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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

二つの時代の日本人の顔――大日本帝国と戦後民主主義

2012年07月27日 | 教育・文化

 

二つの時代の日本人の顔――大日本帝国と戦後民主主義

さきに大津市の中学二年生のいじめ自殺事件について自分のブログに意見を書いていたとき、たまたま佐藤守氏という元航空自衛隊に所属して今は軍事評論を行っている方のブログで「2012-07-17 人相から窺えるもの」という記事を読んだことがある。


2012-07-17 人相から窺えるもの
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20120717/1342501213

私もこの大津市の中学2年生いじめ自殺事件に関連するテレビ報道などを見ていて、そこに登場する教育関係者たちのご面相の印象について、佐藤守氏と同じような印象を持っていたので、なるほど私個人の印象だけでは必ずしもなかったのだな、と自分の印象の「普遍的性格」に確信を得た気がした。

リンカーンだったか「人は誰でも四〇歳を過ぎれば自分の顔に責任を持たなければならない」と言ったとか、またラテン語に「顔は魂の符丁である」という諺のあることを思い出した。昨夜のロンドンオリンピックで、サッカー男子チームは初戦で強豪スペインを破ったが、そこでのサッカー選手やサポーターたちの表情を見ていて、以前に「生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣」という記事を書いたことを思い出していた。

「生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣」
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20100618

そこであらためて大日本帝国の日本人と戦後民主主義の日本人の二つの時代の「日本人の顔」を比べてみようと思って、YOUTUBEなどを暇に任せて「明治人の顔」などで検索してみたが、次のような動画があった。

「幕末から昭和初期の日本人の顔  Old Japanese Face」
http://www.youtube.com/watch?v=UUohJUf02fs&feature=player_embedded

この動画を見ながらすぐに思い出したのは、現代の自民党や民主党などの政治家たちの表情だった。昭和初期の政党政治も相当に堕落していたらしいから、明治期の政治家や軍人、文学者たちが比較的に「立派な」面立ちをしていた(個人的にそういう印象をもつ)のは時代としては例外であったのかもしれない。

今回のサッカー試合に登場した若い選手にも「茶髪」が多かった。茶髪を受け入れるかどうかは教養水準にも比例するとも思われるが、それにしても印象に残っていていつも思い出すのは、昔テレビでアメリカ在住の日本人青年が一重まぶたを二重に整形手術したのを、なぜそうするのかと白人の女性アンカーにインタビューを受けていた様子を見た時のことである。詳しい内容は忘れてしまったが、その青年の受け答えのなかに、彼が日本人や東洋人としての自負とアイデンティティーを完全に失っている様子を、その女性アナウンサーが哀れみの眼で見つめていたことが、いまだに忘れられない。

その日本人青年がアメリカ暮らしのなかで、敗戦国民としてどのような屈辱を体験したのか、私には想像も及ばないが、「二重まぶたと茶髪」という彼の自己の肉体の改造に、日本人としての自己嫌悪の感情を読みとることは難しくはなかった。

こうした感情の根源には先の第二次世界大戦、太平洋戦争における日本の完膚無き敗北と、その後のマッカーサーの巧妙な占領政策の存在することは言うまでもない。その影響は深刻で、最近の中国の台頭もあり、民族として腰を抜かされた日本人が歴史的に再び立ち直れるか否かはわからないと思っている。とくに戦後教育を典型的に受けた政治家、財務省や外務省などの「高級官僚」たち、高学歴の女性や「一般庶民」にアイデンティティー喪失の根が深いからである。

敗戦国民の悲哀は続いている。マッカーサーの占領政策と戦後民主主義の克服のためには、歴史的敗戦の軍事的のみならず文化的にもさらなる全面的客観的な検証、世代の交代と一世紀二世紀にわたる民族精神の回復のための忍耐づよい戦いが必要なのだろう。それを通じてはじめて「Old Japanese Face」を再び回復できるのかもしれない。日本人の顔の問題の根本的解決の鍵は日本国の軍事的独立である。

 

 

 

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大津市中学二年生自殺問題と日本の民主主義の水準―――相変わらずの教育現場

2012年07月14日 | 教育・文化

 

大津市中学二年生自殺問題と日本の民主主義の水準―――相変わらずの教育現場

大津市にある中学校で、中学二年生の男子生徒が同級生のいじめにより自殺したそうである。本来もっとも楽しくあるはずの学校生活が一転して、亡くなった生徒にとっては、地獄の日々に取り替わっていただろう。この「いじめ問題」はいまだ本質的に解決されてもおらず、日本全国の多くの学校、学級で類似の事件の存在することが予想される。

