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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

ルカ十七章五節~十節 ただ主の命に従う信仰

2024-12-10 17:07:37 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
五節
弟子達はキリストに「私達の信仰を増してください。」と言いました。それは前の節までのキリストの教えに関連しています。キリストの弟子達は「気を付けていなければならない」のです。そして、兄弟、他の弟子達が罪を犯したら、諌めなければならないし、自分に対して罪を犯した後でやってきて悔い改めるならば、赦さなければならないのです。弟子達はそれを聞いて、罪を犯した兄弟を諌めたり、自分に対して罪を犯して悔い改める兄弟を赦さなければならないとは、難しくて到底このままではできないことだ、と思ったのです。だから、キリストの言いつけを守れるように、信仰と増して欲しいと願い出たのです。

六節
キリストので弟子達への答えは、多分予想とは違ったものであったでしょう。弟子達の予想は、おそらく、キリストが弟子達に信仰が増し加えられるように、祝福の祈りなどをしてくれるというようなことであったと思われます。しかし、キリストは、とても短い植物を用いた例話で、別のことを教えました。
 最初に出てくるのは、からし種です。からし種は、パレスチナで見られる種子の中では一番小さいものです。次に出てくるのは、桑の木です。日本で見られる桑とは違う品種かもしれませんが、パレスチナでは身近な植物で、その特徴は、根がとても強くて、広く深くはるということです。ですから、そういう桑の木を引き抜くというのは、殆ど不可能に近いことなのです。その根の強さで、樹齢が六百年ぐらいにまでなるという説明をしている注解も有ります。
 キリストはこの例話で何を教えたのでしょうか。
 「からし種ほどの信仰が有ったなら」と言っています。からし種は確かに小さいかもしれませんが、きちんと発芽して成長します。つまり、からし種に命が有れば、大きさなどは関係無いのです。同様に、信仰は持っていさえすれば、そして、それを働かせさえすれば、結果が伴うのです。増し加えられるようなものではないのです。ただ、信仰でありさえすれば良いのです。
 桑の木を抜くのはその根の強さのせいで殆ど不可能です。大勢の人や牛馬を使えば抜けるでしょうが、それは大儀なことです。これは、躓きが起きないように気を付け、兄弟を諌めたり、赦したりするのが困難だと考えた弟子達の心の持ち方を表しています。しかし、信仰を働かせさえすれば、諌めることも赦すこともできるのだとキリストは言っているのです。それを、目の前に有る桑の木が、近くにあるガリラヤ湖にでも移ってしまうと表現しているのです。
 ここで一つ確認しておくべきことが有ります。信仰とは何かということです。信仰を表す言葉の持つニュアンスは、信じること、信頼することの他に、忠実であること、忠誠を尽くすことという部分も含まれているのです。ですから、この例えは、もし命令を下した方が神であると知っているならば、信じているならば、また、その方を信頼し、忠誠を尽くすべき神だという認識が有るならば、ただその心構えから、それを行動に現すだけで、その弟子の恐れる困難は困難でなくなるはずだということです。逆に言えば、それだけの神への信頼と帰依がなければならないということです。

七節、八節
ここからキリストは、関連するもう一つの例話を示します。しもべもしくは奴隷と主人との関係を示して、キリストの弟子と神との関係を確認しているのです。
 しもべや奴隷が耕作や羊の群れの世話から帰ってきたということは、そんなに楽ではないその日の仕事をやり終えてきたということです。ですから、彼らは疲れているかもしれません。しかし、だからと言って、主人は彼らに食卓に着くようには言いません。しもべや奴隷は、あくまでも主人のために働いているのであり、一日の仕事は最後まで決まっていて、それを終えることに優先順位が有るのです。ですから、しもべや奴隷が疲れて野から帰ってきても、主人は当然のこととして次の割り当ての仕事の指示をするのです。
 割り当ての仕事が変われば、装いもそれに相応しく替えなければなりません。畑仕事の時の服のままで主人の食卓を整えて給仕することはできません。相応しい服に着替え、また、袖やその他の部分が過って主人の料理に触れたりしないように、帯を締め、現代風に言えば、エプロンなどもしなければならなかったかもしれません。
 この例話を読むと、主人は奴隷に冷たいのだと考え、弟子と神の関係もそんなものなら、神は善なる存在ではないではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、これはあくまでも例話です。そして、その中心は、しもべや奴隷の仕事は当然するべきものであり、優先順位が有るということに有るのです。そして、キリストはこの例話の中ででも、弟子への配慮の部分も忘れてはいません。例話の中の主人に「あとで、自分の食事をしなさい。」と言わせています。しもべや奴隷の食事は、主人が十分足りるように支給するのです。また、ギリシャ・ローマ文化における奴隷は、私達が持っているこき使われる使用人という印象とは違い、家族の一員と考えられていたのです。ですから、この例話においても、神とキリストの弟子との関係は、そういう家族的な関係として捉えられるようになっているのです。

