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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

地名と沖縄戦

2008-12-22 12:02:04 | 沖縄戦/アジア・太平洋戦争
 下記の文章は「地名と沖縄戦」と題して「日本近代文學館」(第226号・2008年11月15日発行)に掲載されたものです。なお、今帰仁の地名の由来の部分は書き直しました。

 私が生まれ育ったのは沖縄島北部の今帰仁村という所だ。今帰仁と書いて「なきじん」と読む。沖縄の地名には東江(あがりえ)、西表(いりおもて)、城間(ぐすくま)など、ヤマトゥの人にはとうてい読めない漢字の当て方がされているものがある。その多くは沖縄の言葉に漢字の意味を当てたものである。沖縄では東は太陽が上るので「あがり」、西は沈むので「いり」と言い、城のことを「ぐすく」と言うのだと知れば納得できるだろう。ただ、「今帰仁」という地名の由来は定説がなく、伊波普猷は外来者統治を表す「いまきじり」が変化したものだと唱えている。(注)
 その今帰仁村の東部に運天というがある。今では字のとおり「うんてん」と読んでいるが、お年寄りたちは元々の地名で「うんてぃぬ」と発音している。運天港という港があり、漁師(うみんちゅ)の多い所で、源為朝が漂着したという伝説がある。島流しとなった為朝の乗った船が嵐にあった。為朝は「運を天に任す」と言い、そうやってたどり着いた場所なので運天という地名がついた、という話である。家族や地域の大人たちから村の子どもたちは必ず聞かされる話だ。
 そういう伝説が残るくらいだから歴史は古く、薩摩の琉球侵攻やペリーの琉球来航など、琉球・沖縄史の重要な局面でその港名が現れる。高校生の時、三島由紀夫の『潮騒』を読んでいたら、最後の所で運天港が出てきたので驚いたことがある。三島は主人公・新治と為朝を重ね合わせていたのだろう。
 沖縄戦の際、運天港には海軍の魚雷艇や特殊潜行艇の基地が置かれた。そのために運天港一帯は米軍の激しい空襲にあっている。海軍は壕を掘って魚雷艇を隠し、木々で偽装していたのだが、米軍の攻撃は正確だった。日本軍は沖縄の住民にスパイがいて、米軍に壕の位置を教えたのだと思いこむ。
 沖縄が近代になって日本に併合されたことや、海外移民が多かったこともあって、日本軍は当初から沖縄の住民に不信感を抱き、厳重な防諜体制を敷いていた。米軍の攻撃により壊滅的な打撃を受け、陸戦へ移行した海軍部隊はその不信感を爆発させ、スパイ容疑で住民虐殺を行っている。
 しかし、スパイというのは日本軍の差別意識と偏見に基づく濡れ衣でしかなかった。米軍は沖縄全土の航空写真撮影をくり返し行い、日本軍の軍事拠点の探索を徹底していた。のみならず、沖縄関係の資料を集め、分析し、ハワイや米国本土に移民していた沖縄人から情報収集も行っている。資料の中には、ペリーが琉球来航時に各地で行った測量調査や港の調査の記録、作成した地図なども含まれていた。そういう事前の調査、情報分析が米軍の攻撃の正確さを生み出していたのだ。日米両軍の差はたんに物量だけにあったのではない。
 ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』(伊藤真/曽田和子訳 講談社学術文庫)を読むと、金武湾(チムワン)、東恩納(ヒザオンナ)沢岻(ダケシ)、与座岳(ユザダケ)、八重瀬岳(ヤエジュダケ)というように、沖縄の地名に当時の米兵の読みが記されている。それを見ると、米兵たちが沖縄の元々の呼び方で地名を呼んでいたのが分かる。ハワイや米国本土にいた沖縄人から情報収集したことの表れであろう。
 今帰仁村で日本軍に虐殺された住民のひとりは、私の中学の同級生の祖父である。別のひとりは小学校の先生の兄である。私の父や祖父も日本軍に命を狙われた体験を持ち、日本軍の住民虐殺は私にとって身近な過去の出来事だった。為朝伝説や薩摩侵攻の話と同じように、それは子どもの頃に祖父母や両親から聞かされた話のひとつであり、ヤンバルとよばれる沖縄島北部の村にやってきたヤマトゥの武人・軍人たちの歴史でもあった。

