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作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

三人の国家観

2025年05月28日 | 国家論

 

三人の国家観


丸山眞男の国家観: 

⑴ 丸山における国家とは、自律的自我が制度的に共存・対話する空間である。戦前の国体国家における「国家による人格吸収」を批判し、国家とは個人の自由と責任によって支えられる制度的枠組みであるとした。
⑵ 個人は国家の中に没入すべきではなく、制度を通じて批判的・公共的関与を行うべきである。ここには「理念としての国家」や「宗教的正統性としての国家」は存在しない。

西田幾多郎の国家観:

⑴ 西田は『国家と宗教』(1941)において、国家とは歴史的世界の自己表現であり、宗教的統一を内包する理念的全体であると論じた。彼の「場所の論理」においては、個人と国家は外在的な関係ではなく、絶対的一者の場所における自己相即的関係にある。
⑵ 国家は「永遠の今」における倫理的自己形成の場であり、個人はそのなかで歴史的使命を果たす存在である。つまり国家は倫理的・宗教的・歴史的理念としての現存在である。

和辻哲郎の国家観:

⑴ 和辻は『倫理学』『人間の学としての倫理学』において、人間は「間柄的存在(betweenness)」であり、国家はその最も具体的かつ歴史的な形態であると説いた。
⑵ 特に『国体の本質』(1940)では、国体とは抽象的理念や法的構成ではなく、伝統・文化・宗教を通じて形成された倫理的実体であり、国民と国家は切り離せない「倫理的一体」として存在する。 国家は理念であると同時に、生きられた歴史・文化の身体でもある。

 

 

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1282回 高橋洋一:小泉大臣で米2000円台へ 裏で糸を引く財務省の思惑

2025年05月27日 | ニュース・現実評論

 

1282回 小泉大臣で米2000円台へ 裏で糸を引く財務省の思惑

 

 

 

 

 

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1281回 高橋洋一:GDPマイナスでも補正予算打たないで銀行にお小遣い💢どうしようもない

2025年05月26日 | ニュース・現実評論

 

1281回 GDPマイナスでも補正予算打たないで銀行にお小遣い💢どうしようもない

 

 

 

 

 

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玉木雄一郎氏の国家観──山尾志桜里氏の参議院選挙擁立をめぐって

2025年05月19日 | ニュース・現実評論

 

玉木雄一郎氏の国家観──山尾志桜里氏の参議院選挙擁立をめぐって
──制度国家(Staatsmaschine)と理念国家(Ideenstaat)

 

最近になって国民民主党の玉木雄一郎党首が、山尾志桜里氏を来るべき参議院選挙の候補者に擁立したことで、とくに男系男子の皇統を守ろうとする伝統的な国家観を確信する「保守層」から反発の声が上がっているようです。

山尾志桜里氏はさる15日にも、ご自身のSNSに、「女系天皇の議論を避けつつ、女系天皇の選択肢を排除する進め方は間違っている」と投稿したことで、玉木雄一郎代表から注意を受けたそうです。

山尾志桜里氏は、過去にも女系天皇容認の立場を明確にしており、いわば「歴史的皇位継承の本質を制度化された差別と見なす立場」に立つ政治家です。それはグローバルな人権思想とも接続する「リベラル国家観」に根差した発言です。

しかし、男系男子による皇位継承の問題は、単なる制度論やジェンダー問題ではなく、国家の連続性とその神話的・歴史的正統性(ヘーゲルの言葉でいえば「国家理念」)にかかわる核心的な問題です。したがって、ここでの立場表明は、政治家の「国家の起源」や「国家の歴史的連続性」や「制度と国民精神との関係」についての基本的信念を明らかにするものです。

したがって、国民民主党が、山尾志桜里氏を擁立することで、「伝統国家」の守護を標榜する保守層の精神的な期待に添える政党ではないことが結果として明らかになったということです。この問題は単なる候補者選定の失策ではなくて、国民民主党の国家観そのものの曖昧性を示すものともいえます。

国民民主党は、これまで玉木氏の主導で「103万円の壁を今年から178万円を目指して引き上げること」とか「ガソリンの暫定税率を廃止すること」などの主張を掲げて実務的な政策を推進してきました。これらは国家の「制度のマネジメント」として重要であり、財務省の出身である玉木氏は、行政の合理的運営には優れた感覚と能力を持っているのかもしれません。

しかし、これらの政策は「制度のマネジメント」としては機能していても、その政策は「国家理念」を根拠にしておらず、それゆえに玉木氏は実務的な政策能力はとにかく、皇位継承のような理念的問題になると、軸がブレるか、曖昧にする傾向があります。玉木氏は、国家を単なる「政策運営の対象」と見ており、国家を歴史的に精神的に担う主体としての政治家としての自覚意識が弱いと思います。その結果、山尾志桜里氏の参議院選挙候補の擁立問題のように「国家理念の共通土台」を見誤るという政治的な直感力が欠けていることが明らかになったと言えます。

