作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

大文字焼き

2005年08月17日 | 日記・紀行

 

大文字焼きの送り火があった。これまでも、いろんなところから送り火を眺めてきたが、昨日はビルの一室から、左大文字を斜めに見た。これまでも賀茂大橋や出町柳の公園、鴨川の堤防、吉田神社など、さまざまなところから、それも一人で見ることもあったし、誰かと一緒に見ることもあった。

この大文字送り火を眺める位置は、その場所は、その時々の私の生活と境遇を示している。これから何回、どこで誰と見ることになるのか、それは私のこれからの運命次第だと思う。

フクヤマの『歴史の終わり』を少し読み始めた。ほとんど自分が予想した通りの内容である。

人類社会は、その政治形態を「民主主義」に収斂させて行く。社会の基本的な矛盾はをこの民主主義という政治制度によって解決しつつ進んで行くから、民主主義は人類の最終的な政治形態であって、これ以上の政治制度はなく、したがって、これ以上に歴史的な変化はない。その意味で、人類の民主主義の実現は、歴史の終わりを意味するという主張である。

時期的にもこの本が出版されたのは、旧ソ連をはじめとする、いわゆる共産主義諸国が東欧をはじめ世界的な規模で軒並みに崩壊して、歴史的にも、自由民主主義国家が普遍的な広がりを持って受け入れられた時期である。それで実際にも説得力を持った。

本書の中にも繰り返し論及されているが、人類の歴史の目的に「自由」の実現を見る見方は、カントの『世界公民的見地における一般史の構想』に始まり、それはさらにヘーゲルに受け継がれて、歴史に理性を見るというヘーゲル独創の歴史観に発展させられたものであって、周知の歴史観である。

しかし、この歴史観は、ショウペン ハウェルをはじめとして、その母国西欧には意外と反対者が多いようである。特に実証主義哲学の国アメリカでは不人気なようである。しかし、私は、基本的にこのヘーゲルの歴史観を肯定し、継承している。 

日本では中川八洋氏などがこのヘーゲルの「進歩史観」に熱烈に反対されているようだが、不勉強のため、まだまともに中川氏の著作は検討したことがないので、今のところなんとも言いようがない。

実は、20年ほど前に私も、フクヤマ氏と基本的には同じ観点で小論を書いていた。その文章もいずれ探し出してこのブログにでも載せたいと思うが、私がそのとき主張しようとしたことは、議会制民主主義社会では、政党の交代などによって、社会内の基本的な矛盾を解決しながら進んで行くから、もはや古典的な意味でのプロレタリア独裁などの革命は不必要で、これからも長く議会制民主主義社会が続いて行くことを主張したものである。これはまた共産党不要論でもあった。

   

 



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