(注)伊波普猷は「運天の古形を辿る」で以下のように述べている。
 〈今帰仁の称も亦多分、鎌倉期の終わり頃、例の侵入のあった事を語るもので、外来者統治(ルビ:いまきじり)の簡単な記念碑である。琉球国図の伊麻奇時利はその古形で、右の事実を暗示しているが、神歌ではこれが「みやきぜん」に転訛している。島津氏の陣中日記には、今きじんと見え、同布令書並びに『〔琉球〕神道記』には、今鬼仁と出ているが、『喜安日記』に、初めて今帰仁と現れ、『由来記』『旧記』共に、之を踏襲して、現在に及んでいる。
 古代国語で、支那若しくは朝鮮からの新来者をイマキと云ったのが、のちにその居住地の称呼ともなって、今木或は今城が宛てられたように、同半島でも新来者(ルビ:いまき)が、やがてその居住地の名ともなり、この地方が北部の政治的中心地となるに及んで、その下に、統治を意味する「知り」が附き、「いまきじり」となった、と見て差支えなかろう〉(引用は『伊波普猶全集 第四巻』平凡社より。一部新仮名遣いに直す)。
 『なきじん研究』Vol7には仲原弘哲氏の『「今帰仁」の呼称ーその語義と変遷ー』があり、今帰仁の地名について、伊波普猷、東恩納寛惇、島袋源七の三氏の説がまとめられ、諸文献に書かれた表記の変化が整理されている。

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12 コメント

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スパイ (阪神)
2008-12-23 00:18:18
沖縄戦記を読み続けているところですがスパイとして殺された人は知的障害者と思われる人や爆風や栄養失調や恐怖心で精神に異常をきたした人が捕らえられています。また北部は住民が早期に米軍に保護されているので、米軍と通じているとして処刑された人もいます。「空白の沖縄戦記(森杉多)」には目の前でスパイとして処刑した住民3名が書かれています。また、スパイは若い女&赤い絹のハンカチ(スカーフ)&手鏡&富士額&陰毛を剃り落としていると兵士の間では言われていました。これは下士官や将校の鬱屈した考えを反映したものだと思います。
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鹿山事件 (キー坊)
2008-12-23 12:21:04
1972年4月の「サンデー毎日」に2回、「久米島虐殺事件」について報道されています。戦時中、久米島の海軍駐屯隊が、住民20数名をスパイとして惨殺した事件です。
4月2日号で、この事件が初めて日本全国に知られたようです。この号では「K」兵曹長として隊長名が記されていたが、K隊長は報道直後の4月4日、テレビ出演に応じ、東京の局で沖縄の犠牲者の遺族らと2元中継で対面している。4月30日号には鹿山正の実名と、唇を噛んだような顔写真が載せられてます。当然、遺族からは責任を追及され、罵声も浴びせられたが、彼は「久米島の方々には申し訳ない事をした。深くお詫び申し上げる。」「しかし、私の信念は『お国の為に』であった。」と、詫びつつも戦時中の所業を否定しなかった。

