小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

坂本龍馬 ・寺田屋遭難の謎を解く

2010年09月26日 | Weblog

 慶応ニ年(1866)1月23日夜半、坂本龍馬と長州藩士・三吉慎蔵は伏見の寺田屋で伏見奉行所の捕り手の襲われた。なぜ二人は幕吏に襲われたのか。NHKの「龍馬伝」では、その2日前の21日、有名な薩長同盟に立ち会ったことが幕府側の察知するところとなり、反幕府同盟の大物立役者を捕らえよと京都守護職・松平容保が命じたことになっている。これは論外としても、その理由が今一つはっきりしない。
 この時点で幕府は長州再征の準備を進めており、幕閣内部の意見不統一や有力諸藩の反対を押し切って、将軍後見職・一橋慶喜(その時は禁裏御守衛総督を名乗っていた)は強い意志で実施に踏み切ろうとしていた。
 龍馬の寺田屋遭難も幕府のこの動きに理由が求められる。薩長同盟の立会いはなんの関係もない。幕府側はこのような同盟を知るよしもなかったからである。その根拠は将軍・徳川家茂の名で出された長州再征の動員令に、薩摩が出兵を辞退したいと回答したのは、なんと4月14日、慶喜は驚愕した。この時点で初めて薩摩と長州が手を握っていることを幕府は知ったのである。

 -長州は朝敵ー
 先の禁門の変により、孝明天皇の怒りをかった長州は京都から追放され朝敵の烙印を押されていた。最終的にこの処分が取り消されるのは慶応3年10月14日、なんと徳川将軍・慶喜が大政奉還した当日である。この時、長州嫌いの孝明天皇はすでになく、幼い睦仁親王(明治天皇)であったので、この勅状も岩倉具視の謀略であろう。この勅状を受けて長州軍は大坂を避け、兵庫・西宮に上陸し、淀川北岸の西国街道を通って京都に入る。この後、鳥羽・伏見の戦いへと進んでいく。
 つまり、龍馬が寺田屋で襲われた時点では長州は紛れもなく朝敵であり、その4ヶ月ほど前には慶喜は長州再征の勅許を孝明天皇より得ている。これにより幕府軍は官軍となり、長州は朝敵として討たれる側となった。ほぼ一年後にその立場が逆転し、慶喜自身が朝敵として討伐される側になるとは夢にも思わなかったであろう。歴史の皮肉である。

 ここまで書くと賢明な読者は「あ、そうか」とお気付きになる思うが、寺田屋遭難の真の原因は同行していた長州藩士・三吉慎蔵(正確には支藩の長府藩士)にある。その時点で長州藩士はだれひとり京都に入ることは許されなかったはずである。薩長同盟のため入京していた木戸(桂小五郎)とて命がけの潜行であった。この時同行していた品川弥ニ郎の明治になっての談話「品川弥ニ郎述懐談」によれば、入京した木戸一行は西郷隆盛邸とか小松帯刀邸を宿舎にしている。薩摩藩の固いガードに守られていたのである。 
 
 おそらく、伏見の奉行所にだれかが、寺田屋に長州浪士らしき者がいると密告したのであろう。それを受けた奉行所は上級の役所、京都所司代に指示されているとおり、その人物の面体をあらためるため寺田屋に向かった。最初から捕縛目的とは思えない。無論、本当に長州藩士であれば捕縛して尋問しなければならないので、奉行所側も抵抗を予想してそれなりの覚悟と準備はしていたであろう。そのため、大人数の捕り手が寺田屋に向かった。それ程、京都は緊張状態にあったのである。では、三吉慎蔵の入京目的は何か。それは長州軍総督の高杉晋作から上方の幕府軍の動向を探るよう指示されていたのであろう。 

 8月21日、長州進攻に大敗した幕府軍は将軍・家茂の死を口実に停戦する。その直後、京や大坂の高札場に掲げられていた長州浪士取り締まりの高札が撤去されている。高札にはおそらく、長州浪士を見たら奉行所に通報するようにとの文面が書かれていたのではないか。それには、当然、報償を伴うはずである。

 龍馬はなぜ幕府の長州再征が決まり、京、大坂に幕府軍が充満している時、あえて長州藩士を伴って入京したのか。軽率のそしりを免れない。脱藩浪士とはいえ土佐人である龍馬は幕吏に襲われる理由がない。薩長の同盟の動きを探知するような諜報能力が時の幕府にあるわけがない。寺田屋でぶっ放した短銃が龍馬の運命を決めた。このとき被弾して死んだ二人の奉行所同心への報復が、翌慶応3年11月15日の京都・近江屋事件を生んだ。このことは同ブログ「龍馬暗殺に残された謎」に詳しく書いてあるので併せて読んでほしい。
 

 時代劇の小説やドラマでは、公儀隠密や密偵などがよく活躍するが、あれは江戸時代を舞台にした作り話である。たしかに合戦の時は物見(ものみ)といわれる偵察要員はいるが、平和な江戸社会では奉行所同心とて現代の刑事のような捜査などほとんどしなかった。それに代わって密告が奨励されていた。勿論、これには報酬が伴う。目明しや岡っ引きはそれをなりわいにしていた。そのため冤罪事件が多かったのもこれまた事実であった。また、龍馬はすでに兵庫港に着いたときから幕府密偵に追尾されていたなどの話があるが、これとて明治以降の作り話であろう。それを証明するような資料そのものがいかがわしいシロモノである。身分制度の厳しい江戸時代に密偵ていどの報告をれっきとした武士が記録に残すわけがない。それと、密偵などは町のならず者でもあった。

 <追記>
 私はこれまで寺田屋で奉行所の捕り手に襲われた龍馬が、翌年(慶応3年)の10月には再度京都に現れ、なんと大目付・永井尚志を訪ねたり、後藤象二郎の使いで越前福井に行ったりしている。また、京の町を自由に闊歩していることになにか違和感を覚えていた。たしか、龍馬は寺田屋から逃走した奉行所のお尋ね者であった筈なのに・・。当時は現代とは違い、奉行所同心が浪士に殺害されたなどのニュースが広く世間に知れ渡ることはなかった。龍馬も二人の同心を自分が殺したなどとは夢にも思っていなかったであろう。だからこそ、京の町を闊歩していた。そこに龍馬の油断があった。 龍馬暗殺事件が政治的な背景から起きたものではなく、(今でも暗殺の黒幕は誰かなどの説が飽きもせず出されている) 、長州藩士を伴って入京するという龍馬の初歩的なミスに起因していることを物語っている。

 たしかに、坂本龍馬は人間的には魅力ある人物ではあるが、在野の人である以上、政治的には無力であった。薩摩藩を動かすことのできた家老・小松帯刀などとは根本的に違う。たとえ龍馬が武力倒幕に反対であったとしても、薩摩は計画どおりそれを実行していく。龍馬にそれを阻止する力などある訳がない。坂本龍馬を政治的に排除しなければならない人物など幕末には誰ひとりいなかったことだけは断言できる。「龍馬なくして明治維新は無かった」との司馬遼太郎の言葉を信じ込んでいる人には真に申し訳ないが・・。 
 

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