた全く違う。
最も簡単に死んでしまいやすいゲーム、それがシューティングだからだ。

シューティングの世界では、自分は単なる一介の兵士として戦場に赴く。
そして極めて高い確率でそこで死を迎える。
運よくクリアできたとして、それはそれでみずからの寿命が尽きたことを暗示させられる。

現代の日本では、病院勤務などでもない限り死は身近ではない。
むしろ死は隠されているというほうが近いかもしれない。
だからこそ普段は死を意識することなどありはしない。

そのことをとって自称良識派のバカはいう。
「ゲームは思春期の子供にとって死を身近にさせ、ついには人間の尊厳を軽んじる役割をしている」
のだと。

それは違う。
ゲームは確かに死を身近にするかもしれない。
しかしそこで我々は死から免れるためには死に者狂いで生きなければならないこともまた肌で実感するのだ。

アーケードのシューティングでは全2周を遊んだところで1時間もかからない。
そこでは寿命いっぱいまで精一杯生きたところで1時間の命なのだ。

だからこそ、プレイが終わり現世に帰還したときに思う。
わたしのこちら側での寿命はまだしばらくある。
残りの時間で何をして遊ぼうか・・・と。