主観的には玉木氏は、選挙上の短期的な話題性や山尾氏の知名度に期待した可能性があります。しかし、山尾氏のもつ過去の政治的行動や急進的なリベラル言説などは、あきらかに保守層に強い不信感を抱かせる要因となっています。
むしろ、山尾氏のような有名人でなく無名の一般人であっても、保守層の理念を、たとえば皇位継承の正統性などに共感する姿勢を明確に持つ候補者であれば、逆に「希望の芽」として評価され得たかもしれません。この点において玉木氏の判断は、「国家観の整合性」よりも「短期的メディア効果」を優先するというという倒錯に陥った可能性が高いといえます。

日本国の国家理念の核心には、「歴史と断絶せず、文化とともに存続する象徴的共同体としての皇室」があり、この核心をどう扱うかは、政治家たちの「哲学」を問う試金石でもあります。玉木氏の選択は、その問いに対する十分な回答を示さなかったのみならず、保守層の信頼を毀損し、国家理念を軽視したと受け止められても仕方がないと言えます。

 

 

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

2025年05月15日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2]

Erläuterung.

説明:

Die Logik enthält das System des reinen Denkens. (※5)
Das  Sein  ist  1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denk­bestimmungen gehen wieder in sich zurück. (※6)Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott, wodurch die verschiedenen metaphysischen Wis­senschaften, Ontologie, Kosmologie, Pneumatologie und Theo­logie entstehen.(※7)

論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。「存在」とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。;ここで思考の規定はふたたび自己の内へと戻ってくる。伝統的な形而上学の対象は物であり、世界であり、精神、および神であって、そこから存在論、宇宙論、精神論、神学といった形而上学のさまざま分野が生じてくる。

3. Was der  Begriff  darstellt, ist ein  Seiendes,  aber auch ein  We­sentliches.  Das Sein verhält sich als das unmittelbare zum We­sen als dem mittelbaren. Die Dinge sind überhaupt, allein ihr Sein besteht darin, ihr Wesen zu zeigen. Das Sein macht sich zum Wesen, was man auch so ausdrücken kann: das Sein setzt das Wesen voraus. (※8)

概念 が示すものは、存在するもの( Seiendes )であり、同時に本質的なもの( Wesentliches )でもある。存在は、間接的なものである本質に対して、それ自体は直接的なものである。物は一般に存在するものであるが、ただ、その存在によって自らの本質を示すものである。存在は自らを本質へと高めるが、また同じく、存在は本質を前提としているということもできる。

Aber wenn auch das Wesen in Verhältnis zum Sein als das vermittelte erscheint, so ist doch das Wesen das ursprüngliche.  Das Sein geht in ihm in seinen Grund zu­rück; das Sein hebt sich in dem Wesen auf.(※9)

しかし、たとえ本質が存在との関係において媒介されたものとして現れるとしても、本質こそがやはり根源的なもの である。存在はその本質においてその根拠に回帰する。存在は本質において自己を止揚するのである。

Sein Wesen ist auf diese Weise ein gewordenes oder hervorgebrachtes, aber viel­mehr, was als Gewordenes erscheint, ist auch das Ursprüng­liche. Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage und wird aus demselben.(※10)

このようにして、その本質は生成されるものであり、また生み出されるものでもあるが、しかしそれ以上に、生成されたものとして現れる本質もまた根源的なものである。移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

Wir machen Begriffe. Diese sind etwas von uns  Gesetztes,  aber der Begriff enthält auch die Sache an und für sich selbst. In Verhältnis zu ihm ist das Wesen wieder das gesetzte, aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr. (※11)

私たちは概念を作る。この概念は私たちによって「定立されたもの」であるが、しかし、また概念はもともと事物それ自体をも含んでいる。その概念に対して、本質はあらためて定立されたものであるが、しかし、定立されたものは、それでもなお真理である。

Der  Begriff  ist teils der  subjektive,  teils der  objektive.  Die  Idee  ist die Vereinigung von Subjektivem und Objektivem. Wenn wir sagen, es ist ein bloßer Begriff, so vermissen wir darin die Realität. Die bloße Objekti­vität hingegen ist ein Begriffloses. Die Idee aber gibt an, wie die Realität durch den Begriff bestimmt ist. Alles Wirkliche ist eine Idee.(※12)

