作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

海、丹後神崎海水浴場

2013年08月27日 | 日記・紀行

 

海、丹後神崎海水浴場

 

昨年の夏から、年に少なくとも一度は海に行こうと決心していたのに、今年も雑用に追われている間に、瞬く間にこの夏も終ろうとしていることに気づいた。どうやら今年も海水浴の機会も失ってしまったようだ。

静岡の遠州浜に近いところに暮していたことがある。海がすぐ近かったので、朝な夕な、遠く沖合の太平洋の水平線を行き交う船を眺めながら、潮風に吹かれながら、夕陽や朝日を浴びて砂浜や黒松林をよく散策した。潮風の香りの記憶と、砂浜にうち寄せる浪に足裏の洗われる心地よさをその時に覚えてから、京都に戻ってきても未だにいつまでも海を忘れられないでいる。       

このまま思い立たなければ今年の夏も機会を失ってしまいそうで、平日に時間の空いているこの日に決心して海を見に行くことにした。それも前日である。太平洋岸の広大な水平線を眺めたいけれども、京都からの日帰りにしか時間に余裕がないとすれば、日本海側に出るしかない。

地図で適当な海水浴場を探したが、今年はまず交通の便も無難そうな若狭湾沿いの丹後神崎海水浴場を選んだ。

朝の間に雑用を済ませて出た。食事も摂っていなっかったので、京都駅の構内にあった食堂で蕎麦で昼食を済ませた。十三:二五発の特急5号城之崎行きで、とにかく出発した。

電車の窓から眺める田圃の少し色づき始めた丹波の景色も、夏の終わりというよりもむしろ秋の兆しを思わせる。出発も遅れたので、現地の小さな古い駅舎に着いた頃はもうすっかり昼下がりで、海水浴を十分に楽しむためにはやはり遅すぎる。

駅前の並木道に鳴いていた蝉の声もおとなしく、すでに夏の盛りではない。駅近くの案内板に従ってまっすぐに浜に向かう。遙か昔に兄たちと一緒にここに泳ぎに来たことがあるかもしれない。途中ふとそんな既視感にとらえられる。かなり歩いて公園らしき松林が見え、そこを抜けると海が見えた。この海水浴場は予想したより砂浜は広く長い。そして遠く小高い青い山にその砂浜は切られて尽きている。思ったよりも美しい浜辺だった。

さすがにお盆を過ぎた海には、海水浴客はいなかった。浜辺に沿って設営された海の家にも海水浴客はおらず、業者らしい男や夫婦が、脚立を引出してカナヅチで、トタン屋根や柱などを取り外したりしていた。今年の夏も終わったのだ。

海辺にはモーターボートを楽しんでいるらしい行楽客が一組だけ遠くに小さく見えただけである。波は少し高いようだった。できれば海で泳ぎたかったが、今年は思い立ったときにはすでに時期も外れて遅く諦めざるを得なかった。 来年はきっと日本海か太平洋岸か海に出て泳ごうと思う。

護岸のコンクリートの上に腰を下ろし、しばらく海と波と遠く沖合に霞んで浮かぶ小さな島を眺めていた。うち寄せる波は美しく見ていて厭きない。山並みの緑とよく晴れた空が美しい色彩の調和を見せている。

泳ぐことも出来ないなら、せめて砂浜の感触を足に楽しもうと、靴を脱ぎ裸足になって砂浜に降りた。そして、さっき遠く小さく見えたモーターボート遊びをしている一行の様子が手に取るように見える地点に近くまで歩いた。

そこから長い砂浜を折り返した。日差しを今度は顔にまともに浴びることになった。日に焼けると思いながら帽子も脱いで、今年の行く夏を惜しむつもりで眩しい陽の光を全身に浴びながら、うち寄せる波と戯れながら、足の裏に砂と潮を踏みしめてゆっくりと長い砂浜を戻った。リュックを置き去りにしたままの、海の家の前のあの古びた旗がすっかり遠く小さく見える。

 

 

Carole serrat Un Apres-Midi,La Mer

 

 

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8月26日(月)のTW:世界史と理性

2013年08月27日 | 歴史

太陽系の運動は不変の法則にしたがって行われている。すなわち、この法則は太陽系の理性である。しかし、太陽も、この法則に従って太陽の周りを回っている遊星も、この法則についての意識を持ってはいない。それで自然の中に理性があるとか、自然が一般的法則によっていつも支配されているとかいう a


