世界と自分(2)
『それからイエスは彼らにある例えを話された。言わく。「ある金持ちの畑が豊作だった。そこで彼は自分で考えて言った。「どうしよう。私の穀物を蓄えておくところがない。」そして言った。「こうしよう。自分の蔵を壊してより大きい蔵を建て、そして、そこに私の作物と財産を蓄えておこう。そして自分の魂に言おう。「私の魂よ。おまえは多くの財産を永年にわたって積み上げてきたではないか。これから休みを取って、飲み食いして楽しもう。」
しかし神は彼に言った。「愚か者よ。おまえの命は今夜取り上げられる。そのとき、おまえが用意したものは一体誰の物となるのか。」』
(ルカ伝第十二章第16~20節)
ここでは、金持ちの「自分の命」が彼が長年蓄えた「財産」と比べられている。人がどんなに富や財産を積み上げても、それは自分の命あっての物だねであることが語られている。この金持ちは不幸にも、自分の財産を楽しむ前に命を取り上げられてしまった。
この愚かな金持ちの例えは、イエスが人々に教えを説いているときに、群集の中の一人が、兄弟と遺産を争って、イエスに財産の分配を依頼したときに、イエスが貪欲の警戒すべきこと、人の命が財産によってもどうすることもできないことを教えようとして取り上げられた例えである。
ここでイエスは、神の眼に富むことと自分自身のために富むこととの違いを明らかにして、神の眼に富むこととはどういうことかを説明する。上の章節はそのような文脈で語られた言葉である。
この金持ちは、財産を手に入れたが、自分の命を失ってしまった。マルコ伝の第8章で全世界を手に入れても自分の命を失えば、何の得にもならないと言われたのと同じことが語られている。いかにも青年イエスらしい厳しいことばである。これらの教えはペテロなど選ばれた使徒に向けられたものであったのかもしれない。このキリストの教えと、旧約の伝道の書などに語られている次のような教訓と比べれば、その差異は著しい。
「見よ。良いこと望ましいことは、飲み食いし、そして神が私たちに与えられた生涯の日々に、太陽の下で労苦して得た産物を味わい楽しむことである。それは私たちに与えられた分なのだから。私たちにできるもっとも幸福で良いことは、神が私たちに富や財宝を与えられ、私たちにそれを楽しませになるなら、私たちは感謝して私たちがその労苦によって得たものを楽しむべきだ。それは神からの贈り物だから。」(第5章第18、19節)
「だから、私は楽しむことを薦める。人は太陽の下で飲み食いし、楽しむ以上に善いことはない。それは太陽の下で神が与えられた生涯の日々、骨折りと苦しみに添えられたもの。」(第8章第15節)
こうした旧約の教訓に比べれば、明らかにイエスの教えは深刻である。これが旧約の教えと新約との差異であるのかも知れない。旧約に比べれば、キリストの教えは日々に死を覚悟して生きようとする者たちへの教えのように思われる。神はなぜ人間に「死」と言う絶対的な限界を与えられたのか。なぜ肉体の生命は永遠ではないのか。それは分からない。しかし、この事実は人間に与えられた絶対的な前提である。ここで明らかに要求されている倫理の水準が旧約と新約とでは違うのである。そしてキリスト教では、有限の肉体の生命に代えて、永遠の生命が、「精神の生」が自覚されてくる。