都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

旧 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所 13号家

2024-09-18 | 板橋区  
旧 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所 13号家
所在地:板橋区 加賀1-16
構造・階数:煉瓦・2
建設年代:明治後期〜大正初期
解体年 :2023(令和5).11
備考  :当初は平屋
Photo 2018.2.23

 前項同様、これも2019年まで愛歯技工専門学校の施設だった建物。

 下記、板橋区の調査によれば、この建物も板橋火薬製造所時代の明治後期から大正初期に建てられたそうで、古地図等によれば、1921(大正10)年時点では「圧延再裁断室」というものだったという。煉瓦造だったので関東大震災で破損したが、その後、再建され、1934(昭和9)年の地図には「上収函仮置場」と記載されているそうだ。資料では、当初は平屋で後年2階を増築したとされているが、2階部分も煉瓦造だったのかどうかは知らず。

 この建物も戦後は愛歯技工士養成所(後の愛歯技工専門学校)の施設として利用されていたが、同校の閉校後、昨年解体された。

板橋区公式ホームページ
 > 史跡陸軍板橋火薬製造所跡保存活用計画・整備基本計画h2.pdf p.138
板橋区のお散歩2023(その8)愛世会愛歯技工専門=跡地 - Anthology -記憶の記録-

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 板橋区  #工場  #倉庫・蔵  #学校 
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旧 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所 140号家

2024-09-15 | 板橋区  
旧 東京第二陸軍造兵廠 板橋製造所 140号家
所在地:板橋区 加賀1-16
構造・階数:煉瓦・1
建設年代:明治後期〜大正初期
解体年 :2023(令和5).11
Photo 2013.6.1

 2019年まで愛歯技工専門学校の施設だった建物。

 下記、板橋区の調査によれば、板橋火薬製造所時代の明治後期から大正初期に建てられたそうで、古地図等によれば、1921(大正10)年時点では「第一気鑵室」というものだったという。煉瓦造だったので関東大震災で破損したが、その後、再建され、1934(昭和9)年の地図には「試験室」と記載されているという。

 戦後はここに移転してきた愛歯技工士養成所(後の愛歯技工専門学校)の施設として利用されていた。愛歯技工専門学校は、1925(大正14)に設立された私立としては日本初の歯科技工士養成学校。リクリエーション施設等として利用されていたようだが、同校は2019(平成31)に閉校。昨年、建物も解体された。

 一帯には他にもいくつか同時期の建物が残っていて、その多くが煉瓦造平屋。この建物は外壁がモルタルで覆われていて、一見すると煉瓦造かRC造なのか判らなかったが、調査資料によればやはり煉瓦造だったそうだ。

 下記にもあるとおり、加賀公園と西側の旧野口研究所跡の一部、石神井川北側の旧理化学研究所板橋分室のエリアは史跡公園として整備される予定になっている。ただ、愛歯技工専門学校の跡地はそのエリアにはならず、建物も調査はされたが消失することとなった。

板橋区公式ホームページ
 > 史跡陸軍板橋火薬製造所跡保存活用計画・整備基本計画h2.pdf
板橋区のお散歩2023(その8)愛世会愛歯技工専門=跡地 - Anthology -記憶の記録-

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旧見付学校

2023-11-08 | 静岡県  
旧見付学校
所在地:磐田市見付2452
建設年:1875(明治8)
構造 :木造
階数 :3+塔屋2
Photo 2000.1.1

 現存最古の洋風小学校建築。当初は2階建+2層小塔だったが、その後、1883(明治16)年に屋根裏を改造して3階にし、塔を加えて5階とされたという。1922(大正11)年まで小学校として使用された。
 写真右の鳥居は、隣接する淡海国王神社のもの

 磐田市の市街地の北の方に旧見付学校はある。木造3階+塔屋2階の擬洋風学校建築で、1992年までは市の郷土資料館としても利用されていた。

 玄関脇の柱などに、洋館を意識した柱頭飾りがあり、また、白漆喰塗りの壁のコーナー部は灰色に塗り分け、コーナーストーン状の意匠を施している。本当の洋館は石造でコーナーストーンを積んでいるが、ここでは漆喰の色でそれを造ってしまっている。構造を別にして外観だけを模倣した、いかにも的なデザインだが、明治初期の事情を考えると、洋館風であることが重要だったわけで、木造漆喰で出来ていても在来建築と違う外観をまとっていることが大切だったのだろうと思われる。

旧見付学校 附 磐田文庫 文化遺産オンライン
旧見付学校|カテゴリーから探す|ふじのくに文化資源データベース
旧見付学校附磐田文庫(旧見付学校)|磐田市公式ウェブサイト
磐田市観光協会 / 旧見付学校
旧見付学校 - Wikipedia
静岡の建築・土木構築物 
#古い建物 静岡県  #学校  #県指定文化財  #国史跡 
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興津家政専修学校(旧 伏見天狗堂)

