新鹿山荘控帳

山荘管理人が季節の移ろいを、書きとめました
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「伊能忠敬測地遺功表」に出会う

2014-03-31 18:02:22 | ウオーキング
芝増上寺から都営地下鉄「赤羽橋駅」に行くには、境内から隣接する芝公園を突っ切るのが早道です。
前日地図を見ていて、気になるものを発見したので、その途中に寄ってみました。

公園の南端に東京東照宮がありまして、その奥が小高い山になっていました。ベビーカーの若い奥さんが二人降りてきたのでそれほどでもないかと登ってみたのですが、短いけども結構急な坂道でした。あとで分かったのですがこの小山は、芝丸山古墳だそうです。

古墳の頂上に「伊能忠敬遺功表」の碑がありました。この「遺功表」と言う言葉が初めてで、意味がよくわからず漢字変換が一発でできません。
小学館の「現代漢語例解辞典」によると「遺功」とは「死後に残されたてがら。遺勲」だそうです。
さらに不釣り合いな「表」についても同書で調べると「事項を整理分類してわかりやすく列記したもの」だそうです。「表」と言うものにあまり尊敬の気持ちが感じられなかったものですから、調べてみました。


古墳の頂上にこんな風に碑がありました。


碑文は彫が浅く汚れていて読みにくかったので、調べてみました。

碑文

忠敬先生は1745年(延享2年)上總國に生れて下總國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳の時江戸に出て高橋至時のもとで天文暦數の學を究めた
先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって續けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った
その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海與地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測量局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである
東京地學協會はその功績を顯彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦戰中に失われるに至った
仍って今回各方面の協賛を得てこの碑を再建した次第である

1965年5月
社団法人 東京地學協會
會長 細川護立

となっています。
色々な解説で、大戦中に遺功表が失われたと述べられていますが、真実は、遺功表が青銅製であったため供出されてしまったようです。

測量業の末端に従事した私としては、敬意を表さないで通り過ぎることは出来ませんでした。
コメント
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