秋色深まる
十一月に入って、大原野、大枝あたりの農園の柿が色づきはじめのを見て、去年一昨年と、とくに印象に残るような紅葉の季節を見ないで過ごして来たことを思い出した。今年は都合をつけて、時期をのがさず何とか紅葉の記憶を留めておこうと思っていた。
それなのに、日々の忙しさにかまけている間にもう霜月を半ばも過ぎてしまう。うかうかすると、今年も秋の紅葉を見過ごしてしまいそうな気がする。それも少し気にかかって、歌人の西行さんはどのように紅葉を見て記録しているのか、調べてみた。
題知らず
472 いつよりか紅葉の色は染むべきと時雨にくもる空にとはばや
いつ頃から紅葉の色が濃く染まり始めるのだろうかと秋の時雨の空に訊ねてみようと思ったと西行は歌っている。
今日は風も強く、きのうおとといに比べて、当地もめっきり冷えた。最高気温でも十四五度だと気象台が報じていた。
山家集の秋の巻は、和歌を詠みすすめてゆくに連れて、紅葉の錦が次第に深く染まっていく光景が眺められるようになっている。初めはまだ紅葉も疎らである。ところどころ、かろうじて色をなして織った錦のようである。さらに一歩一歩山道を奥深く辿るにつれ、時雨の露を帯びる一雨毎に、緋の色も濃く染まってゆく。古今和歌集が春夏秋冬の四季の移りゆく景色を錦絵巻のように展開させているのと似ている。
紅葉未だ遍からず
473 糸鹿山 時雨に色を 染めさせて かつがつ織れる 錦なりけり
どこかにすでに書いたかも知れないけれど、私がこれまでに見たなかでもっとも美しいと思った紅葉は、むかし鞍馬の山道を歩いていて出会った。全山が紅葉の陽に照り映えた中に迷い込んだように思われた。その時と場所の巡り合わせは神の恵みというほかない。
落葉網代に留まる
504 紅葉よる 網代の布の色染めて ひをくくりとは見えぬなりけり
いずこからか流れてきた紅葉が網代の白い布に絡まって冬魚を捕る網代のようにも見えなくなってしまう。川のさざ波に揺れる紅葉の緋の色が網代にいっそう色鮮やかに映える。紅葉をもっとも美しく詠った歌かもしれない。しかし、これは川に紅葉の散った冬の歌である。
一山の紅葉の自然な色美しさもそれに人事を絡めて詠まれるようになってくると、いっそうその切なさが募ってくる。人がもっとも心をときめかせるのはやはり人と人との関係に対してであるから。
寄紅葉懐旧といふことを、宝金剛院にて詠みける
795 いにしえを恋ふる涙の色に似て 袂に散るは紅葉なりけり
ここで西行が懐旧に涙を流しているのは、宝金剛院を再興した待賢門院を懐かしんでのことである。待賢門院璋子は西行がまだ在俗の頃に仕えた鳥羽天皇の中宮だった。この中宮に仕えた女房の堀河など待賢門院璋子に縁ある人々との交流を詠んだ和歌も西行には少なくない。
西行を取り巻く人間関係も生きた時代も調べてみると面白いと言うか、なかなか複雑であることもわかった。
西行の仕えた鳥羽上皇の中宮は先にも述べた待賢門院璋子である。この人は鳥羽上皇の祖父であった白河法皇の養女でもあった。そして、待賢門院に生まれた皇子、すなわち後の崇徳天皇は実は白河法皇のご落胤であったらしい。
そのため法皇として権勢を振るった白河法皇の死後に崇徳天皇は譲位させられ、鳥羽上皇の皇子である近衛天皇が跡を継ぐことになった。しかし鳥羽上皇の死後さらに異母兄弟の間に帝位をめぐって争乱(保元の乱)があった。
平家物語にもその栄華を謳われている平清盛と西行は同い年で、互いに北面の武士として同じ鳥羽上皇に仕えた同僚であったという。そして西行が二十八歳の時に待賢門院璋子は四十五歳でなくなっている。西行はこの待賢門院璋子に惹かれていたらしい。
そして待賢門院璋子が再興しそこで落飾したとされる宝金剛院を西行が訪れたとき、すでになき待賢門院を偲んで詠んだのがこの歌である。
この宝金剛院は今も右京花園に残されてあるらしい。そこに待賢門院の御陵もあるようだ。サイクリングで行けない距離でもない。暮れ果てる秋の形見に紅葉でも眺めに出かけようかと思う。
暮秋
488 暮れはつる秋の形見にしばし見ん紅葉散らすな 木枯らしの風
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