興味深い事は、番組に寄せられた視聴者からの反響が、本土と沖縄とでは明確な違いを見せた事です。沖縄からの意見は「八つ裂きにしたい」「責任追及の姿勢が弱い」等がほとんどであったが、本土からは7割以上が、「戦争の犠牲は沖縄だけじゃない、沖縄を甘やかすな」「鹿山元兵曹長の家族の迷惑も考えろ。本人もかわいそうだ」といった擁護の意見だったそうです。
番組を見た日本人(大和人)の7割が鹿山に同情的という訳ではないと思います。おそらく、9割は鹿山の所業を非道だと思ったことでしょう。しかし、その人たちはテレビ局に進んで意見を寄せなかった、と私は思います。日本(大和)人にとって、鹿山元兵曹長は自分らの身内であるが、沖縄の人々は他所の人であるという、抜きがたい潜在意識が日本(大和)人の根底に在ると思うからです。
沖縄の現状を見るにつけ、36年経った今もそれは変わってないのではないでしょうか。
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ナンブチャー (京の京太郎)
2008-12-24 11:39:38
京都から琉球に渡った袋中上人のことを調べていた時、1フィート運動の会の中村文子さんから聞いた話。
「ニンブチャー(念仏者)と呼ばれた人々のことで何かご存じないですか?」「ニンブチャーではないが、私が子供のころ『ナンブチャー』と呼ばれていた人が毎日家々を食べ物をもらいに歩いていました。食べ物がないときにはヒンプンの前にお金を置いたりしていました。ナンブチャーから余った食べ物を買い取って豚の餌にする人もいましたよ。そのお金で生活に必要な物を買って生活していたようです。海岸の穴ぐらを住処にしていたようです。那覇から本部まできて住み着いた『ナンブチャー』もいたようです。」「お葬式には関係していませんでしたか?」「村でお葬式があった時、どこからか家の前に戸板を2枚立てて中で鉦を叩く編み笠をかぶった人がいました。海岸の墓まで鉦を叩きながら葬列の先頭を歩いてました。」「ニンブチャーは鉢叩きともヤマトでは呼ばれていましたから『ニンブチャーー』かもしれませんね。」
檀王法林寺の記録のなかに昭和初期まで『ネンブチャー』と呼ばれる人々が沖縄にいた。とある。宗派に関係なく葬儀に関わっているとして小禄念仏とは無関係な者達であり、姿は乞食同様の姿をしている者たちである。と記録されている。
チョンダラー(京太郎)も人形を使い門付け芸で放浪する者達である。鉢叩きもし念仏専称の在野の仏教者であった。首里を拠点に明治の初期まで活動していたという。
チョンダラー(京太郎)とネンブチャー、そしてナンブチャーと呼ばれた人々に宗教教団の人が言われるほど厳密な区別は無いのではないのかと思う。中世のヤマトの世を流浪する人々が浄土を求めて琉球にたどり着き土着化した姿なのではないだろうか?。同じ人々があるときはネンブチャー、あるときはナンブチャーと呼ばれていたのだろう。
わが一族も「水辺の流民」なのだそうだ。昔、谷川雁氏と酒席を共にした時に姓がそうだと指摘された。まあ、そんなものなのだ。農民も漁民も親戚にいない。行商の仕事関係が多く、現在は運送業が多い一族なのだ。
「ナンブチャー」と呼ばれた人とはハンセン病者のことだ。中世の絵巻の中に犬神人と言われる者達が描かれている。編み笠と手ぬぐいで顔をかくしている。彼らもそうなのでないかと思う。
 戦争中、軍はハンセン病の方々を狭い収容所に強制隔離し、沖縄本島の愛楽園では戦後1年で274人の方が栄養不足から様々な病気で亡くなられた。栄養不足の状態を作り出したのは、日本軍であり沖縄戦である。この無謀な戦争によりヤマトの精神病院、ハンセン病院などでも100人単位での犠牲者を出している。軍事優先で社会的弱者を無視した結果なのだ。これも「虐殺」だと言うべきではないか。
 米軍再編での基地建設費用など出す法的根拠はなかったはずだ。「人殺し」の為に使う金があったら、「生きる為に」「まっとうに働た人々」に使うべきなのだ!もともと彼らが納めた税金なのだから。いま派遣切りで失業した人、していく人々と共にもっと声を上げたいと思う!。
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ナンブチガマ (目取真)
2008-12-25 03:50:50
今帰仁ではかつてハンセン病のことをナンブチと言い、ハンセン病者のことをナンブチャーと言いました。
私の実家の近くには、ナンブチガマと呼ばれたガマ(洞窟)があります。
私が子どもの頃、祖父母から、海岸や河口部のガマは昔、ナンブチャーが住んでいたので中に入ってはいけない、と教えられました。
実家の近くのガマは、かつてはマングローブや蒲の茂る河口部にあり、集落に住めなくなったハンセン病者が住んでいたと祖父から聞きました。
1975年の海洋博の頃、ガマの周辺は埋め立てられて道路となり、道のすぐ側にガマを見ることができるようになりました。
それから30年余が経ち、つい最近、道路拡張工事のためナンブチガマの一つが埋められ、周囲の景観は大きく変わろうとしています。
その辺りにナンブチガマと呼ばれたガマがあり、そこがどのような場所であったかを知る人も、今ではごく少数となりました。
愛楽園ができるよりも前、ハブやマラリア蚊の多い湿地帯のガマで、死期を早めたハンセン病患者がどれだけいたことか。
だからといって、愛楽園への強制隔離がよかったというのでは、もちろんありません。
愛楽園ができる過程では、嵐山事件というのもありました。
そのような「土地の記憶・歴史」も伝えていかなければと思います。
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波之上宮あたりのガマ (阪神)
2008-12-25 20:54:02
書籍名は失念しましたが、波之上宮あたりのガマに住み着いていた2人の男がスパイの疑いがあるとして交番につれて来られたそうです。彼らはナンブチャーだったのかもしれませんね。そういえば牧志公設市場周辺の商店街で目の見えないホームレス風のおじいさんが歩いていたところ、商店のおばさんがこのおじいさんの腕を掴んで声をかけていました。何かをあげようと話しかけていたようです。いつもの事のような感じでした。沖縄ではまだナンブチャーの人達に対する風習のようなものが残っているのかもしれないと思いました。
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ナンブチャーという言葉について (目取真)
2008-12-25 23:13:17
前のコメントで、ナンブチ、ナンブチャーという言葉を使いましたが、この言葉は激しい差別を生み出した言葉であり、その言葉を目にしたり、耳にしただけで胸を掻きむしられるような思いのする人が、沖縄には今でもたくさんいることを自覚して、慎重に使いたいと思います。
語源を考察する上でナンブチャーという言葉を取り上げるのは問題ないと思いますが、私にとっては今でも、この言葉を書くことに心中穏やかならざるものがあります。
それは私が今帰仁に生まれ、祖父母と暮らして母語としてその言葉を身につけたからであり、文献解釈では計り知れない感覚です。
以後、当コメント欄では、特に必要のない限りは、ハンセン病、ハンセン病患者という言葉を使っていただきたいと思います。
沖縄戦を前にして、沖縄にやってきた日本軍はハンセン病患者の強制隔離を強行に進めました。
海岸部は敵の潜水艦に合図を送る可能性があるとして、防諜対策の上では警戒地帯だったでしょうから、ガマに住んでいた人たちは徹底して排除されたと思います。
その頃まで海岸一帯のガマにハンセン病患者がいたとしたら強制隔離されたと思いますが、ガマに住んでいたからハンセン病患者と即断してはならないと思います。
ホームレスのおじいさんに何かを上げようとしたということと、「ナンブチャーの人たちに対する風習」を結びつけるのは思考の飛躍であり、危うさを感じます。
私の父方の祖母は明治40年代に生まれていますが、子どもの頃、家の前に物乞いに来たハンセン病患者がいると、怖くて芋をおいてすぐに家に引っ込んだ、と話していました。
中には親切な人もいただろうし、交流があった例もあるでしょうが、ハンセン病患者が過酷な差別を受けた歴史は沖縄も変わりません。
ハンセン病患者はクンチャー(物乞い)とも言われましたが、それは彼らが家や村から排除され、物乞いをしなければ生きていけなかったからであり、その差別を見ずに「風習」という言葉を使うのは危険でしょう。
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「ハンセン病患者の沖縄戦」 (目取真)
2008-12-25 23:23:48
沖縄ー問いを立てるシリーズの4として、屋嘉比収編『友軍とガマ 沖縄戦の記憶』(社会評論社)が今年の10月に刊行されました。
その中に吉川由紀「ハンセン病患者の沖縄戦」という評論が収められています。
参考までに紹介します。
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映像記録「沖縄・愛楽園の沖縄戦」 (京の京太郎)
2008-12-26 09:46:01
中世の社会から排除され、差別されて、流浪の暮らしをするしかなかった人々のことを知りたくて「高野聖」「遊行(僧)」を追いかけていたときに出会った「言葉」です。ヤマト口で「難物者」「難病を持った人」とでも訳すのでしょうか?「遊行」の果て、山中に倒れ骸をさらすしかなかった人々の歴史です。一遍上人や法然上人の遊行を描いた絵巻にはその時代の差別にさらされた人々が共に旅をしていた様子が描かれています。
 未だ様々な不条理な差別が残る世の中ですが、過去から学ばなければ、差別を乗り越えていく、人は人と成り得ません。説明不足な紹介をし、申し訳ありませんでした。
 しかし出会いはどうであれ「ハンセン病患者の方々の沖縄戦」へ学習のきっかけとしていただければと思います。
 大分前(戦後49年)の作品ですが、沖縄戦記録映像作品として、報道番組ザ・スクープの「愛楽園の沖縄戦」があります。一人も沖縄戦で亡くなっていないとするなど取材不足もありますが、早田壕の構築の経緯、病院関係者、患者さんたちへのインタビューなど収録されています。沖縄戦1フィート運動が発掘した映像を使用した作品です。
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地名(基地名)と沖縄戦 (京の京太郎)
2008-12-26 12:51:24
沖縄の海兵隊基地の名前は沖縄戦で戦い戦死した海兵隊兵士の名前が付けられている。戦死した彼らを英雄として顕彰するために。どの基地にも新兵へ語り継ぐために、兵舎の入り口には、英雄とされた兵隊の戦功と遺影の展示コーナーがある。キャンプシュワブもそうだ。一番多く、日本兵と沖縄人軍属を殺害した者が英雄なのだ。沖縄の人にとっては常識だろうが、ヤマトの人は知らない事実だ。沖縄の米軍専用のテレビは繰り返し沖縄戦の戦いを放映し、新兵に海兵隊魂を叩き込もうとしている。殺人兵器に若者が作り変えられていくのだ。米兵が犯罪を起こす度に「よき隣人政策?=兵への教育強化」をすると米軍当局は繰り返すが、意味がないことだ。彼らが今だ占領軍意識丸出しで沖縄に居座っていることが基地への「命名」からも分かるではないか。その様な米軍にまた新たな基地建設を自らの血税を使って許す我々ヤマトの民の「平和」とは何なのか?
「憲法9条」実現と叫ぶなら「沖縄」を忘れまい!と思う。
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浅はかで申し訳ございません (阪神)
2008-12-26 14:41:07
歴史を調べず私の勝手な思い込みでした。障害者が沖縄戦でどのようになったのか知りたいと思っておりますので紹介いただいた書籍も読ませていただきます。
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