概念 は一面においては 主観的 であり、一面においては 客観的 である。 理念 とは主観的なものと客観的なものの統一である。 もし私たちが、それは単なる概念にすぎない、と言うときには、そこには現実性が欠けていることを示している。それに対して、単なる客観性は概念を欠いている。しかし理念は、現実が概念によってどのように規定されるかを示すものである。すべての現実的なものは理念である。

 

※5
Die Logik enthält das System des reinen Denkens.
論理学は純粋な思考の体系をふくんでいる。

ヘーゲルにおける「論理学(Logik)」は、通常の形式論理学とは異なって、存在そのものの根底にある「純粋思考(das reine Denken)」を、すなわち、「思考の概念的運動」そのものを問題にしている。「純粋」というのは、思考そのものの内在的な自己展開には、経験的な、感性的な要素は関わらないからである。
ヘーゲルの全哲学体系はこの「論理学」に始まり、それは「概念の自己運動としての実在」が、つまり「理念(Idee)」への発展過程として示されている。
たとえば「存在」→「本質」→「概念」と進む弁証法的展開は、現実世界のすべてを根底で支える論理的な構造であって、それが「純粋思考の体系」として捉えられている。

※6
Das Sein ist 1) das unmittelbare; 2) das innerliche; die Denkbestimmungen gehen wieder in sich zurück.
存在とは(1)直接的なものであり、(2)内的なものである。思考の規定は再び自己の内に戻ってくる。

ここでは「存在(Sein)」のもつ二重の性格が述べられる。
まず、unmittelbar(直接的な)というのは、何の媒介もなく、ただそこに「ある」ものとしての存在であり、それはもっとも抽象的な起点であり、感覚的な「ある」である。
innerlich(内的な)というのは、この存在が、たんに外部に感覚的に現れるだけでなく、思考によって反省(反射)的に捉えられたときには、内面性をもつものとして、存在はその内に折り返して、自己反省して、本質(Wesen)を洞察する。

思考の運動としては、「思考の規定(Denkbestimmungen)」がただ他者を規定するだけではなく、自らに戻ってくる(内面化する)という動きである。思考は、存在のたんなる外面を超えて、存在するものの中へと進んでいく。これは「自己への反射(Reflexion in sich selbst)」でもあり、ここから本質論へ入る。

※7
Die Gegenstände der gewöhnlichen Metaphysik sind das Ding, die Welt, der Geist und Gott ...
伝統的な形而上学の対象は物、世界、精神、神である。

ヘーゲルはここで伝統的な「形而上学(Metaphysik)」の四つの主要な対象領域をあげる。
Ding(物):存在の最小単位、物理的対象。ー→ Ontologie(存在論)
Welt(世界):物の全体構造としての宇宙。ー→ Kosmologie(宇宙論)
Geist(精神):人間の自己意識的活動、自由をもつ存在。ー→ Pneumatologie(精神論)
Gott(神):絶対的存在としての究極者。ー→ Theologie(神学)
しかしヘーゲルにとって、これらはすべて論理的に一つの体系の中で発展するもの、理念の自己展開として説明される。

※8
Was der Begriff darstellt, ist ein Seiendes, aber auch ein Wesentliches ...
概念が示すものは、存在するものであり、同時に本質的なものである。
「概念(Begriff)」は単なる言葉や定義ではなく、存在を自己運動によって本質化する動的な論理的な構造のことである。

Seiendes(存在するもの)とは、現実にそこに「ある」もの。
Wesentliches(本質的なもの)とは、そこに「あること」に内在している根拠や意味のこと。

たとえば、「レモン」という存在の本質は、リンゴやバナナといった他の果物と比較され関係付けられて、反省(Reflexion)され、柑橘類としてその酸っぱさや、黄色という色彩や、絵画や文学の素材などとしてレモンの本質が認識される。また、たとえば「国家」という存在は、ただ制度として存在するのではなく、その存在を通じて「自由」や「理念の実現」といった国家の「本質」を現すような論理的な構造をもっていることが洞察される。

 

※9
Das Sein hebt sich in dem Wesen auf.
存在は本質において自己を止揚する。

存在(Sein)はそのままでは感覚的に抽象的で空虚なものであり、それを思考の媒介を経て内面化、深化させたものが本質(Wesen)である。したがって、存在が本質へと移行する過程は、単なる否定ではなく、より深い真理としての「本質」のうちに、「存在」が保存され、止揚される運動ととして捉えられる。これは論理学において「存在論」から「本質論」への必然的な発展の論理として、「止揚(Aufhebung)」の具体的な事例として説明されている。

※10
Das Vergängliche hat das Wesen zu seiner Grundlage 
移り行くものは、本質をその基礎にもち、それから生じる。