この問題にかかわる大津市の学校や教育委員会の対応が、さらには警察署の対応が果たして正しかったか、それが問われている。いずれにしても、いじめは犯罪行為でもあるから、もっと早くから司直の手が学校にも入るシステムが確立されていれば、これほどの最悪の結果を招くこともなかったのではないだろうか。

テレビなどで教育委員会の役職者たちが謝罪している場面を見かけることがあるけれども、それを見て直感的に感じることは、教育委員会の人たちこそもっとも再教育、訓練改革されなければならないのではないかという印象をもつことである。こうした会見での役職者たちが口にする弁解を聞いていても、まるで事なかれ主義で当事者能力がないように思われるからである。なぜ、こういうことになっているのだろうか。こういう人たちが教育委員会という地方自治体の教育組織のトップという重責の座にどうして居座ることのできるシステムになっているだろうか。

いじめ問題の解決は、「人間性悪説」とも絡んで容易ではないとも考えられるけれども、いずれにしてもこのような悲劇の再発はなんとしても防がなければならない。学校や学級内に悪の芽がはびこることのないよう、早期に刈り取り摘み取ってゆくこと、いじめの環境や状況、雰囲気、状況の発生しないクラス環境が確立される必要があると思う。

まず学校や学級内のこうした事件で、もっとも責任が追及されなければならないは、この学級の担任教師であり、この学校の校長である。学級内の事件や学校内の事件で担任教師や学校長の責任が追及されてしかるべきであるのは言うまでもない。犠牲となった生徒の保護者が警察や司法、裁判の場でその責任の有無を追及して明確にして行くのは当然だ。

同時に考えることは、こうしたいじめの問題が学級内で起きたとき、クラス全体の問題として、自分たち自身の問題として解決しうるシステムが相変わらずできていないことである。クラスメートや学級、学校内自体に自己解決して行く能力を今なお持ち得ないでいるということ、それが最大の問題である。

少子高齢化やTPP参加や北方領土、消費税などといった国内外の問題をどのように解決してゆくかは、国民が政権を選択して自己解決してゆくのが民主主義国家としてのシステムだけれども、これと同じ論理で、学校内学級内の問題も生徒たち自身の直接民主主義によって生徒たち自身がみずから自己解決してゆくシステムが、つまり学級内に民主主義が確立されていなければならない。

大津市の中学二年生のいじめ自殺に問題に見られるように、学級内の問題を、クラス内に生じた問題を、学級担任教師をも含めたクラス全体が、自分たち自身の共同生活体の問題として、主体的に解決して行く能力がないこと、それを指導して行く能力を担当教師がもちえないでいること、それが根本問題だと思う。

数年前にも類似の「いじめの問題」が発生したときも、こうした問題の解決のための手法として「学級教育において民主主義の倫理と能力を育成すること」を提言したことがある。(下記参照)

学校教育の中に「道徳の時間」として、「民主主義の倫理と能力を修練する時間」を確保し、実行することを提言したけれども、学校関係者、教育研究者の誰一人の目にも留まらなかったようである。「民主主義の倫理と能力を修練する時間」を小学校、中学校、高等学校の学校教育にカリキュラムに導入して、生徒一人一人に民主主義の倫理と能力を骨身に徹するまで教育訓練してゆくこと、そのことが「いじめ問題」をも含めて、学級内の問題を自分たちの問題として自主的に解決してゆく「自治の能力」も育成にもつながる。それがひいては日本国民をして真に自由で民主的な独立した国家の国民として形成してゆくことになる。

時間はかかるかもしれないが、また、一見遠回りであるかもしれないが、「民主主義の倫理と能力を修練する時間」のなかで国家国民道徳の根本規範として、国民自身が自己教育して行くしかないのである。

かって戦後間もない1949(昭和24)年頃、文部省著作教科書として『民主主義』という教本が刊行されたことがある。そうして日本全国の中学生及び高校生の社会科教科書として使用され、民主主義の精神の普及と浸透に大きな意義をもったことがあった。しかし、それもたった五年間で廃止になった。どうしてこの教科書の使用が廃止になったのか、その経緯は詳しくはわからない。

