作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

日々の聖書(9)―――緑なす葉

2006年12月14日 | 宗教・文化

日々の聖書(9)―――緑なす葉

流れの河岸に植えられた木のように、彼は時が来れば実を結び、その葉もしおれることはない。
   
(詩篇第一章第三節)

あらゆる生命にとってなくてはならないものがある。それは水である。人間は少々食べなくても生き長らえることはできるけれども、水がないとそうはいかない。遭難にあったときに、水があるかどうかが運命の分かれ道になる。

そして、「みずみずしい」という日本語があるように、水に潤っていることが、生き生きとしていることの、活きていることの証しになっている。植物と同様に人間も水がなければ萎れて枯れ、やがて死んでしまう。

人間は肉体と精神からなる生き物である。肉体にとって水が不可欠であるように、精神にも水を欠くことができない。肉体と同様に心や精神の成長のためにも水はなくてはならないものである。

しかし、肉体にとっての水に相当するものは、精神にとっては何か。詩篇の第一章では、それは主の教えであるという。信じる者にとって、日々に主の教えを口ずさむことは、心に水を注ぐようなもので、それで心もふたたび生き生きとしてくる。精神が枯れ衰えることもない。

さらにキリスト教では、精神にとっての水は、ただに主の教えばかりではない。パンとぶどう酒に喩えられるイエスの身体もそうである。十字架の上で喉の渇くイエスは人々から酸いぶどう酒を飲まされたが、イエスのぶどう酒も渇きを癒してくれる。また、イエスを信じるものには、心に活きた水が川のように流れ出てくる。(ヨハネ書第7章第38節)だから、イエスも、喉の渇いている人は誰でも来て飲むように言われた。こうして、彼から日々に生ける水を飲むものには、岸に植えられた木々のように、彼の心や精神はいつまでも生き生きとして、枯れて萎れることもない。

流れの河岸に植えられた木のように、彼は時が来れば実を結び、その葉もしおれることはない。
   
(詩篇第一章第三節)

 

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