思想には、我々は一向に驚かない。我々はこのような思想には慣れているので、それを別に大したこととも思わない。にもかかわらず、私がこの思想の歴史的ないきさつを述べるのは、このように今日の我々には陳腐に見える思想でも、必ずしも世に行われていた訳ではなく、したがってこのような思想の出現は


むしろ人間精神の歴史に一時期を画したものだという歴史の教訓に注意を促すためである。アリストテレスは、この思想の創始者アナクサゴラスについて言っている。彼は酔いどれたちのなかで一人素面の人のように見えた、と。アナクサゴラスのこの思想はソクラテスに受け継がれた。


そしてこの思想は一切の出来事を偶然に帰したエピクロスを除けば、およそ哲学における支配的な思想となった。プラトンはソクラテスに言わせている。「私はこの思想を知って歓んだ。そして理性に従って自然を解釈し、特殊なもののなかには特殊な目的を、全体の中には一般的な目的を指示してくれる


一人の教師を見出したと信じた。私はどんなことがあってもこの期待を捨てまいと思った。けれども、私がアナクサゴラス自身の書いたものに熱心に当たってみて、彼が理性の代わりにただ空気だとか、エーテルだとか、水などといった、外的原因だけを挙げているのを知って、どんなに失望したことか」と。


すなわち、ソクラテスがアナクサゴラスの原理に見出した不満が、原理そのものにあるのではなくて、むしろ具体的自然に対する原理の適用上の欠陥、つまり、自然がこの原理に基づいて理解され、把握されておらないこと、一般にその原理が抽象的に見られているに過ぎないということ、


自然がこの原理の発展として、理性に基づいてそこから産み出された一つの組織として捉えられていないという点にあることが分かる。【A:原理としての理性の哲学的考察】


次に問題になるのが、理性が世界を支配しているというこの思想の型態が、進んで適用されて我々に周知の思想に関連している点である。――すなわち、世界が単に外的な偶然の原因に委ねられているものではなくて、むしろ摂理が世界を支配しているという宗教的真理の型態をとる場合である。(s36 )


ところで、ある摂理が、それも神の摂理が世界の諸々の出来事を支配するという真理は、理性が世界を支配しているという先の原理に対応している。なぜなら、神の摂理とは、その目的、すなわち世界の絶対的な、理性的な究極目的を実現するところの無限の力という面から見た智慧であり、


理性はまったくに自由に自分自身を規定するところの思考だからである。けれども、ここでふたたびアナクサゴラスの原則に対するソクラテスの不満と同じ形で、この信仰と我々の原理との差異、とういうよりもむしろ対立が現れてくる。この信仰もまた同様に漠然としたものであり、摂理一般への信仰と


呼ばれるものであり、それは進んでさらに規定されたものとなり、全体への適用、すなわち世界史への全行程への適用となるところまで行かない。しかし、歴史を説明すると言うことは、人間の情熱、その天才、その活動の力を明らかにすることを意味する。そしてこのような摂理の規定性(歴史の実現過程)は


通常、摂理の計画と呼ばれる。けれども、この計画は我々の眼には隠されているとされ、これを認識しようとすることは僭越なこととされている。理性がどういう形で現実の中に啓示されているのかについてのアナクサゴラスの無知は無邪気なものだった。彼を始め一般にギリシャにおいては、


思想の意識はまだ幼稚だった。彼はこの一般的な原理を具体的なものに適用し、具体的なものをその原理から認識することは出来なかったのである。ソクラテスがはじめてこの点で一歩を進め、具体者と一般者との結合を遂行した。従ってアナクサゴラスは、


必ずしもこのような適用に反対の立場をとったのではない。ところが今いう摂理に対する信仰は、少なくとも一般的には適用に反対しており、摂理の計画の認識に対して反対している。というのも人々が摂理の存在を認めるのは、特殊な場合だけであって、それは敬虔な心の人が、個々人の突発的な事故の中に


偶然ではなく神意を視るような場合に過ぎないからである。しかし、このような目的はそれ自身限られた狭い範囲のものであり、単に一個人の特殊な目的に過ぎない。 ところが我々が世界史において問題にするのは、民族という個体であり、国家という全体である。だから単に抽象的な無規定的な信仰に


かかづらわっているわけにも行かない。むしろ本気に歴史の中における摂理の道程、その諸々の手段、現象を認識することを問題にし、それを上述の一般的な原理に関係づけることを問題にしなければならない。(ibid s 38 )


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