やって見せて
言って聞かせて させてみて
ほめてやらねば 人は動かず
などと、ずる賢こそうな歌があった。
ほめてやって、させるほうがしめしめと思っているうちに、ほめられ、おだてられなければ動かない人間が増えていく。
自分から進んで何かしようとはしなくなっていく。
ほめられそうもないことにはなるべく動かないよう、智恵以前に、習慣が脳へ命令する。
パソコンを何台か並べて共用で使う場がある。
マウスを動かそうとすると、前回の終わりにコードをくるくる巻いてあった姿のままでUSB端子に突っ込んである。
片付けるのに楽だから、使う不便は我慢する、逆転珍発想である。
こういうのも、なるべく動かないようにという習慣のついた人の仕業だろう。習慣は本人が望んでつけたことではないから、気の毒ではあるのだが。
やって見せることにも、ひとつ困ったことがある。
やって見せる喜びがそれだ。
人に何かを教えるには、はじめの歌も、はじめのほうは役に立つ。
「させてみて」がいちばん肝心なところなのだが、教えるほうがやって見せる喜びに浸ってしまうと、させてみてまで行かずに終わってしまう。
「まねぶ」ところ、体験する番まで回って来ずに、中途半端な学習になる。
させてみるよりやったほうが早いと感じるのは、なんでも時間短縮はよいという集団現世病で仕方のないことだが、そこでじっと我慢がいるのだ。
教えるということは、それを楽しんでばかりはいられない、辛いこともあるのだ。