前回も少し書きましたが…すこしというかかなり書きましたが、今日も「旅の良さ」について書いていきます。
前回同様に『BRUTUS5月号』の記事より抜粋します。
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夜、2つの川が合流する地点でキャンプを張った。ぼくとマルシオ以外には誰もいない。人工物も機械音も存在せず、川が流れる音と、夜に鳴くというセミの声だけが聞こえた。カップ麺とクラッカーで夕食を済ませ、それ以上はすることがないので、岩場にマットを敷いて月明かりに照らされた峡谷をぼんやり眺めていた。何時間が経ったころ、自分も自然の一部であることを感じさせる、心地よい一体感が訪れた。僕は「贅沢だな」と呟いて、そのまま眠りに落ちた。
(シャパーダ・ジアマンチーナ/ブラジル 魅惑と快楽のノルデスチ。内陸部へ、未知なる風景を求めてより)
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なに、この村上春樹の段落終わりみたいな文章!とか思ったんですけど、まぁ案外海外旅行にいって壮大な景色に出会うとたいしてすることがないのでこうなります。
でもなにもすることがないから言葉がないのかと言ったらそうじゃなくて、言葉を必要としないことが多いんじゃないかと思います。
言葉が出ないのか、息を飲んでしまうのか。初めはその状態から。
でもそこにいつづけると自分がそこに溶け込んでいく気持ちが生まれてきます。
僕もトルコの草原が広がる丘に立ってみて『かつて古代の人たちがここで暮らし、同じ風に吹かれていたんだ』と想像しながら目をつむると徐々に溶け込んでいく気がしましたし、モロッコでは砂漠に上がる朝日、夜浮かび上がる月にも同じようなことを思いました。
そこに言葉が必要かといえば必要ありません。
だまってそこにいるだけでいいんです。
遺跡だろうと大自然であろうと、足を止めてそこにじっとしてみるだけで自分もまた『歴史の一つなんだ』と『自然の一部なんだ』って感じられます。
本当はそれ、海外だけじゃなくて日本でもそれを感じられるはずなんですけど、どうしてだか感じにくい。
屋久島の縄文杉を見ても、熊野古道を歩いてみても、京都の寺社の庭を見ても。
小さいからかなとも思うのですが、たぶん自分の生活から隔絶されていないからじゃないかと思います。
どうしてもそこから一歩出てみれば街並みが広がっているわけで、アスファルトの大地と隣り合わせなわけです。
東京から新幹線に乗って京都に行く間、窓から外の景色を見て『京都への思いが膨らんでいきます』『ワクワクがつみあがる』なんてことはないわけで、たまたま我々の実社会に取り残されたか共存を図っているというのは否めません。
でも海外はそうじゃない。
飛行機から眼下にひろがる大海に目を奪われワクワクはとまらないし、舗装されていない道路を走るだけで明らかに違う世界が連続している。
残念なことに国内には国内の楽しみ方があるのはわかっていますが、巨大遺跡もそうですが大自然との一体感という点では海外の方に分があるように思います。
僕らが普段思っている以上に大自然は圧倒的です。
ましてや関東平野に住み続けた僕のような人間にしてみれば、朝起きてそこに山があったり、海があったり、砂漠があったりするだけで『こういう生き方もあるのか』と驚嘆し、そこにいつづけることで『自然と自分は別物ではなく、自分も自然の一部なんだ』と気付くものです。
それに気づけたときは本当に『贅沢だな』と僕も思います。