作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲルのプラトン批判

2006年12月04日 | 哲学一般

ヘーゲルのプラトン批判

古代ギリシャ民主政治の根本的な欠陥を痛感していたプラトンは、みずからの理想国家を構想して『国家』に著した。プラトンは、哲人と称される理想的な人格が政治を指導するようになるまでは理想とする政治は実現できないと考えたのである。そのためには哲学が国家権力を指導するようにならなければならない。この意味でプラトンは全体主義の創始者といえる。


現代においては「全体主義」は悪の権化のようにみなされている。しかし真実の全体主義はそんなに安易に批判して済ませられるものではない。全体主義の評判が悪いのは、先の第二次世界大戦でドイツにおいてはヒトラー、イタリアにおいてはムッソリーニなどの独裁者に率いられた国家主義政治が、犯罪を国家レベルで指揮したからである。本来的には全体主義や独裁政治自体が「悪」であるとはいえない。独裁者が善を志向するか悪を志向するかによって決まるものである。


ただ現代においては独裁政治自体は自由主義の観点から批判されてはいる。それは独裁政治において、たとい善政が施行されるにしても、そこには自由がないという点において批判されるのである。ヘーゲルがプラトンの国家論を批判しているように、プラトンの哲人政治の根本的な欠陥は、その政治が個人の自由の上に成立していないことである。(岩波文庫版『精神哲学』下§176以下参照)


プラトンの生きた当時の古代ギリシャ民主主義の国家形態とプラトンやソクラテスの内面に目覚めつつあった自由の意識との間に生じつつあった矛盾をヘーゲルは指摘している。プラトンは真実の憲法や国家生活は「正義の理念」の上に、それが国民一般の自覚の上に築かれなければならないことを、哲学に主導される政治として表現したのである。この点についてはヘーゲルは、プラトンの歴史的な意義として評価をしている。

しかし、このプラトンの哲人政治は単に理念にのみとどまり、現実の政治になることはできなかった。それを限界として指摘している。実際にそれを準備したのは歴史的にはキリスト教であり、ルターの宗教改革であった。


わが日本の戦後の日本国憲法の民主主義体制の根本的な欠陥は、それが事実上はアメリカ駐留軍政下の指揮下において、国民主権を主張する日本国憲法として国家の原理として制定されておりながら、事実上、わが国においてはキリスト教は日本国の支配的な宗教にはなってはいないという矛盾から来るものである。この宗教の原理はいまだ国民の自覚的な国家原理にまで、現在に至るまで自覚されてはいないからである。

アメリカ合衆国は、プロテスタント・キリスト教そのものの中から生まれた国家である。民主主義のアメリカ合衆国のみが、純粋にキリスト教から生まれた自由と正義の上に立脚する理念に築かれた国家である。そのアメリカの主導によって日本国憲法が制定されておりながら、それに一致した倫理規範を国民が支配的な宗教的意識としてもたないことに、わが国の政治や文化における根本矛盾が存在している。

欧米の歴史的な伝統にあっては、「法と正義」は同じ概念である。「RIGHT=RECHT」には、法と正義の両義が含まれる。しかし、わが国民の法意識には正義の観念は含まれてない。それは、国民の間に支配的な宗教が欧米のそれとは異なる性格に由来するものである。

太平洋戦争の敗北を契機とするわが国の戦後民主主義は、国民に人権を自覚させることにはなったが、東大教授の樋口陽一氏や丸山真男氏たちの主張したキリスト教抜きの人権至上民主主義教育は、日本国民の間に人間の欲望の無制限な解放として帰結しただけであった。倫理的な規制をもたないその無国籍的な人権意識は、欲望民主主義として、また、戦前のゆがんで抑圧された滅私奉公の精神の裏返しとして、エゴイズムの利己主義の無制限な解放と国家社会における倫理の崩壊をもたらす結果になった。

国民の間に愛国心などがもし欠乏していたとすれば、それは一つには、戦後の自民党政治の利権政治といわゆる革新政党の自己抑制のない人権至上主義政治の帰結として生じたものであって、現行教育基本法そのものの欠陥によるものではなかった。


カトリック教徒の田中耕太郎による労作として制定された現行教育基本法は、その精神が忠実に実行されてさえいれば、決して愛国心や郷土愛を否定するものにはならなかった。現在にいたる戦後教育の欠陥は、戦後の自民党の実際の教育行政の欠陥と日教組の人権至上主義教育によって生じた国民倫理の崩壊によるのであって、田中耕太郎が展開した教育基本法の精神自体に根本的な欠陥があったためではない。

そして現在の自民党と公明党の与党政権は、みずからの手になる「品格」のないフランケンシュタインのような継ぎはぎだらけの奇形的な新しい日本国教育基本法によって愛国心を人為的に作ろうとして、偽善的な国民をさらに養成しようとしているにすぎない。


真実の宗教が国民の間に普遍的にならないかぎり、そして、それによって正義と法に基づく真実の国家の原理が現実の中に入ってこないかぎり、また、その上に国家の原理である憲法が制定されないかぎり、たとえどのような憲法が制定され、どのような教育基本法が新しく制定されようと、国家と国民の人倫性は回復されることはないに違いない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする