海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

溺れた犬は叩け!

2008-12-30 19:12:01 | 「集団自決」(強制集団死)
 『正論』09年1月号に藤岡信勝〈沖縄戦集団自決「大江裁判」控訴審 裁判長こそ証言者への名誉毀損ではないか〉という評論が載っている。題名からしてトンデモ系の臭いがぷんぷんしているのだが、その中味はというと、藤岡氏が押し出した宮平秀幸氏の証言が小田裁判長に〈虚言〉と断じられ、なおかつ藤岡氏自身の意見書もろくに相手にされなかったことへの恨み辛みと、控訴審敗訴の責任逃れの自己弁護が書き連ねられている。行間から敗北感と消耗感が漂い、思わず「グソ~ン」とウコー(御香)の一本も上げてやりたくなるほどだ。

 〈控訴審で元隊長側は、宮平陳述書と、それに対する大江・岩波側の批判に反論した私の意見書など、大量の書証を提出して隊長命令説の誤りを論証した。
 しかし、判決は「控訴棄却」だった。その内容は一審に輪を掛けた大江・岩波よりの偏向したものだった。小田裁判長は初めから大江を勝たせることを決めていたに違いない〉(『正論』09年1月号261ページ)。

 〈小田耕治裁判長は確かに意欲的に仕事に取り組んだようだ。しかし、その意欲とは、大江健三郎をどのように勝たせるかということに向けられた意欲であり、そのための理屈をひねり出すことが課題であった〉(同261ページ)。

 〈宮平証言が認められれば、隊長命令説が「真実でないことが明白」になったといえるだろう。小田裁判長もそう考えたからこそ、宮平証言を目の敵にして、その証拠価値を否定することに躍起になったのである〉(同263ページ)。 

 〈これほど一方的な証拠採用を裁判所が行うものだとは、関係者として経験するまでは想像もできないことだった〉(同264ページ)。

 〈小田裁判長は、こういう手合いの証言を信用するかたわら、秀幸の陳述書で展開されている膨大な証言の山には目もくれず、私の意見書に盛られている多数の論点には一顧だにしない〉(同269ページ)。

 泣き言繰り言のオンパレードというか、小田裁判長に対する批判と呼ぶにも値しない中傷を藤岡氏は書き殴っている。〈小田裁判長は初めから大江を勝たせることを決めていたに違いない〉とは笑わせる。藤岡氏もよほど精神的に追いつめられていると見える。別に小田裁判長ならずとも、宮平証言の変遷と矛盾、混乱を見れば、〈虚言〉と断じるしかないだろう。宮平証言や自分の意見書の何が問題で、どうして証拠採用されず、一顧だにされなかったのか、という反省と自己分析はなく、被害者意識丸出しで小田裁判長をなじるだけなのだから、藤岡氏もホントに救われない人物だ。
 だいたい、宮平証言にこだわって言挙げしているのは、いまや藤岡氏一人であり、徳永信一氏をはじめとした原告側弁護団や他の支援者らも「宮平証言」には距離をおいているではないか。控訴審判決文には次のような一節がある。

 〈なお、控訴人ら訴訟代理人は、期日前には、当審で宮平秀幸の証人調べを求めるとしていたが、結局、証人申請はなされなかった〉(240ページ)。

 当初は宮平氏の証人調べを求めるとしていたのに、結局、証人申請をしなかったのは、宮平証言の危うさに原告側弁護団が気づき、証人台に立てるとまずいことになると判断したからだろう。宮平証言が事実であると自信があったなら、証人申請すればよかったではないか。宮平氏は藤岡氏とともに沖縄県庁の記者クラブで会見も開いたくらいだから、沖縄の「同調圧力」云々という言い訳=嘘は通用しない。
 小田裁判長が宮平証言を〈虚言〉と断じた根拠を藤岡氏は、大阪読売テレビの取材日の間違いや宮平氏に圧力をかけた座間味村幹部を田中登氏としたことなど、藤岡氏自身が犯した誤りに求めている。しかし、小田裁判長が宮平証言を〈虚言〉と断じたのは、宮平氏の証言の変遷や矛盾、他の証言、証拠との比較検証を通して総合的に判断してのことなのだ。そういうことは控訴審判決文を読めば自明のことなのだが、『正論』の読者で判決文を読む人はごく少数だろう。それを見越して藤岡氏は、読者の目を欺こうとしているのだ。
 それにしても、自らが犯したミスへの藤岡氏のこだわりぶりを見ると、原告側の弁護団や支援者から厳しい批判を受け、それがトラウマになっているのではないかと思える。だからこそ、今さらながらミスの言い訳と弁解にあくせくしているのだろうが、その様子は涙ぐましくも醜悪である。
 さらに興味深いのは、藤岡氏がこの評論の最後に書いている次の一節である。