2023-07-18 | 静岡県  
興津家政専修学校(旧 伏見天狗堂)
所在地  :静岡市清水区興津中町
構造・階数:木・2F
建設年  :1925頃(昭和初)
解体年  :2004(平成16)
Photo 1995.5.7

 旧東海道興津宿の街並みの中に建っていた建物。洋風なのは正面のファサードまわりのみで、いわゆる看板建築になっている。何故か建物前に塀が巡らされてしまっており、1階部分の様子を見ることはできなかった。

 2005年時点で、既に解体されていたようだ。下記サイトでは2004(平成16)に解体されたと記されている。同サイトの写真は斜め方向から撮られたもので、建物が平入りの木造2階建てであることが分かる。

流れ星コレクション失われた名建築(中部1)旧伏見天狗堂

静岡の建築・土木構築物 
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バンビ保育園/旧 松田医院

2023-04-06 | 青森県  
バンビ保育園/旧 松田医院
所在地:弘前市 鍛治町9
構造・階数:木・2
解体年代:2003〜08(平成15〜20)
Photo 1998.8.25

 洋風の木造小規模建物を使った保育園。奥行きがあまりない小さな建物なのに、入口がしっかりしているのがやや奇妙で不思議。1993年の住宅地図では、フロスト英会話センターと記されている。もしかするとキリスト教系の組織とかが、英会話学校や保育園を運営していたのかもしれない。

 周辺は居酒屋やバー・スナックなどが多く建ち並ぶ弘前市随一の歓楽街。界隈が賑やかになる前からあった建物なのかもしれないが、夜になると賑やかになる街なかに、洋風建物の保育園がポツンとあるのは唐突な感じで、昼間でも少々違和感があった。

 弘前へはこの後訪れていない。この建物を見たのもこれいちどだけ。2003年の住宅地図には掲載されているが、2008年には既に消失している。


2023.4.28 追記
 1960(昭和35)発行の「弘前商工名鑑」で松田産婦人科医院が鍛冶町9に所在していると記されている。また、1935(昭和10)発行の「弘前市案内図」でもここが松田医院と記されている。この後方の家も松田邸だったので、この建物はもともと松田医院として建てられたもののようだ。

 ※『市制施行七十周年記念 弘前商工名鑑』弘前商工会議所 編・発行、1960
  『弘前市案内圖』1935、「ひろさき懐かし地図」として復刻
日本国内の建物や街並み
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愛隣保育園・東京愛隣教会

2022-09-06 | 台東区  
愛隣保育園・東京愛隣教会
所在地:台東区 根岸5-15-1
構造・階数:RC・3(4F増築?)
建設年:1924(大正13)?
解体年:2012〜13(平成24〜25)
Photo 2010.12.4

 『日本近代建築総覧』では3階と記されているが、訪れてみたら4階建てだった。デザイン的には1〜3階と4階がほぼ同じだが、窓のサッシ割などが少し違う様子なので、4階は後年の増築だったのかもしれない。

 関東大震災後に建てられた建物らしいが、装飾がほぼないモダンな建物で、当時としては清新かつ斬新に見えただろうなと思う。大きく明るい窓はいま見ても清々しい。避難階段の増設などは仕方ないが、敷地外の電柱や電線がなければもっときれいに見えただろうにと思われる。

東京愛隣教会/根岸5丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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中央区立阪本小学校

2022-04-03 | 中央区  
中央区立阪本小学校
所在地:中央区 日本橋兜町 15-18
構造・階数:RC・3
建設年:1928(昭和3)
解体年:2017(平成29)
Photo 2016.10.18

 関東大震災後に復興小学校として建てられた小学校のひとつ。かつては中央区内の多くの小学校が震災復興小学校建築だったが、統合や老朽化などを理由とした建て替えで次第に減ってしまい、今では数ヶ所のみになっている。

 界隈はかつては坂本町だったそうで、震災後の1933年に兜町になった。隣接の公園は坂本町公園で、旧町名を残している。一方、明治初期に開校した阪本小学校はなぜかこざと偏の「阪本」を用いている。町名と漢字を違えた理由は分からないそうで、現在に至るまで公園と学校では文字が異なる状態が続いている。

 復興小学校の多くはモダニズムか表現派あたりのデザインを用いている。阪本小学校は基本的にモダニズムだったようで、窓が大きく明るい印象だ。アーチやオーダー柱などの装飾はほぼない。外壁面の柱と窓まわりの壁との間に段が付けられているのが目立つ程度だ。ちょっとだけアールデコ、なんだろうか。

 後の時代になって電気系の配線・配管、エアコンの室外機やダクトが取り付けられたりしたため、全体的に雑然とした感じになってしまっていたのは残念。

 震災の経験を踏まえ、復興小学校は災害時に一体的に利用することを想定して、小公園に隣接して建てられている。阪本小も上述の坂本町公園に隣接している。

 阪本小学校は、2017(平成29)年9月に校舎建て替えのため、坂本町公園に建てられた仮設校舎に移転。
 新校舎は2020(令和2)年に竣工した。6階建て(一部7階)地下1階で、小学校の教室、職員室などと体育館、屋上校庭、認定こども園が入る複合建物だそうだ。体育館と一体化していて屋上に校庭があるところなどはいかにも都心の小学校らしいが、個人的にはどうも馴染めない・・。

