作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

概念論③──自我について

2005年10月30日 | 哲学一般

自我について──メモ

       
すべての事物は、普遍と特殊と個別の契機を持っている。そのなかで、普遍的にして同時に個別的な存在であり、また特殊的な存在であるもの、それは何か。また、普遍的であると同時に現実的な存在でもあるものは何か。それこそ自我に他ならない。

自我はまた過去と現在と未来の統一であり、時間と空間の根拠でもある。そして、すべての概念はこの自我から生まれる。この意味で、自我は概念の概念でもあり、概念の魂である。 だから自我はまた理性の根拠でもある。


そして自我こそは現実的な概念であり、概念的な現実に他ならない。自我においては概念は存在と一致している。あるいは、概念の現実的な客観的な存在である。この自我は自己を対象として分離し、かつそのことを自覚することによって統一されている。この場合の自我は純粋な思考に他ならない。自我が対象を把握するとき、自我は概念に他ならないから、すなわち、概念的に把握することでもある。


そして、概念の概念が理性である。したがって、理性は絶対的な概念であり、それは自我のみが自覚しうる。それは絶対知でもある。だから、自我は理性的な存在である。このような存在は宇宙の中には自我のみである。

自我は自己を自覚している。だから自我は意識でもある。自我が自己を意識するとき、その存在は否定できない。だから自我は存在する。自我は意識であり、それは活動する意識である。意識は活動し、自我として対象を知る。意識の本質、自我の本質は知ることである。そして、自我は内的対象としての主観的な意識と、外的な対象として客観的な意識とに分裂し、二重化し、かつ、その統一としての絶対的な意識をもつ。そのとき自我は絶対的な知である。


外的対象が自我を規定するとき、それは、自我が理論的に振舞うことであり、自我が外的対象を規定するとき、それは自我が行動することであって対象を変革することに他ならない。


この自己意識は一切の根拠であり、始発点である。一切の表象と観念はここから生まれる。そして、この知の必然的にして体系的な展開が哲学に他ならない。ここでは内容が形式である。

この自我は同一であり、また、不同である。自我が矛盾するのは二律背反する自我のこの本質的な性質のためである。


没概念的預言者的説教。

 

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