イスラエルの入植者がガザ地区から撤退したことが報じられていた。遠い中東の出来事で、郵政民営化問題に関する衆議院総選挙で騒いでいる今の日本から見れば、この古くて新しいイスラエル・パレスチナ問題は多くの関心を引くものではないのかも知れない。しかし、聖書の思想に生きようとする者にとっては、パレスチナの地は聖書の母なる土地であって、無関心ではいられない。
パレスチナの土地、すなわち、このカナンの土地は、神の召命に応えたアブラハムに神が約束した土地である。アブラハムはバビロニアのウルから父のテラと一緒にカナンの土地に向かったのであるから、アブラハムの故郷はもともとバビロニアである。(創世記第十一章第十二章)すなわち、今日のイラクが、イスラエルの始祖とされるアブラハムの本来の故郷なのである。しかし、フセインまでのイラクはイスラエルにもっとも敵対する国家だった。皮肉といえば皮肉である。
こうして、アブラハムの子孫がカナンの土地に来て以来、土着の住民たちとの軋轢は今日に至るまで絶えない。聖書に記されている民族同士の殺戮の歴史が現在に至るまで連綿として続いている。イスラエル・パレスチナ問題は聖書に記されているように、四千年来の問題である。おいそれと解決されそうにない。
パレスチナの地は人類の歴史が神の意志と出会う場所である。アブラハムがエルサレムの土地で、パンとぶどう酒でメレキデセクから祝福を受けて以来、この地はユダヤ教にとってのみならず、キリスト教にとっても、イスラム教にとっても聖地である。「神の平和」という名のエルサレムが諸宗教と諸民族が血で血を洗う、もっとも憎悪の深い土地となっている。
この土地に永遠の平和は訪れるのだろうか。それは、イスラム教過激派とユダヤ教狂信家たちが、血にまみれた闘争に互いに消耗し尽し、疲れ果て性根尽きるとき、そして人類の最終戦争の瓦礫の上に築かれる永遠の平和であるのか。自らの狂信と憎悪の愚かさに自ら気づくまで、その時まで平和は来ないのかも知れない。
宗教と民族の紛争は全世界至るところに存在している。つい数年前まで、セルビアとアルバニア人が、クロアチア、ボスニアなどの諸民族同士が民族浄化の名のもとに血みどろの死闘を繰り広げていた。それが、NATO軍の武力介入でようやく「平和」を回復したばかりである。スリランカでは仏教徒のシンハラ人とヒンズー教徒のタミル人との間に紛争がある。アフリカではルワンダでツチ族とフツ族の間で痛ましい虐殺行為があった。インドネシアにもかっての東ティモールとアチェで、またロシアとチェチェンでも紛争はいまだ解決せず、テロ行為が絶えない。中国でもチベット問題や台湾問題は、民族問題であり、かつ「宗教」問題でもある。
イスラエルとパレスチナの民族と宗教の紛争は、こうした人類に普遍的な民族、宗教戦争の中のもっとも象徴的な紛争であるということもできる。人類は、こうした紛争の解決のための普遍的な公式をまだ見出せずにいる。もし、イスラエルとパレスチナの民族に平和的な共存が実現できれば、その方式は人類の普遍的なモデルになりうる。
今回のイスラエルのガザ入植地撤退完了は、イスラエルとパレスチナの和平の一つの出発点となりうる。しかし、そのためには、パレスチナの過激派も狂信的な国粋主義ユダヤ教徒も民主主義を学ばなければならない。そして、そして、互いを民主主義的な主権国家として尊重しあうことなくして、エルサレムの平和は永遠の夢に終わるに違いない。それとも最終戦争によって、互いに自滅しあうかである。そして、民主主義の精神は、イエスの精神を自らのものとすることなくして実現できないのである。それは憎悪の果てに気づかれるものなのかもしれない。