 〈ただ、この裁判をもともとやるべきではなかったとか、敗訴する前に控訴審の途中で取り下げるべきであったなどの一部の議論に私は与しない。梅澤、赤松両氏の決断は、沖縄集団自決の真相を国民の間に広める上で、絶大な貢献をしたのである。裁判を起こさなければ、これほど事実の解明が進み人々の関心を呼ぶこともなかっただろう。国民の目は決して節穴ではない。訴訟は最高裁の場に持ち込まれる。手弁当の弁護団の奮闘に敬意を表し、今後はむしろ言論の場を主戦場として、真実の歴史を明らかにする仕事に取り組まねばならないと考えている〉(269ページ)。

 控訴審判決が原告側に与えたダメージの大きさがうかがえる文章だ。〈この裁判をもともとやるべきではなかったとか、敗訴する前に控訴審の途中で取り下げるべきであった〉という批判が原告側の内部では噴き出しているわけだ。当然のことながらその批判の矢は、控訴審で宮平証言を押し出し、「意見書」も提出して精力的に動いた藤岡氏にも向けられているだろう。
 末尾の文章は、もう裁判には関わりません、と言っているわけだが、控訴審敗訴の責任を追及され、実際には叩き出されたのではなかろうか。元より、最高裁の場で藤岡氏が出る幕はないだろうが、控訴審敗訴のA級戦犯として詰め腹を切らされたというのが真相ではなかろうか。〈今後はむしろ言論の場を主戦場〉とすると藤岡氏はほざいているが、「虚言」をも一つの手段として沖縄戦の史実を歪曲しようとする溺れた犬は徹底して叩くだけのことだ。

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?な自由主義史観研究会の模擬授業 (京の京太郎)
2009-01-02 06:39:28
 自由主義史観研究会のホームページに佐藤民男(東京都中野区立桃花小学校主幹)による沖縄戦の模擬授業報告『小学生に教える「沖縄戦」、みんな「国」のために戦った!』授業づくり最前線という報告(2008年7月26日)が掲載されている。何としても沖縄戦を彼らの歴史認識から読み変えたいという願望も沖縄戦裁判の敗北必至の状況から、新たな運動展開をもとめての意欲作なのだろう。
 しかし、授業内容以前に授業に使用している資料(参考文献:恵隆之介『日本軍は沖縄県民を敵として戦ったのか「正論」2008年3月号』)が歴史的資料として授業の使用に耐えうるものなのか?

以下、ホームーページよりの引用
【資料1】10万人の大疎開計画と決死の補給作戦
1、大疎開計画(略)
2,決死の補給作戦
1945年(昭和20年)4月1日。アメリカ軍は艦艇・輸送艦合計1500隻、上陸部隊18万3000人をもって沖縄本島に迫ってきました。これは沖縄守備軍の約2倍です。ある日本軍兵士は驚いて、こう叫びました。
「本島西海岸、海面一帯は敵の舟艇のために海の色が見えません!」
これにより本土と沖縄を結ぶ輸送は不可能となりました。
「こうした中、考え出されたのが戦艦「大和」による物資の輸送でした。みなさんも名前くらいは知っているでしょう。3月下旬。戦艦「大和」は、沖縄県民のために、歯磨き・歯ブラシを50万人分、そしてなんと女性用美顔クリーム25万人分など大量の生活必需品を極秘に輸送したのです。残念ながら「大和」はその任務を果たせず、敵の攻撃を受け、海の奥深く沈んでしました(ママ)。(注、正しくは)しまいました。(なのだろう。)         
以上が授業の資料とされているものである。

間違い・その1
そもそも戦艦「大和」の沖縄出撃は3月下旬ではなく、4月上旬である。出航準備命令が出たのが4月2日、出航命令が出され徳山沖から佐世保に向け南下したのが4月6日、沖縄海域への出撃航路へ舵をきったのが4月7日であり、その日の内にアメリカ軍機動部隊の航空攻撃を受け沈没した。
間違い・その2
「大和」出撃は「生活必需品の輸送計画」ではなく、無謀な特攻攻撃作戦であったこと。天皇の「逆上陸を考えよ!」「もう、艦はないのか?」の指示に参謀本部が応えた勝算なきアリバイ作戦。参謀本部から「大和」の乗務員に至るまで誰一人沖縄海域まで「大和」がたどり着けると考えていた者はいない。
間違い?・その3
歯磨き・歯ブラシ50万人分、女性用美顔クリーム25名万人分をすでに米軍が上陸して激戦下にある沖縄に運ぼうと考えた者がいたのか?しかも帰れぬ特攻攻撃で出航する戦艦に「食料・医薬品」以外の物資の積み込みを許可する艦長など旧海軍にいるはずがない。いれば、ただの大馬鹿者だ。また、物資不足の状況下の日本に美顔クリーム25万人分を製造した工場があり得たのか?
 万が一、「大和」の出港時の積荷リストにその様な物資搭載が記載されているとしたら、モデル授業では「美談」として子供たちの心に印象付けようとしているが、大間違いだろう。
 日米開戦で輸出出来なくなっていた不良在庫品を「大和」出撃の混乱と無能な作戦本部の目を盗み売りさばいた、私利私欲に走った海軍兵站部と業者(死の商人)がいたと考えるのが正解なのでなないのか!。
 その様な者達を賛美する自由主義史観研究会のモデル授業は、いまも死の商人と連み私利私欲に走る者の姿そのものだ。(と子供たちと議論しよう。)