九節、十節
キリストは例話の中心となる事実の再確認をして、その原則に従った弟子達への直接の指示を与えます。
 主人はしもべや奴隷が割り当ての仕事をしたからといって、いちいち感謝したりなどはしません。しもべや奴隷の方も、そんなことは当たり前だと思っていますから、そのような期待は持っていません。同様に、キリストの弟子達も、キリストの命じることや、聖書の命じることをしたら、たとえそれが難しい内容だったとしても、賞賛や栄誉を求めるようなことはしないのです。そして、いつでも、しもべである自分と神との関係を自覚し、告白できる準備ができていなければならないのです。
 キリストが弟子に言うように指示した言葉の中に、「役に立たないしもべ」という表現が有ります。この「役に立たない」と訳された語は、「求められたことを超えない」と言う意味で、無能であるとか、求められた水準に満たないという意味ではありません。この言葉には、しもべとしての謙遜な態度のほかに、忠実に命じられたことをするという部分も含まれているのかもしれません。
 また、この指示と結論は、パリサイ人達の批判も含まれていて、弟子達に彼らに倣わないように警告をしている部分が有るように思われます。パリサイ人達は、律法や伝統を守るべきこととして教えていました。守るべきことを一生懸命守るだけなら良かったのですが、週に三回断食しているとか、日に三回の祈りの時間を守っているとかいうことを、これ見よがしに目に付くように行っていたのです。彼らは外出中に祈りの時間が来て、人目の付く通りで祈りを始められるように予定を組んだとさえ言われています。彼らは、するべきこととして教えたことを実行するだけでなく、人からの賞賛や誉を求めていたのです。
 プライドのために行動し、人々を神の御心から引き離し、収税人や罪人を見下し、お金に貪欲で、人々の躓きとなっていたパリサイ人の性質は、サタンの性質の反映でした。しかし、キリストの弟子はそんなパリサイ人と同じ態度を取ることは決して有ってはならないのです。「信仰を増してください。」と頼んだ弟子達は、信仰を強くしてもらって、難しい兄弟を諌めることや、兄弟を赦すことができるようになって、「よくやった」と褒めてもらうことを期待していようです。キリストは、弟子達の中に賞賛や誉を求める心が有ることを見て取って、そのような態度に釘を刺し、諌めようとされたと考えられます。
 

まとめ
弟子とは、師に学び従う者という意味が有ります。私達もキリストに学び従う者です。キリストのこの例話と教えを心に留めて生きなければなりません。この箇所から心に留めておくべき原則は何でしょうか。

私達は躓き、すなわち罪への誘惑や、間違った信仰理解に迷い出させることを避けなければなりません。そのためにキリストは弟子達に同じ信仰を持つ仲間が罪を犯したなら諌め、悔い改めるなら赦すことを命じました。弟子達にはそれはとても難しいことと思われましたし、実際に私達が取り組む場合にも困難に感じることです。

しかし、私達はただ主の命に従う信仰を持たなければいけません。そのためには、
1) 我々が仕えているのは神であるという自覚を持つこと
2)信仰を信頼と忠誠のうちにただ働かせること
3)賞賛や栄誉を求めないで、謙遜と忠実のうちにただ従順すること
です。
こうして、例え困難に感じても、同じ信仰を持つ仲間が罪を犯した時に諌め、悔い改めるなら赦すことを実行に移せるように、気を付けていなければならないのです。






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