海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

コザ暴動から40年

2010-12-20 16:57:38 | 米軍・自衛隊・基地問題
 1970年の12月20日未明、コザ市(現沖縄市)で米軍関係車両75~82台がウチナンチューによって燃やされた。コザ暴動、騒動、事件、蜂起、決起などいろいろ表現されているが、ここでは私が子どもの頃に聞いて強く焼きついているコザ暴動という言葉を使う。暴動というのは権力者側の視点によるものであり、かつウチナンチューの行動には一定の秩序があったので暴動という表現は適切ではないという批判がある。うなずける批判であるが、一方で、暴動という言葉には権力者の統御をうち破って暴れ動き、もはや止めることのできない民衆の力と、それに対する権力者の恐怖も感じさせ、そう簡単に捨てることのできない言葉ではないか、とも思う。

http://www.youtube.com/watch?v=t7FYv4CUspY

 12月19日の夕方、ゴヤ十字路から島袋三叉路まで歩いて往復し、そのあとゲート通りを歩いた。











































 最後の2枚はゲート通りだが、ゴヤ十字路周辺の景観は大きく変わった。1994年から97年にかけてパークアベニューの近くにアパートを借りて住んでいて、ゴヤ十字路やゲート通りもよく歩いたが、当時の面影さえない。12月17日付琉球新報ビジュアル版に地図入りで「コザ騒動」の状況が再現されているので、それを手にして島袋三叉路まで往復し、黄ナンバー車両が焼かれた場所などを確認していった。しかし、今の国道330号線を前にして40年前の状況を想像することは難しい。
 学生時代だから80年代前半のことだが、新城卓監督『オキナワの少年』のラストにコザ暴動のシーンがあり、その撮影に群衆の一人としてエキストラで参加したことがある。たしか泊の埠頭付近だったと思うが、乗用車を実際に5、6台燃やして撮影が行われた。そのとき、車というのはこんなに燃えるのか、と驚いた。内装の可燃物に火が回ると、車内は火の渦となって窓から炎が噴き出し、辺り一帯に煙が流れ、映画の撮影ながら騒然とした雰囲気になった。火がいかに人を興奮させるかを実感し、わずか数台でこういう雰囲気なのだから、70台以上の車が燃やされたコザ暴動は大変な状況だったのだろう、と燃える車を見ながら思った。


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