小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

卑弥呼は漢字を知っていた!

2007年11月03日 | 歴史

 邪馬台国時代(三世紀)には倭人は漢字を知らなかったというのが古代史の定説となっている。「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の地名、人名などは倭人の発音を聞いた魏の使者が漢字表記したものであると。日本に漢字が伝わったのは五世紀頃で、『古事記』にある百済から「王仁(わに)」の来朝記事がその根拠とされてきた。毎年、洪水のように出される邪馬台国関係の本や論考でもそれが自明のこととして書かれている。
 

  しかし、これに「異」を唱える人が現れた。『邪馬台国はなかった』の著者・古田武彦である。古田氏は、倭人は前漢以来「以歳時来献見」(『前漢書』地理誌)と半島の楽浪郡に朝貢し、漢字文明と接触していること。「魏志倭人伝」にも「郡使倭国 皆臨津捜露 伝送文書」と文字を使った事務作業を行っていること。そうして、決定的なことは帯方郡使が卑弥呼に対して「奉詔書印綬」と書面を渡しており、それに対して卑弥呼は「倭王因使上表 答謝詔恩」と魏の皇帝に対して答礼の上表文を呈している。これらの記事を読むかぎり、卑弥呼の宮廷には漢字に習熟した人がいたことは明らかである。(その人が倭人であったかどうかは別として)
 古田氏は至極当り前のことを言っているのである。明治以来日本の学者は「倭人伝」を本当に真面目に読んできたのであろうか。ただし、古田氏の唱える「邪馬壱国」は支持できない。中国史書『後漢書』(五世紀) にはちゃんと「邪馬台国」とあるのである。日本の学者が「大和(やまと)」に合わせるため、勝手に「壱」を「台」に読み替えた訳ではないのである。それと、『後漢書』の「倭人の条」は『魏志』(三世紀末成立)をそっくり写している。現存している『魏志』はずっと後の12世紀(南宋代)の版木本のみである。
 私も邪馬台国には漢字に習熟していた人がいたと思っている。その根拠は「倭人伝」に記された「対馬国」と「末盧國」にある。

(1)対馬国
 「対馬」の表記は「倭人伝」以来、今日まで変わらない。七世紀の『隋書』倭国伝には対馬は「都斯麻」と万葉仮名で表記されている。これは中国人が当時の日本人の発音を聞いて書いた文字ではなく、すでに漢字で日本語を書き表す方法を習得していた日本側が隋の使者に示した文字であろう。万葉仮名というのは子音プラス母音で一音節を構成する日本語を、漢字一文字で書き表すものである。現代でも新彊ウイグル自治区の首都ウルムチは漢字で「烏魯木斉」、内モンゴル自治区の首都フホホトは「呼和浩特」と表記される。日本の万葉仮名そっくりである。もし、定説のように邪馬台国の倭人が漢字を全く知らず、「ツシマ」と倭人が発音したのを漢人が表記したとすれば、先の「烏魯木斉」「呼和浩特」の例のように漢字3文字になるはずである。時代は下がるが、『明史』日本伝にも「明智光秀」を「阿奇支」と表記した例もある。しかし、「つしま」は「対馬」と漢字2文字である。これは何を意味するのか。
 

 一つには対馬は三世紀には「ツマ」と2音節語であったのか。いや、私は対馬は三世紀も「ツシマ」であったと思う。なぜなら、対馬の語源は「津島」であるからである。「倭人伝」の「対馬」は倭国側で使っていた表記をそのまま魏使が書き写したものと考えられる。対馬は上下二つの島から成り立っている。正確には日露戦争のとき狭い水路を掘削して完全に二島に分離されたものだが、古くから二島と認識されていた。むしろ、二つの島が対(ペアー)になっているというのがより正確である。「対馬」はまさにそれに適っている。つまり、漢字の意味を借りたのである(訓借)。では、なぜ「対島」と表記されなかったのか、その理由は分からないが、「対馬」は邪馬台国側で使っていた表記であることは間違いない。                                  