しかし、日本国が世界に冠たる『民主主義モラル大国』として復活して行くためにも、政権交代によって金権主義の自由民主党が政権の座から陥落した今現在こそ、あらためてかっての文部省著作教科書『民主主義』を復刻して、日本のすべての中学生、高校生たちに配布して行くべきである。もちろんこの教科書も完全ではないが、民主主義の核心を教育して行く教材としては十分だと思う。

そうして民主主義の精神と方法を、学校教育、学級教育で日常的に修練して能力にして行かなければならないのである。沖縄県民の一部や小沢一郎氏のように民主主義を「単なる多数決」という次元でしか捉え切れないレベルで終わるのではなく、また、そうした浅薄な認識にとどまっている「政治家」や「公務員」や「官僚」の存在を認めることなく、またそうした「政治家」や行政マンしか育てられない現在の日本の教育界の腐敗と堕落と無能力こそが改革されなければならないとしても、第一歩としてまず国民一人一人が、政治家や教育者に頼ることなく自己研鑽してゆくべきであるだろう。

クラス内でいじめ問題がこうした事件として存在するということは、事実として民主主義が倫理精神として、正義として教えられておらず、学級や学校内に民主主義の「倫理原則」が確立していないことを示している。

学校教師自体が、「真の民主主義の精神と方法」が教えられ訓練され能力として確立されていないから、それを現在の生徒たちに教えられるはずもないのである。事実としてそれを実行する能力と問題意識のある者が政界のトップにも教育界のトップにもいない。しかし、そうであるとしても、この悪循環を断ち切って、学校教育の中に「真の民主主義の精神と方法」を能力として育成してゆくこと、そのことによって国家と国民の道徳を再建して行くしかないのである。

最近になって学校現場でも、武道の必修化が取り入れられるようになったそうである。もちろんその意義は否定しないけれども、より深刻で緊急を要するのは「倫理と能力としての民主主義の修練」を学級と学校現場で必修化して行くことであるだろう。


参考までに

 「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ

 民主主義の人間観と倫理観

 学校教育に民主主義を

 悲しき教育現場

 

 

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図書館検索サイト

2012年04月09日 | 教育・文化

 

「カーリル」という図書館検索サイトがある。それによって、ほとんど日本全国の、どこの図書館に、どのような本があるか、即座にわかるし、また貸し出しの予約も簡単にできるようになっている。とても便利になったと思う。

カーリル
http://calil.jp/

インターネットの普及にする時代になって、たしかに多くの点で実に便利になった。世界中の情報が、世界中の新聞や図書など、もちろん玉石混淆、いかがわしいものから、世界中の古典や名著、珠玉の作品に至るまで、家に居ながらにして閲覧できるようになった。このような情報社会の進展、科学技術の進展こそがもっとも強力な社会変革の条件をなすのだと思う。社会の経済的な基礎的な条件の、マルクス流に言えば「下部構造」の変革に比べれば、特定の個人や思想家、哲学者などの思想は、その社会変革に与えるインパクトも取るに足らない微弱なものでしかないのかもしれない。

一昔も前になるけれども、西尾幹二氏らが「新しい教科書を作る会」等を組織して、いわゆる「自虐史観」の克服を訴えておられた頃、千葉県舟橋市にある公共図書館で、そこに勤務する司書が西尾幹二氏らいわゆる「右派」とされる人たちの著書、図書を一括して廃棄したとして、裁判所に訴えられるという事件があった。

「最高裁(第一小法廷)平成17年07月14日判決」
〔憲法・公共施設・国賠1条-公立図書館司書による特定書籍廃棄と著者の権利/船橋西図書館〕
http://www.hiraoka.rose.ne.jp/C/050714S1.htm

「船橋焚書事件」
http://homepage2.nifty.com/busidoo/Shihou/funnsyo9.htm

たしかに公共の図書館というのは、特定の思想、党派、宗教に偏在することなく、機会均等の全面的な情報開示を原則とすべきだろう。たとい個人がどのような思想的立場にあるとしても、憲法によっても思想信条の自由や、宗教、学問の自由が保障されているように、公共の施設のあり方としては、あくまで公平で公正な図書閲覧の機会均等が保障されるべきだと思う。そうしてこそ、歪められることなく真理が顕らかにされる社会が構成されるのだと思う。

このうような図書検索システムが公衆に広く明らかにされ、その使用も公開されることは、そういった点からも、情報公開の原則と市民的な自由と拡大、強化に、さらに役立つことだろうと思う。

閉塞する時代には、進歩的な歴史観というのは概して軽蔑されがちだけれども、科学技術の、とくに情報技術の発展にともなって情報の開示の原則が深まり、さらに普遍的なものとなりつつあることは、その多くの否定的な側面を乗り越えて、明らかに肯定的に評価できるものだと思う。

 

 

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「山本太郎」現象について

2012年02月05日 | 教育・文化

 

「山本太郎」現象について

池田信夫氏が自身のブログの中で、今になって反原発に生き甲斐を見出すようになっている俳優の山本太郎さんについて、次ぎのようにまとめている。

トリックスターとしての山本太郎
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51771856.html


>>引用はじめ、

「結果を考えないできれいごとを主張する「平和ボケ」は、反原発運動に受け継がれている。山本太郎は、こうした日本の伝統を象徴するトリックスターである。」

<<引用終わり。

確かにそうした観点から「山本太郎現象」を分析できるかもしれないが、私の視点はもう少し異なっている。池田信夫氏とは異なって、私は山本太郎氏については、「戦後民主主義」体制の申し子、というべきかある種の「犠牲者」であると考えている。彼もまた国家と民族にとっての一つの損失である。

一昔前に、多くの有為な青年たちが「オーム真理教」の山師教祖である松本智津夫の詐術に不幸にも惑わされ、彼らの貴重な人生を棒に振ったように、もし山本太郎氏が、まともな国家に育ち、まともな教育を受けてさえいれば、現在のようにトリックスターを演じることもなく、尊敬される立派な男として成長できたであろうに、ということである。惜しむべきことである。ここで池田信夫氏もまた「日本の伝統」を意図的に曲解している。

問題は、現代日本の国家社会体制そのものにあり、その現象の一つとしての教育にこそ根本問題があるのであって、もともと虐められっ子であった自虐史観の創始者としての丸山政男の「日本の伝統」観でもって、山本太郎氏を断罪しても問題の根本的な解決にはならない。

 

 

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野の草(1)水引草

2010年10月26日 | 教育・文化

 

野の草(1)水引草

山里を歩いているとさまざまな植物に出会う。しかし、残念ながら、その植物の名も生態もほとんど知らない場合が多い。せっかくなのにもったいないことだと思う。デジカメという有力な記録機器を持っているので、日本の野生観察をかねて、これから少しずつでもそれらの植生の実態などの、――調査まではできないにしても、時間の合間を見て観察と記録ぐらいはできると思う。動物は動きまわるので植物のように被写体として記録してゆくことはむずかしい。それでも、カエルや沢ガニ、バッタ、ニッポンザルなどは観察し記録できるかもしれない。

先にも10月18日から名古屋で生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が開かれたばかりだ。京都の賀茂川でも日本の固有種であるオオサンショウウオの交雑が進み、日本固有種の絶滅が心配されている。秋の野原を見ても、セイタカアワダチソウやブタクサなど西洋からの外来種の植物の姿は目立つけれども、オミナエシやフジバカマ、萩、キキョウなどといった、日本古来の山野の寂びた景色を構成していた草花は今はもうほとんど見られないようになっている。懐かしいそれら日本の秋の原風景は、もはや遙か昔に閉じこめられた記憶の中にしか見ることができない。

日本の固有文化と人間の多くが敗戦を契機にアメリカナイズされたように、植生の世界でもセイタカアワダチソウやアメリカザリガニのように、アメリカ進駐軍と時を同じくして日本に支配的になった動植物も多いようだ。生態の多様性を守ることは文化の問題でもある。

 

 

 

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生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣

2010年06月18日 | 教育・文化

 

生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣


pfaelzerweinさんが、ご自身のブログログの中に、サッカー日本チームの対カメルーン戦での、気の抜けたような試合を評されている中で、日本のサッカー選手たちのその気の抜けた表情を評して、アメリカ人監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ脚本で、1953年制作になったかっての「日本映画」『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)に登場する「生き残り日本兵の顔付き」のようだと述べられていた(『スカンポンなカメルーン西瓜』)。この記事読んでいて、pfaelzerweinさんが、映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)の取り上げるにしても、あまりにもその「批判精神無さ」が気になって、コメントを差し上げようと思った。けれども、コメントとしては長くなりすぎたので、一つの記事として投稿することにしたものです。


pfaelzerweinさん、日本サッカーの根本的な弱点について以前に私も考察したことがあります。そして、この弱点は、オシムから岡田に代わっても、克服され改善されるどころか、さらに退化し悪化しつつあると言えます。選手たちの個人的な能力が同等であるとすれば、監督がサッカーチームの戦力の八割を構成します。それほどに監督に人材を得なければ、世界の強豪チームに伍してゆくのはむずかしいということです。

