新聞の片隅に「日本傷痍軍人会」の解散を伝える小さな記事があった。昭和27年に創立された財団法人で、最盛期には35万人の会員がいたが、現在は平均年齢91歳、会員数も5100人で、活動が困難になってきたので明年を持って解散することになった。傷痍軍人は戦争中は”白衣の兵隊さん”と崇められていたが、無情にも戦後はその風潮はなくなり、生活に困った一部の人は繁華街やお祭りの縁日などで、アコーデイオンをひき、軍歌を歌いながらおカネを集めていた。
「日本傷痍軍人会」が昭和27年と知り、僕は改めて戦後のまだ社会保障も充実していなかったあの時代だ。傷痍軍人の人たちは、さぞかし生活が大変だっただろうと同情した。盛り場で悲しい軍歌を歌っている傷痍軍人をみると”あの連中は、偽の傷痍軍人だ”と世間の目は冷たかった。あの時代はまだ身障者一般に対しても理解が低かったこともあった。
数年前だが、シンガポール上陸作戦に従軍した近衛歩兵4連隊の戦友会に招かれ出席したことがあった。戦友会の幹事役のTさんも右足に銃弾があたり切断されていた。この上陸作戦では、たった5日間の戦闘で日本軍は1713人の死者と3387人の負傷者を出している。戦後インドネシアに残り、独立戦争に参加したIさんは、大東亜戦争ではなく、独立戦争でオランダ軍が投げた手榴弾が命中、拳を失っていた。
平成になって四分の一世紀、平和の時代が続いている。激動の昭和の一つの象徴ともいえる「傷痍軍人」が姿を消し、人生の大半が昭和である僕らにとっては感慨深いものがある。
「日本傷痍軍人会」が昭和27年と知り、僕は改めて戦後のまだ社会保障も充実していなかったあの時代だ。傷痍軍人の人たちは、さぞかし生活が大変だっただろうと同情した。盛り場で悲しい軍歌を歌っている傷痍軍人をみると”あの連中は、偽の傷痍軍人だ”と世間の目は冷たかった。あの時代はまだ身障者一般に対しても理解が低かったこともあった。
数年前だが、シンガポール上陸作戦に従軍した近衛歩兵4連隊の戦友会に招かれ出席したことがあった。戦友会の幹事役のTさんも右足に銃弾があたり切断されていた。この上陸作戦では、たった5日間の戦闘で日本軍は1713人の死者と3387人の負傷者を出している。戦後インドネシアに残り、独立戦争に参加したIさんは、大東亜戦争ではなく、独立戦争でオランダ軍が投げた手榴弾が命中、拳を失っていた。
平成になって四分の一世紀、平和の時代が続いている。激動の昭和の一つの象徴ともいえる「傷痍軍人」が姿を消し、人生の大半が昭和である僕らにとっては感慨深いものがある。