(2)末盧國
 現在の長崎県松浦半島にあった「末盧國」も「マツラ」と3音節である。当然、魏使は漢字3文字で表記したはずである。ところが、実際は「末盧」と2文字である。なぜか、 それは一音節語の漢字「末  mat 」を倭人語風に「 mat-u (マツ)」と母音を加えて2音節にして使用しているからである。 これは漢字で日本語を書き表す手法を習得していた七世紀頃には一般的であった。筑紫の「筑」は漢字音  tik を  tik-u 「チク」又は「ツク」と2音節で使う。 地名表記でも「信濃(シナノ)」は「 sin-a no 」、「讃岐(サヌキ)」は「 san-u  ki 」というふうに母音を加えて使う。『魏志』より400年後に成立した『隋書』倭国伝には「筑紫」を「竹斯国」と表記している。「魏志倭人伝」の「末盧國」と同じ用法である。つまり、「竹   ti k 」を  ti k-u  と母音を加えて二音節として使っている。( 一音節の漢語「末 」や「竹」を「マツ」や「チク」と母音を加えてニ音節化して使う, この用法を国語学で「ニ合仮名」と言う)。なお、『古事記』には「末羅縣(まつらのあがた)」として出てくる。
 

 この用法はすでに五~六世紀頃に造営されたと思われる埼玉・稲荷山古墳鉄剣銘文に現れる。それには「多加利足尼」とあり、この「足尼」が飛鳥・奈良時代の位階のひとつ「宿禰(すくね)」を意味する言葉であるとされている、(例、大伴宿禰家持)。 三世紀の邪馬台国時代にすでに、七世紀の飛鳥時代と同じ漢字使用法が定着していたのである。朝鮮漢字音では漢字はそのまま一音節で借用している。(例えば、「国」は kuk 、日本語の  koku  (コク) とは全く違う)
 

 これらの事実は驚くべき結論をさし示す。つまり、邪馬台国時代の倭人は漢字を知らないどころか、すでに漢字で倭人語を表記する方法を習得していた。その証拠が「対馬国」と「末盧國」である。倭人に漢字をもたらしたのは楽浪・帯方郡の漢人であろう。漢人のうち何人かは卑弥呼の宮廷に近侍していたはずである。そうして、倭人の中にも漢字に習熟していた人たちがすでに存在していた。そう考えなければ「倭人伝」にいう「倭王因使上表、答謝詔恩」などの文が理解できない。他にも、国々にあった「市(いち)」の監督官「大倭」、伊都国に置かれた政治・軍事の監察官「一大率」、この「大倭」と「一大率」などは邪馬台国が独自に決めて使っていた文字であることは明らかである。邪馬台国にやってきた漢人(魏使)がどうしてこんな漢字を思いつくだろうか、あり得ないことである。前漢以来の楽浪・帯方郡と倭国との密接な交流の歴史を再認識する必要があるのではないか。
 

 <追記>

 なぜ、明治以来の邪馬台国論争でこれらのこと(倭人が漢字を使っていた)が無視されてきたのか。その理由は単純なところにある。日本国家の中心は大和の天皇家であり、日本のすべての古代文化(古墳も漢字も仏教も)はまず大和から始まり、そこから列島の隅々まであまねく伝えられたという虚構(皇国史観あるいは大和中心史観)にある。邪馬台国=大和説こそ皇国史観そのものである。今でも、地方で立派な出土物が出ると、大和朝廷の勢力はここまで及んでいたのか、と言う学者が少なからずいる。すべてはここにある。

 近年、九州の弥生時代遺跡(紀元前後)から相次いで、硯(すずり)石の断片が出土している。卑弥呼の時代の吉野ヶ里遺跡からも硯石と研石が発見されている。おそらく、楽浪・帯方郡から倭国に移住してきていた漢人が持ち込んだものであろう。「卑弥呼は漢字を知っていた」との私の論考の正しさを証明してくれている。


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