日本サッカー、対オーストラリア初戦敗退が示すもの

ジーコとオシム


それはさておき、この記事で私がとくに批評したいと思うのは、サッカーのことではなく、この記事の中に取り上げられている映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)についてです。

太平洋戦争の日本の敗北を契機にそれ以降、旧大日本帝国軍人とその軍隊を貶め揶揄する映画が、数多く作られました。日本人の意識改造と民主化政策の名の下に、GHQの占領政策とそれに便乗する反日日本人たちによって、とくに共産主義勢力と、民政局などに所属して当時のアメリカ政府に一定の勢力を占めていた、「進歩的知識人」たちは、日本国憲法の制定など、日本人と日本国の改造に深く関与しました。

同時に彼らは、自分たちの太平洋戦争を正当化するために、旧大日本帝国軍人とその軍隊の「残虐さ」や「醜さ」「愚かさ」を、とくに映画などによるプロパガンダを通じて、日本国民を徹底的に洗脳しました。ここでpfaelzerweinさんが取り上げておられる映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)もそうした目的で作られた数多くの映画の中の一つです。

その結果、戦後育ちのいわゆる「戦後民主主義」で教育された日本国民のほとんどが、そうした無自覚なバイアスをもって、旧日本帝国軍人とその軍隊を見るように仕組まれています。

だから事実として、戦後世代のほとんどの日本人は、―――よほど、自覚的に努力して自らの生きる時代と受けてきた教育を相対化して認識しようとしている者を例外として―――自覚的にせよ無自覚的にせよ、旧帝国軍とその軍人に対して否定的で拒絶的な悪感情を持っています。その教育の影響は、とくに戦後世代以降の日本女性に顕著に現れています。

英文学を専攻し英国に留学もしてイギリス人を夫にした元法政大教授の田嶋陽子女史や、フェミニストで社会学者の上野千鶴子女史などはそうした女性の典型的な存在だろうと思います。実際、彼女たちの旧日本帝国軍人に対する憎悪の背後には、何十万何百万の小「田嶋陽子」女史、小「上野千鶴子」女史が存在しています。そして、おそらくpfaelzerweinさんご自身もそうした戦後世代の人たちのお一人であろうと思います。この洗脳の徹底ぶりのために、未だに日本国民の大多数は旧帝国軍人や軍隊に対する深い嫌悪感と憎悪を克服できないでいるのです。それは当然に彼女らの父や祖父、夫や兄弟など男性に対する潜在的な忌避感情につながります。それに併行して国民の間に伝統的な倫理観も破壊されてしまいました。そのために、国民として自らのアイデンティティーを彼ら自身の多くが確立することができないでいます。そして、そのことを彼ら戦後世代は自覚していません。現代日本の退廃と堕落とエゴイズムの深い根もここにあります。

もしそうでないとすれば、アメリカ人が日本人を揶揄しからかうために作った反日プロパガンダ映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)を取り上げ引用するにしても、ここまで徹底的に「批判精神無し」に、日本人と旧帝国軍人を揶揄しからかい貶めることなど考えることができません。さもなければ、大日本帝国憲法国家体制に対して、憎悪と反感を持つ確信犯的な反日日本人か、あるいは、帰化日本人たちの行う意図的な引用としか考えられません。その場合にはもはや議論の余地もないでしょうが。

映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)はもともとアメリカ人監督、脚本制作による反日プロパガンダ映画なのですが、アメリカ映画とするにはあまりにも露骨なので、日本映画として配給されたものです。そこまで日本人がこけにされていることにさえ、ほとんどの日本人は気づかずに、今回のpfaelzerweinさんのように、まったくに「批判精神無しに」、この映画のことを引用したり、語ったりするのです。

太平洋戦争の敗戦以降、戦後世代の精神構造から、さらに幾世代にわたってますます浸透し深刻化しつつある、こうしたGHQの占領政策による洗脳から、日本人が解かれない限り、pfaelzerweinさんのおっしゃるように、「「君が代」を口ずさむ日本人サッカー選手たちの顔付や日本人サポーターの顔付きから、「島で一人の女を争そう「あなたはん」物語の生き残り日本兵のような情けなさ」は消えてなくならないだろうと思います。