吉田 満「戦艦大和の最後」のなかに
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道ダ  (略)今日目覚ザメズシテイツ救ワレルカ
俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」

 連合艦隊敗北が時間の問題となり無駄死にを求められた者達の苦悩の遺言が記されている。映画にある「一億総特攻の先駆けとならん」ではない。

《大和》はいまも深い海底に目覚めることなく沈んでいる。

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例外 (阪神)
2009-01-03 08:25:31
「みんな」じゃなく例外も戦時中にはあったと教えれば想像力を掻き立てられるんじゃないでしょうか。
例えば学徒隊は全ての学校で編成されたのではなく、沖縄青年師範学校では編成されなかったとか、学徒隊に参加すると死ぬのは必死だから非国民と言われようとも参加させなかった親がいた&九州の学校へ転校したりとか、南部は激戦になり死ぬ確率が高いから金武で学徒隊を編成させた配属将校がいたりとか、あの戦争では数え切れないほどの例外があります。例外を通して、歴史は教科書だけで知る事は出来ないのだと教えたほうがいいと思います。
ところで、沖縄青年師範学校で学徒隊が編成されなかった理由が不明なのですが、ご存じないでしょうか?
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沖縄青年師範学校の答え (京の京太郎)
2009-01-06 09:55:53
沖縄青年師範学校の生徒には徴兵延期の恩典があったとの証言がありますから、他の学校の学生達より年齢が上だったのが「学徒隊」として結成されなかった理由です。その代わり、学生のほとんどが19年の夏に強制的に、予備学生(海軍)、特幹(陸軍)、特別操縦見習士官(空軍?)等に志願させられたとのことです。ただし10・10空襲の後、学校の組織体制が教員の疎開により崩壊し、また本土との連絡が取れなくなり、合格通知は学生達に届かなかったそうです。少数の学生が現地軍へ徴兵されて戦死されたようですが、詳しい記録はなく実態は分からないようです。「沖縄の慟哭ー市民の戦時・戦後体験記」(那覇市刊)に証言記録があります。

阪神さんへ
歴史に学び、また歴史を語るとき、例(基本?)と例外との区分けをどこでするのでしょうか?
自分達にとって都合のいい例外を見つけ出し、見つからなければねつ造し、想像力を駆使して歴史を語る『自由主義史観研究会』のような活動は許されないことと考えています。
何時の時代の歴史も、一人一人かけがえのない命をさずかった人々の生き様の蓄積記録と思います。命の記録に例外はありません。本土疎開ができて沖縄戦体験のない方も、もう一つの沖縄戦体験をされて戦後を生きてこられています。戦争の惨禍の有り様は様々です。どのようなまなざしで歴史に学び、人として生きるのか?
生きている限りの果てしない問題ですね。
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Unknown (阪神)
2009-01-07 12:47:22
京の京太郎さん、回答有難うございます。青年師範学校は県立農林学校と併置されていたようなので、農林学校勤皇隊があったのに、なぜ青年師範学校は編成されなかったのかが不明な点です。今後、市町村史にある全証言を読む予定なので判明したらお知らせします。
仰る通り、一人一人の経験があるわけですから例外はないですね。沖縄戦は一人一人の経験が全て違うという事を戦記を通して知りました。例外じゃなくて「教科書には書かれない体験」とでも言えばいいのでしょうか。語彙が未熟で申し訳ないです。
学校や組合の3,4日で行われる平和教育では嘉手納以南の戦争体験になりがちで、ひめゆりの方々の体験や住民の犠牲が語られる程度です。時間の都合でこうなるのでしょうが、なにか歯痒い思いです。沖縄戦は膨大な証言があるのに、この証言に目を通す人が少ない事が残念ですね。
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