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海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

自警団に加わった沖縄人はいなかったのか

2023-09-09 23:58:48 | 米軍・自衛隊・基地問題

 実家の庭で咲く百日紅。花のまわりでハチが舞っていた。

 沖縄も日の暮れるのが早くなり、早朝は涼しさを感じるようになった。

 昼の日差しはまだまだ強いが、季節が少しずつ変化しているのを感じる。

 今年は関東大震災から100年ということで、祖母から聞いた話を思い出すことが多かった。

 共通語が思うように話せず、朝鮮人と疑われて沖縄人も自警団に追及され、教育勅語や歴代の天皇の名を暗唱して助かった、という話だ。

 1920年代、貧しいヤンバルの少女たちはヤマトゥの紡績工場に働きに行った。

 祖母もその一人で、神奈川の紡績工場で働き、関東大震災が起こる半年前に沖縄に戻ったとのことだった。1923年の3月末までの契約だったのだろう。

 店に行くと「朝鮮人、琉球人お断り」という張り紙があった時代のことだ。沖縄人に対する差別と偏見が、関東大震災がもたらした混乱の中で、より暴力的に噴出し犠牲になった沖縄人もいた。

 その歴史的事実が掘り起こされ、明らかにされている。今後、その研究はさらに進むだろう。

 一方で私が思ったのは、朝鮮人や中国人を虐殺した自警団に加わった沖縄人はいなかったのか、ということだ。

 差別から逃れるためにより過剰に日本人になろうとし、あるいは自らや家族が狙われることから逃れようとして、自警団に加わった沖縄人はいなかったのか。

 沖縄出身であることを隠し、苗字や名前をヤマトゥ風に変え、共通語を必死で身に付け、差別から逃れるためにより日本人であろうとしてきた一人の沖縄人。

 そういう沖縄人が、まわりで自警団が組織され、流言飛語で行動が暴力化するときに、どのように身を処したのか。そのことを想像する。

 

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