今朝の県内紙に、南洋群島帰還者会会長・沖縄テニアン会会長の宜野座朝憲氏の訃報が載っている。6月10日に享年80歳で永眠されたとのこと。
6月9日に結団式の写真を載せたが、サイパンの沖縄の塔の前で開かれた第40回の「南洋群島沖縄県出身戦没者並びに開拓殉難者追悼式」にも、宜野座氏は会長として車椅子に乗って参加されていた。そのほかホテルのロビーやレストランで姿をお見かけするくらいだったが、無理をしてでも墓参団に参加したい、という思いがひしひしと伝わってきた。
5月29日に沖縄に帰った際、那覇空港の国際線ロビーから外に出ると救急車が止まっていた。何があったのかと思ったのだが、翌朝の新聞で宜野座氏が空港から救急車で病院に向かったことを知った。
6月6日付琉球新報朝刊に「65年の痛み サイパン・テニアン最後の墓参団」という連載の第7回(最終回)が載っている。その中に、宜野座氏の家族10人がダイナマイトで命を絶った場所で線香を捧げる家族の写真と以下の文章が載っている。
〈「最後の墓参団」の報道に、チャーター2機分の約260人が申し込んだ。昨年は90人しか集まらなかったため、名古屋経由で現地入りした。墓参団には杖を突いたり、車いすに乗る遺族の姿が目立つ。65年前の地上戦当時、子どもだった遺族も70、80の齢を迎えた。
南洋群島帰還者会を20年余引っ張ってきた宜野座朝憲会長(78)も車いすで参加した。4年前から透析治療を始め、体調は万全ではなかったが、「最後」の思いが強く、参加を決めた。だが、10人の家族が最期をとげたテニアンへは渡ることができず、サイパンにとどまった。「40回目の節目だったので、無理にでも来て良かった」と宜野座会長は語った〉
宜野座氏は私の父と同世代である。10代半ばの多感な時期に戦争で家族10人を亡くすという体験が、どれだけ過酷で残酷なものであったことか。沖縄に戻ってからの苦労も並大抵のものではなかっただろう。
南洋群島墓参団の40回という数は、生き残って沖縄に引き揚げた人たちの亡くした家族への思いと、宜野座氏のように陰になり日向になり支え続けてきた人たちの努力によって続いたきたのだ。
その思いと努力に敬意を表し、宜野座氏の冥福を祈りたい。
6月9日に結団式の写真を載せたが、サイパンの沖縄の塔の前で開かれた第40回の「南洋群島沖縄県出身戦没者並びに開拓殉難者追悼式」にも、宜野座氏は会長として車椅子に乗って参加されていた。そのほかホテルのロビーやレストランで姿をお見かけするくらいだったが、無理をしてでも墓参団に参加したい、という思いがひしひしと伝わってきた。
5月29日に沖縄に帰った際、那覇空港の国際線ロビーから外に出ると救急車が止まっていた。何があったのかと思ったのだが、翌朝の新聞で宜野座氏が空港から救急車で病院に向かったことを知った。
6月6日付琉球新報朝刊に「65年の痛み サイパン・テニアン最後の墓参団」という連載の第7回(最終回)が載っている。その中に、宜野座氏の家族10人がダイナマイトで命を絶った場所で線香を捧げる家族の写真と以下の文章が載っている。
〈「最後の墓参団」の報道に、チャーター2機分の約260人が申し込んだ。昨年は90人しか集まらなかったため、名古屋経由で現地入りした。墓参団には杖を突いたり、車いすに乗る遺族の姿が目立つ。65年前の地上戦当時、子どもだった遺族も70、80の齢を迎えた。
南洋群島帰還者会を20年余引っ張ってきた宜野座朝憲会長(78)も車いすで参加した。4年前から透析治療を始め、体調は万全ではなかったが、「最後」の思いが強く、参加を決めた。だが、10人の家族が最期をとげたテニアンへは渡ることができず、サイパンにとどまった。「40回目の節目だったので、無理にでも来て良かった」と宜野座会長は語った〉
宜野座氏は私の父と同世代である。10代半ばの多感な時期に戦争で家族10人を亡くすという体験が、どれだけ過酷で残酷なものであったことか。沖縄に戻ってからの苦労も並大抵のものではなかっただろう。
南洋群島墓参団の40回という数は、生き残って沖縄に引き揚げた人たちの亡くした家族への思いと、宜野座氏のように陰になり日向になり支え続けてきた人たちの努力によって続いたきたのだ。
その思いと努力に敬意を表し、宜野座氏の冥福を祈りたい。