「万物は流転する」というヘラクレイトスの立場を引き継いだヘーゲルは、「生成(Werden)」という動的過程を強調する。移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、移り行くものの生成には、その事物の本質が現象してくる。一見「生成された(Gewordenes)」もの、つまり変化したもの、結果のように見える存在も、実は「根源的(ursprünglich)」な本質が自己展開したものにほかならない。
  たとえば、一つの国家制度が変化・崩壊したとしても、その現象の背後には「自由」や「理念国家」といった根本理念が本質が変容しながら働いている。
移ろいやすいもの(Vergängliche)は偶然的なものに見えるが、その生成を通して、理念の必然的な運動がそこに貫かれていると見る。

※11
aber das Gesetzte verhält sich doch als wahr.
定立されたものは、それでもなお真理である。

 本質も概念も思考主体によって主観的に「定立された(gesetzt)」ものであるが、しかし、
それは単なる主観の任意な思いつきではなく、対象そのものの真理を含んでいる。
つまり、本質(Wesen)も概念(Begriff)も私たちが「作る」ものであると同時に、そこには「客観的真理」が保存されている。そこでは主観と客観が止揚され統合されている。

※12
Alles Wirkliche ist eine Idee.
すべての現実的なものは理念である。

ヘーゲル哲学においては、Begriff(概念)は単なる主観的な思考の産物、観念ではなくて、主観的・客観的側面を統合したものである。その統合とされたものとしての、Idee(理念)は、現実(Wirklichkeit)を構成する原理である。
ここで言う「理念(Idee)」は、単なる理想や観念ではなく、概念によって貫かれた現実そのものであり、たとえば、「国家」という現実も、「法」や「自由」「倫理」といった概念によって規定され、そうである限りにおいて、国家は「理念的な実在」である。
逆に言えば、理念を欠いた現実(たとえば、倫理なき法、理念なき制度)は「真の現実」とは言えない。つまり真の「現実性(Wirklichkeit)」を持たない。

だから、理念を欠いた日本国憲法の上に立つ日本国家は「真の現実」ではなく、ヘーゲル哲学的な観点からみれば「現実性(Wirklichkeit)」を持たないということになる。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義2] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/LSnHso

 

 

 

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牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

2025年05月10日 | 哲学一般

 


牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 )

 

以前に、ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

と言う論考の中で、かって東京都立大においてマルクス主義哲学者であった寺沢恒信の指導のもとでヘーゲル哲学研究の研鑽を積んだ許萬元と牧野紀之の二人の弟子が、あくでもマルクス主義の立場からですが、論理学や弁証法の研究において傑出した業績を残していることについて述べました。

寺沢恒信をはじめとするマルクス主義者たちは「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱をヘーゲル哲学研究の出発点としましたから、ヘーゲル論理学の研究分野において、あくまで「唯物論」という立場からそれなりの業績を残しています。


寺沢恒信氏の指導のもとでヘーゲル哲学研究に従事した許萬元と牧野紀之の2人を中心とするこの学派について「寺沢学派」と私は呼びましたが、「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という問題意識からとはいえ、ヘーゲル研究において優れた業績をあげているからです。

牧野紀之氏自身は、六十年安保闘争世代の思潮の影響を受けて、当時は、ソビエト・ロシアや毛沢東の中国が「東風が西風を圧する」という、興隆しつつあった共産主義諸国に夢と共感を抱いたらしく、牧野紀之氏も20歳前後に、共産主義運動に参画するという目的をもって彼の哲学研究の動機としました。


この間の事情については、牧野紀之訳『精神現象学』の「訳者まえがき」の中で牧野氏自身が次のように述べています。

「では三浦氏自身の問題は何だったのでしょうか。氏はこう言っています。「少し分かり易く説明しますとね、僕たちの世代、あるいは次の世代もそうですが、一方では連合軍による占領と、他方で中国革命があって、また米ソの対立図式のなかで社会主義に対する憧れを持っている。しかしスターリニズムの実態がハンガリー事件やチェコ事件などを通じて明らかになると、次第に憧れが失望に変わっていって、既成の社会主義をそのまま受入れることができなくなる。」(四三ページ)


氏の心情を推察してかみ砕きますと、二十世紀の最大の社会問題であった資本主義か社会主義かの問題に最大の関心があり、その対立において社会主義に好感を持っていたということです。それは中国革命の道徳的な高さによって強められたということです。しかしソ連の社会主義(及び革命後の中国の社会主義) の実態を知るに及んでどう考えたらいいか迷うようになったということです。