 

 

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終戦記念日

2009年08月15日 | 教育・文化
終戦記念日


今日は終戦記念日である。本当は「終戦記念日」などという姑息な名称で呼ぶのではなく「敗戦記念日」として、日本民族の歴史に記憶として深く刻み込み、永遠に反省と教訓の日にしてゆくべきなのだろうが。

テレビなどのマスコミでも、NHKの番組をはじめとして、多くの記念番組が今年も組まれている。けれど、相変わらずそこで示されているのは、戦前のわが国の国家体制は悪であるという、一方的で硬直的で「自虐的な」批判的国家観に基づいた番組編成である。戦前の日本の国家体制は「悪」であり、犯罪国家だったという既成観念を前提とした上で、あいかわらず番組内容が編成されている。

国家の間の戦争であれ、子供の間の喧嘩であれ、一方が完全な悪で一方が完全な正義である、というようなことは普通たいていの場合ありえない。喧嘩や戦争は二者の間で起きるのであり、二者を悟性的に切り離して、一方を悪として断罪し、他方を正義として断定するような認識では、永久に真実を見ることはできないだろう。単独では戦争や喧嘩は起きず、相手が存在してこその戦争や喧嘩である。そこには互いにそれぞれの言い分があり、その言い分にはそれなりに根拠も存在するのが普通である。

東大の憲法学者やNHKなどに代表される現代のマスコミ人に多く共通する傾向は、国家性悪説に立った国家観である。そこには、マルクスなどの階級国家観や階級闘争史観などの思想の影響もあるのだろう。国家や戦争を見るにしても、そこには必ず何らかの視点が存在する。しかし、それが果たしてどれだけ自覚されているか否かはとにかく、あるいはそれが自覚されていないだけに、事態は病膏肓に入っている。ここではその論証はできないが、結論のみいえば、マルクス流のブルジョア国家性悪説やルソーの契約国家説などは誤った一面的な国家観だと思う。

そうした間違った国家観に基づきそれを視点とする東大の憲法学者やNHKなどの番組制作者たちが、日本社会にもたらす害悪は小さくはない。「国家を地上の神のように敬わなければならない」と言うヘーゲルの国家観と彼らのそれとは、まさに百八十度転倒しているのである。はたしてどちらが正しいのか。

今年の「終戦記念番組」でも、とくにNHKなどは「証言記録 市民たちの戦争」
というタイトルに見られるように、「市民」を国家から切り離し、市民であると同時に国民でもあるはずの「市民」に、被害者としての視点のみから、国家と戦争を見させようとする。そのことによって、「国民」という視点と倫理を損い、また、それを「市民」たちから奪おうとする。無知と惰性の相変わらずのNHKの亡国国家観にもとづく番組制作の戦後六十余年ではある。

正しい国家観、国家の概念を確立することがどれほど重要であるか、そのことがこの一事によってもわかる。また、それなくして「品格ある国家」の建設なども不可能である。藤原正彦氏などがその著書『国家の品格』に展開されているような浅薄な「国家観」では、到底「品格ある国家」など実現するはずもない。そしてその一方でまた、日本国民は、「証言記録 市民たちの戦争」というNHKのプロパガンダ番組を相変わらず見せられて、その「品格無き国家」とともにますます沈み込んでゆくばかりである。




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日本の教育と民主主義の水準

2009年02月26日 | 教育・文化

 

日本の教育と民主主義の水準

お久しぶりです、hishikaiさん。いただいたコメントにお返事しようと思いましたが、例によって長くなってしまいましたので記事にしました。しばらく私の方は記事の投稿の公開を休んでいますが、その間にもいろいろなことがありましたね。あなたがブログで取りあげておられた中川昭一財務相兼金融担当相が二月十七日に麻生太郎首相に辞表を提出したこともそうですね。中川昭一氏は経済危機の対策について協議したG7閉幕後の会見の席で、酒に酔って醜態を世界に晒してしまいました。この事件で中川昭一氏は政治生命を失うことになりました。

モーゼの宗教の伝統を引くキリスト教やイスラム教は、酩酊文化に対してわが国ほど寛容ではないのです。わが国では自民党の森喜朗元首相に見られるように、明治の元勲以来、日本の権力者たちの得意とする「料亭政治」は相変わらず続いています。日本の政治が堕落するのはそこに酒が絡んでいるからです。

