読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

「99.9%は仮説~思い込みで判断しないための考え方~」(竹内薫著・光文社新書)

2006-04-30 15:24:02 | 本;ノンフィクション一般
プロローグ 飛行機はなぜ飛ぶのか?実はよくわかっていない
第一章 世界は仮説でできている
第二章 自分の頭のなかの仮説に気づく
第三章 仮説は百八十度くつがえる
第四章 仮説と真理は切ない関係
第五章 「大仮説」はありえる世界
第六章 仮説をはずして考える
第七章 相対的にものごとをみる
エピローグ すべては仮説にはじまり、仮説におわる

1949年度のノーベル生理学・医学賞をとったエガモス・モニス(1874~1955年)というポルトガル人の医者。その業績は、「ある種の精神病において、ロボトミー手術の治療的な価値を発見したことに対して」。ロボトミーの「ロボlobo」が前頭葉、側頭葉の「意味」であり、「トミーtomy」が切断、切除といった意味などを知る。

さらにケン・キージーの小説を映画化した「カッコーの巣の上で」(1975年)が、その手術の悲惨さを世間的に告発したものだとは全く知らず、自分の最も好きな映画の一つなどと公言していた。

「われわれはよく事実、事実っていいますけど、こういった例からも明らかなように、事実はすべて、実は仮説のうえに成り立っているんですね。『裸の事実』などないのです。ということは、データを集める場合も、やっぱりその仮説-最初に決めた枠組みがあって、その枠組みのなかでデータを解釈する訳です」。

「つまり、『はじめに仮説ありき』ということです。なにかしらの実験を行う場合、実験者はあらかじめ『こういうデータを集めよう』と考えているわけです。なにかしらの仮説があって、はじめてそういう実態を思いつくのです。もし、そういう仮説がなければ、そもそも実験・観察をしようなどとは考えつかないわけです」。

「データから新しい理論を導きだす帰納法は、『はじめに仮説ありき』という大きな壁が立ちはだかっているためにうまく働かない、という話をしました。どんな実験データ、観測データも、実験者や観測者の頭のなかにある仮説のなかでしか解釈されないわけです。そういう意味で、『裸の事実』なんてものは存在しないわけです。だから、データが仮説を倒すことはできないんですね。『仮説を倒すことができるのは仮説だけ』なんです」。

「反証可能性-つまり、反証ができるかどうかということです。これをいいだしたのは、カール・ポパー(1902~94年)という人です。20世紀の科学哲学者の代表者みたいな人ですね。有名な『科学的発見の論理』という本の中で、ポパーは『科学』を定義しました。それは、『科学は、常に反証できるものである』というものです。・・・ようするに、決定的な証明などということは永遠にできない、というのです」。

「アインシュタイン以前は、『絶対空間・絶対時間仮説』と『エーテル仮説』がありました。しかしそれは、精密実験と合いませんでした。そこでアインシュタインは、『相対空間・相対時間仮説』と『光速度一定仮説』を採用したのです」。

「さて、この本では、あるひとつの仮説を絶対視せずに、常に『グレーンゾーン』という観点から眺めることの重要性をくりかえし強調してきました。それは、哲学の言葉でいえば、『客観から主観へ』ということです。・・・そういった単純な一元論や二元論を離れ、より大きな視点でものごとをみることが大切なのです。それは『間主観性』と呼ばれるものです」。

「英語では『インター・サブジェクティブ』・・・間主観性は、まさに主観と主観のあいだの関係を意味します」。


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