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日本語の諸問題 (38) 国文法 とドイツ語文法 ーその共通性ー

2016年06月05日 | Weblog

 この奇異な感を受ける題は、国文法とドイツ語文法が共通性があることを示唆している。まさか、ドイツ語は印欧語の言語であり、日本語は系統不明とされているが、朝鮮語と同じくアルタイ系言語である。ドイツ語との共通性とは何か、それは先に「国文法はどこでボタンの掛け違いをしたのか」で述べたように、活用と語幹の設定である。それを今一度書く。

1、ドイツ語と日本語は共に動詞が活用する。

 動詞の活用  conjugate  とは語形変化(語尾変化)のことである。ドイツ語は人称によって動詞の語尾が変わる。 Ich geh-e (私は行く)、 Du geh-est (君は行く) この場合  geh-  が語幹であり、基本形は  gehen  である。どのドイツ語文法書にも「活用」という文字は使われている。一方、どの国文法教科書にも「動詞の活用」は出てくる。「書く」は「か、き、く、く、け、け」と活用する。ドイツ語は人称(私、君、彼)によって変わるが、日本語は人称は関係なく皆同じである。動詞の基本形もドイツ語同様、「書く」「捨てる」「見る」のように設定されている。

2、 ドイツ語と日本語の動詞にはすべて語幹 stem がある。

 国文法教科書には日本語の動詞もすべて語幹が設定されている。「読む」の語幹は「よ」、「上げる」の語幹は「あ」である。これ程、日本語とドイツ語は共通性のある言語なのである。 とんでもない。私の日本語文法理論では語幹を設定できる動詞と語幹そのものがない動詞がある。(「読む」や「書く」には元々語幹などない)。「捨てる」や「掛ける」は語幹「捨て」「掛け」を設定できるが、国文法では語幹は「す」と「か」である。この時点で国文法は破綻している。例えば、「真似る」という動詞は名詞「真似」を動詞化したものであるが、「ね」の部分が活用して、なんと語幹は「ま(真)」である。「真似」という言葉がまずあったからこそ「真似る」が出来たのではないのか(王朝時代は「まねぶ」)。「真似するな」と言うように「真似」は明らかに名詞である。同じ意味の言葉に漢語の「模倣」がある。

3、ドイツ語と日本語は共に形容詞が活用する

 形容詞の活用はドイツ語の場合、修飾する名詞の性(男性、中性、女性)によって活用(語尾変化)する。 gut-e nacht (おやすみなさい)、 gut-en morgen (おはよう) この場合  gut  が語幹である。国文法教科書も形容詞は「かろ、かっ、く、い、い、けれ」と活用し、語幹「たか(高)」「なが(長)」などが設定されている。これ自体は正しいが、ドイツ語の形容詞は語尾が変わっても意味は変わらない。日本語では一見、「良い」「良く」「良けれ」「良かれ」のように語尾変化を起こしているように見えるが、その意味はまったく違う別の言葉である。語幹に様々な接尾語がくっ付いただけである(膠着語)。

 以上の3点だけを見ても、日本語はドイツ語と共通性がある。今、白紙の状態で日本語を学ぼうとしている外国人にとって、この文法用語だけを見れば、日本語はドイツ語と同系のよく似た言語であると思うであろう。それは無理もない。言語学用語である「活用」「語幹」などの用語が日本語(国文法)でも使われているからである。とんでもない。ドイツ語と日本語は何の関係もない。

 <追記>

 明治の国語学者、橋本進吉はなぜ「国文法」なる日本語文法理論を作りあげたのか。私は明治人の欧米崇拝にその原因があったと思っている。今日では信じがたい話であるが、明治初期には、浮世絵などは何の価値もないむしろ恥ずかしいものだと思った当時の日本人は、浮世絵やその版木を荒縄でくくって風呂の焚き付け用に露店で売っていたという。これを見た欧米人はタダ同然でこれらを手に入れ、自国に持ち帰った。現在、浮世絵の版木を一番多く所有しているのはアメリカのボストン美術館と言われている。勿論、准国宝扱いである。なお、ピカソは天才でも何でもない、ただ日本の浮世絵をパクっただけである。写楽、歌麿、北斎こそ真の天才である。

 明治時代、旧制高校ではドイツ語が必修であった。日本語をドイツ語と同じように文明国の言語にしたかったのではないか。ドイツ語同様、日本語も動詞や形容詞に語幹があり、そして活用する。そこに国文法という世にも奇妙な文法が生まれた要因があったとしか思えない。400年前の宣教師ロドリゲスが今の国文法をどう思うであろうか。「上げる」「下げる」の語幹は「あ」「さ」だと知ったらおそらく呆然、絶句するのではないか。それほど国文法は言語の文法とは言えないシロモノなのである。

 この私の理論は間違いだと言う国語学者がいるなら、その人は是非、自信を持って外国人日本語学習者に国文法を教えてほしい。国文法は文部科学省認定の唯一の日本語文法なのだから。だからこそ義務教育で教えられているのである。日本語の正しい文法(国文法)を外国人も学習する。至極、当然のことである。義務教育で教えている自国語の文法を外国人には教えない、いや、教えられない。世界中にそんな国があろうはずがない。

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