思うに、この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います。私もここまでは三浦氏と同じです。しかしこの総論をどれだけ具体化して考え進めたか、これがその人の哲学を決定したのだと思います。前衛党の問題、その規律としての民主集中制をどう考えるか、理論と実践の統一をどう考えるか、政治と学問・芸術の関係をどう考えるか、こういった問題にまで具体化して考えたか。それを考える時にヘーゲルを参考にして考えたか、これが決定的だったと思います。」

(※ちなみにここで言う「三浦氏」とは、1995年に、出版社「未知谷」から、牧野紀之氏と同じように、ヘーゲルの『精神現象学』を翻訳、出版した三浦和男氏のことです。)

 

ここで牧野紀之氏 が「この総論は日本の多くのヘーゲル研究家の共有する問題意識だと思います」と書いているように、日本のヘーゲル哲学研究者の99%はマルクス主義者であって、彼らは自らの拠り所であった共産主義に対する夢が敗れた後に、マルクスが自らの思想の拠り所にしたヘーゲル哲学そのものにさかのぼって、「マルクス主義」の検証に取り組もうとしたのだ思います。

悪くいえば、マルクス主義の歴史的な政治的な破産に直面したマルクス主義者たち、この三浦和男氏をはじめ牧野紀之氏自身もそうだと思いますが、そうした破産に直面して、「マルクス主義」を再検証するという口実で、「ヘーゲル哲学研究」の中に逃げ込んだのだと思います。

市民社会の、いわゆる「資本主義社会」の中では、マルクス主義者たちは実際に使い者になりませんでしたから、彼らは「大学」や「アカデミズム」の世界に逃げ込んで、そこで「食い扶持」を見出すことになったともいえます。今日の「大学」「アカデミズム」の世界がほとんど「赤一色」「左翼一色」である理由もここにあるのではないでしょうか。

しかし、牧野紀之氏自身は、自身の初心に忠実に、自らの哲学研究において共産主義そのものを実践しようとしました。だから牧野氏自身はサラリーマンとしての「大学教授」という職に満足できませんでした。自から「鶏鳴学園」という私塾を作って、寺沢恒信から受け継ぎ、その上に自らの創意工夫を加えて発展させたヘーゲルのテキストの「読解技術」を── 具体的には「文脈を読む」とか「形式を読む」といった読解の技術を、自らの私塾「鶏鳴学園」に学びにきた生徒たちに伝授しました。また、自らも共産主義の実践として、「共同体」の創出などにも取り組みました。

鶏鳴学園で行われた牧野氏のヘーゲル哲学の原典購読は、たとえば一般のいわゆる「大学」「アカデミズム」におけるヘーゲルの原典購読の水準をはるかに超えるものでした。それが評判をよび定評を得ましたから、難解な「ヘーゲル哲学」を何とかものにしたいという若者、社会人などが集い、牧野氏からヘーゲル・テキストの「読解の技術」を学びました。

牧野氏自身は、「自分の哲学を作って生きる」という課題に忠実でしたが、牧野氏の生徒たちの中には「大学教授」として生活するという目的のために、牧野氏からヘーゲル哲学の読解の技術だけを、悪くいえば盗んで「大学教授」になるための「飯の種」として、ヘーゲル哲学の訓詁注釈のみに従事しました。ヘーゲル哲学研究を「自らの哲学を作る」という課題の手段とすることなく、ヘーゲル哲学を「談論風発」することだけが目的の、そうした風潮について牧野紀之氏は「サラリーマン弁証法」と揶揄しました。

少し論点が逸れてしまいましたが、この「寺沢学派」のもう一つ著しい偏向があるとすれば、この「寺沢学派」には、ヘーゲルの「法の哲学」に関連する研究業績が皆無であるということです。マルクス自身はヘーゲルの「法の哲学批判」を彼の「共産主義思想」の基礎にしましたが、この「寺沢学派」は「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」という動機にみずから限定しましたから、そのヘーゲル哲学研究が、ヘーゲルの「大小論理学」に集中したのは当然の帰結だとも言えます。その結果として、ヘーゲル「法の哲学」の国家理念に基づいた、新日本国憲法を構想できる者が、この「寺沢学派」には、誰一人としていなかった、ということにも現れています。

 

牧野紀之氏について(3、 ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」 ) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/1TrmSU

 

 

 

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牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

2025年05月06日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か)

 

牧野紀之氏は、世界観としては、唯物論の立場に立つ。それは牧野氏の経歴を見てもわかるように、彼の哲学研究が、共産主義運動への参画を根本的な動機としていたことから来るものである。この共産主義とはマルクス主義であり、毛沢東主義である。

マルクス主義や毛沢東主義は世界観の立場としては唯物論である。マルクス主義を初心とした牧野氏は終生にわたって唯物論の立場から離れることはなかった。これが彼の哲学の限界である。だから、牧野氏にとっては「世界には初めも終わりもない」。