日本の世論は自分たちが選挙で選んだ麻生首相を支持していませんが、それも誰の責任でもありません。少なくともわが国は曲がりなりにも民主主義国家ですから、首相に文句を付けるのは根本的にまちがいです。首相を選出したのは自民党であり、自民党を多数派にしたのは国民自身なのですから。だから首相に対して国民が誰かに向かって愚痴や不満を言うべき筋合いのものではありません。それはみずからの愚かさを証明する以外の何物でもありません。不満を持たないで済む首相を、指導者を国民自身が選び出せばよいだけの話ですから。ただ国民を満足させる指導者の見あたらないことが問題だと思います。

現在の日本の危機の根幹は、人材の枯渇にあると思います。江戸時代の佐久間象山、吉田松陰や福沢諭吉たちの書いた日記や文章を見れば、江戸末期の学問文化の質の高さは、平成の御代の人物のそれをはるかにしのぐ水準にあります。現象的な知識についてはとにかく、少なくとも哲学、見識、本質的な洞察力、モラルなどについては、平成の現代人は及びも付かないと思います。大久保利通、西郷隆盛、伊藤博文、坂本龍馬などの人物と、現在の――たとえばさきの中川昭一氏、安倍晋三氏、福田康夫氏、麻生太郎氏などの二世政治家の多くと比較してみればどうでしょうか。麻生氏などは漫画しか読まないから漢字も読めないのです。

儒教なら儒教、仏教なら仏教にせよ、曲がりなりにもそれぞれには長い歴史と伝統に裏打ちされた「形而上学」が一応形成され、その哲学が当時の人物や国民に気品と能力を与えていたのではないでしょうか。そうした「国民の形而上学」は、太平洋戦争後のGHQの手による日本の「民主的改革」によってすっかり国民の間から蒸発してしまいました。その結果として現在のような戦後の日本人の唯物的、即物的な人間、国民性が形成されてしまったのではないでしょうか。日本の民主化が伝統文化とは切り離されたところで他民族の手によって実行されたためです。そのため藤原正彦氏が嘆いたように品格も何もなくなってしまいました。それに輪を掛けたのが、テレビなどのマスゴミ文化の蔓延です。

悲しきチャンピオン―――亀田興毅選手一家に見る戦後日本人像

どのようにして世界的にも最高の人材を産み出す教育と文化の環境を確立するか。それが現代においても根本的な国民的課題です。戦前の旧制高等学校などはそれなりにエリート教育の場に成っていたのですが、戦後の教育における「民主的改革」は、もちろん大衆における高等教育を実現して行くうえでそれなりに意義はあったのですが、その反面に真のエリート教育を失わせたこと、そのことによる国家的な損失も小さくはなく、人材の枯渇は日本の没落を予想させます。

 

 

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NHKの言論自主規制

2008年11月16日 | 教育・文化

NHKの言論自主規制

 

今月の初めに航空自衛隊の田母神俊雄元航空幕僚長が解職されるという事件があった。田母神氏が民間会社の懸賞論文に応募して、そこで明らかになった歴史観が政府見解と異なるという理由によるものである。この問題は新聞の全国紙においても、その是非についての意見はとにかく、取りあげられるほどの社会問題になっていた。

そうして11月13日、この田母神氏がに参院外交防衛委員会に参考人として招致されることになった。私はこれほどの社会問題になっているのだから、当然のことながらNHKで中継放送されるのだろうと思って、当日にNHKの番組を見てみたのであるが、放送日程には組み込まれていなかった。

世論を二分するほどになっているこれほど大きな問題を、その当事者が国会で発言するというのに、なぜNHKは報道し中継しなかったのだろうか。参院外交防衛委員会での田母神氏に対する質疑を聞いて国民はその是非を判断するはずだったのだ。NHKの報道の取捨選択の基準はどこに、また誰に権限があり、また放送の公正さを公的に検証する機関はどのように存在しまた公開されているのだろうか。それが気になった。

今それらを直ちに調査する暇はないけれども、ただ近年のNHKの番組を見ていて感じていることを書いておきたい。

NHKで働く人々のジャーナリズムの能力は、その真実の追求と報道の能力は、その番組制作能力とともに著しく低下してきているのではないか。ひと昔前のNHKの仕事のようには高く評価はできなくなっている。果たしてNHKは日本の放送文化の格調を保つうえで指導的な役割を果たしているのか。最近はその意思も能力も失われつつあるのではないか。また、NHKで働く人々の資質もそれだけ落ちてきているのではないか。民営放送番組と同じような大衆に媚びる番組も著しく増えているようにも思う。

最近は確かにインターネットの発達などもあって、以前のように新聞やテレビだけに情報も限定されることはなくなっている。私たちはかならずしもテレビに頼らずとも、ネットテレビなどによる視聴の機会も増えている。が、それにしても、ほとんどの新聞の社説にも取りあげられている田母神論文問題の、その当事者が国会に参考人に招致されているというのに、それをNHKが中継報道しないという、その判断を疑問に思う。

かって以前にも、NHKが明らかに報道を自主規制していると思われることを経験したことがあった。その時の傾向が相変わらず改善されず、事態がそのまま続いているように思われることである。

もう何年も前になってしまったけれども、 冬季オリンピック大会のフィギアスケートで荒川静香選手が優勝したとき、金メダルを授与されたその表彰式後に、静香選手は日の丸を着てウィンニングランで観衆に応えてリンクを周回していた。そのときに静香選手の跡を追っていたNHKのカメラマンは、突然カメラを天井に焦点を据えたままにして、日の丸を背負った静香選手の美しい姿をまったく国民に伝えようとしなかった。荒川静香選手の背負った日の丸の姿を、その時NHKは共同放送していた韓国などの他国に「気を遣った」ためであるとも言われている。 

                                

NHKの国家観

HKの国家観②

また、俳優の関口知宏さんの登場した中国の鉄道紀行番組で、青蔵鉄道を紹介していたときも、この鉄道のもつ問題をチベット民族の立場から報道するということも一切なかった。

中国チベット動乱と日本

NHKの報道姿勢

NHKで働く人々は言論の自由や報道についてのしっかりした哲学とジャーナリストとしての主体性を持つべきであるし、また日本国民に対する教育的使命やその責任の重要性ということを、今いっそう自覚する必要があると思う。

とくに大衆の劣情に媚びる番組ではなく、番組の自主制作能力をもっと高めて、また、土曜日の重要な時間帯に韓国、中国やその他の外国製のテレビ番組の安易な購入などに依存したりすることなく、以前のように本当に楽しくまた価値ある国産の番組の制作と放映に努めてほしい。

また、同じ公共放送であるイギリスのBBCやドイツのZDFのインターネット放送サービスなどに比較すれば、技術的にも完全に立ち後れている。NHKよ、もっとしっかりしてほしい。日本国民の受信料で信頼を受けて経営を託されているのだから、それはNHKの当然の責務であるはずである。

 

 

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群衆と国民

2008年08月02日 | 教育・文化

戦後の日本国憲法の制定の過程で、民主主義とか国民主権という観念も普及していった。その過程でこれらの言葉は、流行語のように、また時には「反動勢力」を黙らせるために、「黄門さまの印籠」のように遣われたこともあるようだ。

テレビなどでジャーナリストや政治家が「国民」とか「国家主権」とかを口にするとき、その多くの場合、彼ら話し手の考えている頭の中の、その言葉の実体といえば、それぞれが勝手にイメージした曖昧で漠然とした観念である場合が多い。それは「国民」と呼ばれてはいるけれども、多くの場合曖昧で抽象的な単なる表象にすぎず、その「国民」なるものは「群衆」と区別がつかない。

しかし、それでは「国民」とは実体のない陽炎のようなものか。
そうではないと思う。それは私たちが海外に出るとよくわかる。パスポートなくして海外に出ることができないように、諸外国との関係においてはじめて個人は「日本国籍」を持った「日本国民」の一人として、そのアイデンティティー(身分証明)が明らかにされるのである。外国との関係においてはじめて各個人は、日本国を日本国として自覚し、一個の有機的な組織体としての国家の一員として、「国民」として自己を自覚するようになる。

要するに「国民」という観念は、国家と切り離しては考えることのできない概念なのである。またパスポートに菊花紋章の刻印があるように、少なくとも日本国憲法の場合、天皇や皇室との関係が自覚されている。たとい、その位置づけは「象徴」として哲学的には極めていい加減な規定しか行われていないとしても。そして、この関係を自覚するとき、そのときはじめて各個人は、群衆の一人としてではなく、「日本国民」の一人として自己を自覚するようになる。国家意識の希薄な戦後の日本人が、倫理なき群衆の一人としてしか自己を自覚できないでいるのもやむをえないといえる。
 

 
 
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