かくして、牧野氏の指導教官であった東京都立大学の教授であったマルクス主義者の寺沢恒信のもとでヘーゲル哲学の研鑽に励んだ牧野氏は、その師と同じく「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱を、牧野氏自身の哲学研究の出発点しており、この立場を終生にわたって引き継いだ牧野氏は、したがって、「ヘーゲル哲学自体」の研鑽をどれほど深めようとも、絶対的観念論者ヘーゲルそのものの立場に立つことはなかった。

牧野紀之氏はいわゆる60年安保闘争世代に大学時代を過ごしており、その時代思潮に深く影響されている。それに対して、私は牧野紀之よりもちょうど一世代下の70年安保闘争の時代に学生時代を過ごした。しかし、もともと私のヘーゲル哲学研究の動機は「キリスト教の研究」にあったから、世界観の立場としては、マルクスの唯物論の立場を選択する動機も必然性もなかった。

ヘーゲル哲学そのものの世界観は、「絶対的観念論」とは言われるが、そもそも基本的にはこの「絶対的観念論」は唯物論をも止揚したものである。つまり、絶対的観念論とは、唯物論でもなければ、いわゆる観念論でもない。物質と観念がどちらが根源的かという問いには、究極的には確定できないとするのがヘーゲルの立場である。これを日本の伝統的哲学の立場から言うなら、「色心不二」の立場であって、色=物質、心=観念の二者は二つであって二つではないという立場とおなじである。色=物質、心=観念のいずれが根源的かという問題には結論がない。

もともと、「キリスト教の研究」を動機とした私の「ヘーゲル哲学研究」には、したがって、そもそもマルクスの唯物論の立場に立たなければならないという動機もその必然性もなかった。だから私はこのヘーゲルの立場、つまり「絶対的観念論」の立場をそのまま継承することになった。ヘーゲル哲学、その論理学そのものを何ら改造することなく、そのまま引き継ぐだけである。牧野氏のように唯物論の立場から改作する必要もない。ヘーゲル哲学を「唯物論の立場から改作する」というのは、むしろ改悪であり「非真理」への転落以外のなにものでもない。この観点から、マルクスの浅薄な「ヘーゲル概念論」理解を逆批判することになった。

とはいえ、牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解は、「唯物論」の立場からの改悪という根本的な欠陥を自覚して読解する限りは、我が国におけるこれまでのヘーゲル哲学のテキストのもっとも正統的な優れた読解の教本である。

どうしてそれが可能になったか。牧野氏は「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの提唱に生涯忠実であったが、その研究の実際はヘーゲル論理学の「現実的な意味を考え抜く」ことに徹することであった。そのために、唯物論とか観念論とかいった枠を超えて、大学教授や講壇哲学者たちが達し得なかった水準において、「ヘーゲル論理学の現実的な意義」を明らかにすることができたからである。

それゆえに現在のところ、ヘーゲル哲学の読解のためのもっとも有効、有益な教本として、私たちは牧野紀之氏の「小論理学」「精神現象学」の翻訳と註解を参考にできるし活用できる。

 

牧野紀之氏について(2、唯物論か観念論か) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/j8BUrO

ヘーゲル哲学研究における「寺沢学派」(マルクス主義批判) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X9SKQB

 

 

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牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

2025年05月04日 | 哲学一般

 

牧野紀之氏について(1、牧野紀之氏の経歴など)

日記ブログ「作雨作晴」でも哲学研究ブログ「夕暮れのフクロウ」でも、多くヘーゲル哲学について論及しています。こうした私の「ヘーゲル哲学研究」は、哲学者の牧野紀之氏の「ヘーゲル哲学研究」を媒介にしていますから、私があらためて牧野紀之氏の「思想と哲学」について、批判的に考察することは、必要なことであり課題でもあるのですが、なかなか時間的に能力的にも実際に具体的に着手できませんでした。

しかし、この問題は「私の思想や哲学の立場」を明確するためにも、いつまでも先送りできることでもないので、少しずつでも着手していくつもりで、今日の記事になりました。こうした感想や考察を断片的にでも蓄積していって、それを手がかりとして、時がくればそれらを整理しまとめて、一つの必然的で体系的なまとまった考察としていきたいと考えています。

牧野紀之氏については、牧野氏自身がご自身のブログの中で明らかにされています。

牧野紀之 - マキペディア(発行人・牧野紀之) https://is.gd/89Z4qs

牧野紀之


2008年08月01日 | マ行

1、経歴等

1939年、東京に生まれる。
 1963年、東大文学部哲学科を卒業。
 1970年、東京都立大学博士課程を卒業。
 1971年、鶏鳴出版を始める。
 1973年、哲学私塾「鶏鳴学園」を始める。
 1976年、雑誌「鶏鳴」を創刊。
1990年、引佐郡引佐町(現在の浜松市北区引佐町)に移住。
 1991年、04月から哲学の共同生活を始めるが失敗。
2006年、ブログ百科事典「マキペディア」(創刊時の名は「マキシコン」)を創刊

2、思想遍歴等

 大学院卒業までの経歴については「勉強の思い出」を参照。

 60年安保闘争の中で直面した問題と取り組み、ヘーゲル哲学を介して考える中で、生活を哲学する方法を確立した。「生活のなかの哲学」「哲学夜話」(鶏鳴出版)。

 ヘーゲル研究の成果は訳書「精神現象学」(未知谷)「小論理学」(上下巻、鶏鳴出版)など。

 又、社会主義の根源的反省の中で、唯物史観の論理的再構成を目指す。「労働と社会」「ヘーゲルの目的論」(鶏鳴出版)など。

 それの延長線上で、マルクスとエンゲルスの自称「科学的社会主義」を再検討して、その証明の不十分性を指摘する。つまり、それは実際には「空想的社会主義」の1種でしかないことを証明。「マルクスの〈空想的〉社会主義」(論創社)。

 社会運動のあり方としては「本質論主義」を提唱し、具体化している。これと関連して、従来の社会主義運動で理論的検討の加えられなかった諸問題を解明。「理論と実践の統一」(論創社)。

 ドイツ語教師としての活動の中で、関口存男(つぎお)氏のドイツ語学を学ぶ。「関口ドイツ語学の研究」(鶏鳴出版)。

 教育活動では、初めは学校を低く見て私塾を目指してきたが、失敗してからは、学校の可能性を追求するようになる。

 哲学教育の目的を「各自が自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」と定式化したこと、その中心的な手段としての教科通信を最大限に利用するようになったことで、新境地を開拓。「哲学の授業」「哲学の演習」(未知谷)。教科通信「天タマ」。

 ドイツ語の授業については、教科通信「ユーゲント」。

 2003年09~11月、浜松市積志公民館で哲学講座。「松の木」

 2004年04月~05年03月、地元の自治会長を務める。

 2010年04月~11年03月、地元の組長(事実上は自治会長に近い。隣の自治会と合併したために「組」になっただけ)を務める。「私の自治会長」を参照。

 2010年3月末をもって静岡大学情報学部でのドイツ語非常勤講師の仕事を終える。教科通信「ユーゲント」。

 70歳ころから「学問は一代、思想も一代」と考えるようになり、かつての間違いの根本は「生徒を集めよう」と考えたこと自体にあった、と考えるようになる。

2012年10月、最後の仕事と考える「大論理学」の翻訳に向けて舵を切る。
2012年11月、ヘーゲル「自然哲学」(序論)を訳し、pdf鶏鳴双書として出版。

2013年03月、pdf鶏鳴双書として「ヘーゲルの始原論」を出す。
2013年04月、「大論理学」の翻訳の前に、「小論理学」を見直して出す事とし、見直しを始める。
2013年06月、「関口ドイツ文法」を未知谷から出版。

3、直近の活動報告

 2013年04月から『小論理学』(鶏鳴版)の見直しを始める。同(未知谷版)を出すためである。
 原文のドイツ語を文法的に読むことがしやすくなったのを感ずる。「関口ドイツ文法」を出したためである。
 「ヘーゲルを読んで哲学する」点でも以前よりは前進したと思います。
 2014年7月現在、「現実性」論に入りました。
 2014年9月1日、「本質論」を終えて、暫時小休憩に入る。

 ☆ 「私の研究生活」(2014年10月24日)

 
4、業績一覧

5,社会的活動

 社会的発言は、主として、ブログ「マキペディア」「静岡県庁の真ホームページ」(2010年10月で終える)「浜松市役所の真ホームページ」を中心としている。
→私のブログ体験
私のブログ体験、その2
私のブログ体験(その3)

 社会は官と民から成り立つが、両者は並立しているのではなく、官の運営する枠組みの中で民が活動する、という関係にある。だから、その枠組み(法律で決まっている)と運営(担当者の考えと力量で決まる)を国民は監視し検討すべきであるという考えに基づいて、役所のカウンター・ホームページを作ることを提唱し、実行している。〔その後、「マキペディア」に集中)

2011年02月15日、浜松市長選挙への仮立候補宣言を発表。→「仮立候補関係の記事」
 同、03月25日、正式立候補は出来ず→「報告と御礼」

 (2008年08月01日現在。その後適宜加筆)

 

牧野紀之氏について(一) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/QaRHwV

 

 

 

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今日は憲法記念日

2025年05月03日 | 日記・紀行

 

2025(令和7)年05月03日(土)晴れ。憲法記念日.

今日は憲法記念日。

今日は憲法記念日だそうです。ここ最近になって日本国憲法について触れた私の論考を再録しておきます。

現在の日本国で行われているような、「護憲・改憲論議」の現状では、今日の日本国に見られるような、国家の解体的な現象、政治家や国民の「漂流化」は防げないと思います。


こうした現象はいずれも「現行日本国憲法」の存在が日本の国家、国民に及ぼすところの論理的な帰結だと思います。

 

令和日本国憲法草案3

2025(令和7)年04月24日(木)晴れ。 #「令和日本国憲法草案」について2

  「令和日本国憲法草案」について2   ...

「令和日本国憲法草案」について

【令和日本国憲法草案2】

【令和日本国憲法草案】

拉致被害者の救済と日本の主権国家としての確立

赤尾秀一の思想研究

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

2025年04月30日 | 哲学一般

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義]

§6

Der Gedanken sind dreierlei:
 1) Die  Kategorien (※1)
 2) die  Refle­xionsbestimmungen;  (※2)
 3) die  Begriffe. (※3)
Die Lehre von den beiden erstem macht die  objektive   Logik in der Metaphysik aus; die Lehre von den Begriffen die eigentliche oder  subjektive  Logik. (※4)

第六節

思考には三つ種類がある。すなわち、
1)カテゴリー
2)反省規定
3)概念

である。
はじめの二つは、形而上学における客観的 論理学を構成し、概念の学説が本来の論理学、すなわち主観的 論理学である。

※1
カテゴリー(Kategorien)
カテゴリーとは、物事を認識する際のもっとも基本的な思考の枠組みのこと、もしくは、もっとも根本的な論理形式のことです。思考が世界を理解するための最初の段階で用いられます。
たとえば、「ある」とか「ない」「成る」などは、カテゴリーとして挙げられる典型例です。こうしたカテゴリーは、たんなる人間の観念物ではなく、客観的な事物そのものの論理構造を明らかにするものです。


※2
反省規定(Refle­xionsbestimmungen)
反省規定とは、対象を認識する際に、自らの思考が対象をどのように区別するか、あるいはどのように関係づけるかを行うことです。「反省規定」の段階では、思考は自己と他者を区別したり、あるいは関係づけたり、時計が故障したのはなぜか、彼はなぜ暴力をふるったのか、など因果関係を推理したりします。また、人間についても、男女のそれぞれの同一性やその区別、また親と子の関係についても、愛情や対立といった関係において、「カテゴリー」よりもさらに高次の思考を、この反省規定の段階で行います。

※3
 概念 (Begriffe)

概念とは、ヘーゲル哲学においてもっとも高次の思考形式です。はじめの客観的論理学を構成する1)カテゴリー や 2)反省規定 を統合する形で形成されます。したがって、概念は主観的であると同時に客観的でもあります。それゆえに概念は対象を包括的かつ動的に捉えます。

概念は単なる抽象的な思考の産物ではなく、概念は現実そのものを構成する要素であり、概念は、主観的な思考の枠組みに留まるものではなく、対象そのものの本質的な構造として捉えられます。

たとえば、リンゴや蝶などの動植物などの生命体を例にあげるならば、リンゴは「種子→芽生え→樹木→実→種子」と自らを生成変化させていきます。また「蝶」は「卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵」と、自らを内在的に変化させていきます。こうした「リンゴ」や「蝶」の生成過程は、「概念」の自己運動そのものです。自然界における生命の生成・発展は、「概念」の具体的な実現形態にほかなりません。

※4
このようにヘーゲルの「概念」は、単なる思考の形式ではなく、現実そのものを構成する原理であり、自己展開する運動体でもあります。​

植物や動物の「概念」には、単に「植物とは何か」「動物とは何か」という定義だけではなく、その内部に芽生えから花開き、実を結ぶまでの自己展開や、蝶の一生が、卵 → 幼虫(青虫) → 蛹 → 成虫(蝶) → 卵という変態の過程も、「概念」の発展と対応しています。

​概念にはこうした法則性が含まれており、それを通じて植物や動物が実際に何であるかが現実的に明らかにされるものです。とくに「概念」の自己展開性や事物の現実構成原理としての「概念」の意義について正しく理解することは大切です。

 

ヘーゲル『哲学入門』 第二篇  論理学  第六節 [思考の種類とその意義] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/s9L9fM

 

 

 

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