東京都中央区立阪本小学校(昭和モダン建築探訪) : 関根要太郎研究室@はこだて
中央区立阪本小学校/日本橋兜町 - ぼくの近代建築コレクション
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文化学院

2022-02-24 | 千代田区 
文化学院
所在地:千代田区 神田駿河台2-5
構造・階数:RC・4
建設年:1937(昭和12)
解体年:2006(平成18)
Photo 1988.11.1

 御茶の水近辺を知る人の多くが記憶している建物。文化学院といえば、やはりこの玄関アーチがシンボルだった。

 文化学院については、解体中の2006年8月11日にも採り上げているので、その際の文を再編、加筆して以下に掲載する。

 表現派的な玄関アーチはデザイン上の大きな特色だが、実はその他には装飾的なものはあまりない。表通り側では3階にバルコニーがあるのがちょっと目立つ程度で、これとて夏場になれば街路樹の緑に隠れて気づく人も少ない。確かにクラシックなカレッジの雰囲気を持つ建物なのだが、建築デザインとしては、一部に放物線も使ったアーチ玄関が目立つこと以外にはさしたる特徴が無いように見える。


 Photo 1988.11.1

 壁面には一面に蔦が絡まっている。この年期の入り具合が存在感に繋がっていた。


 Photo 2005.3.25

 薄暗いアーチの途中に建物(学校の事務所など)への入口があるのも印象的。


 Photo 2002.2.24

 アーチを抜けていくと、右側にも上階への階段がある。そして奥には中庭が見えている。


 Photo 1995.7.22

 通り沿いの校舎の下を潜り抜けると四角い中庭に出る。周囲の校舎から声をかければ話ができるぐらいの手頃なサイズの中庭は、学生の溜まり場であり、小さいながらもキャンパスというものを感じさせる重要な空間だったに違いない。周辺の建物が次第に大きくなっていく中で、ボリュームとしては埋もれがちだったが、それにも関わらず一定の存在感を保ち続けてきた。個性的な卒業生を多く輩出したという伝統から来る存在感も勿論あるのだが、そういう個性を育んだ建物、空間だったのだろう。

 通り沿いの校舎は、北側には大きなガラス窓のある開口部が設けられていた。ここはデッサン室とかだったのだろうか。クラシックな印象のある建物だったが、このあたりは近代的でモダンなデザインだった。

文化学院 - Wikipedia
美術と文芸の専門学校|文化学院(2018年閉校)
与謝野晶子が教えた文化学院が閉校 有島武郎らも教壇に:朝日新聞デジタル

文化学院/神田駿河台2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
文化学院 取り壊し決定 - Anthology -記憶の記録-
続続・文化学院の由緒ある建物が消えてしまう : 本の人生 本との人生 末端古本屋雑記帳

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東京回教徒学校(トルコ共和国大使館文化部)

2022-01-15 | 渋谷区  
東京回教徒学校(トルコ共和国大使館文化部)
所在地:渋谷区 大山町1-19
構造・階数:木・2
建設年:1938(昭和13)
解体年:2016〜17(平成28〜29)
Photo 2013.10.28

 東京ジャーミィのすぐ隣にあった木造の洋風建物。
 『日本近代建築総覧』では、「東京回教徒学校」という建物がこの場所にあることになっていたが、2000年代の住宅地図では「トルコ共和国大使館文化部」となっていて、2つが同一の建物だったのかどうか確証はない。ただ現地で該当しそうな建物はこれだけだった。

 木造2階、瓦屋根で、1階は洋風の下見板張り。2階は白く塗られていた。
 洋風の持ち送りで支えられた庇も付いていたが、大きな窓が並ぶ姿は木造校舎のようで、大使館の文化部というよりやはり回教徒学校だったのだろうなと思わせる建物だった。

 妻側2階の窓の上にはアーチが描かれていて、洋風のイメージを創っていた。

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文京区立第六中学校

2021-11-24 | 文京区  
文京区立第六中学校
所在地:文京区 向丘1-2
構造・階数:RC・3
建設年:1933(昭和8)
解体年:2013(平成25)
備考 :「追分尋常小学校」及び「本郷高等小学校」として完成
Photo 2008.3.28

 建物の写真は中山道の側から撮ったこの一枚だけ。本郷通りの側からなら通り沿いの校舎がしっかり撮れたはずだが、モダニズムの装飾の無い建物にあまり食指が動かなかったのかもしれない。機会があったらまたそのうちに、などと考えていたらいつのまにか時間が経ち建て替えられてしまった。

 この建物の経緯はなんだかややこしい。1933年に「追分尋常小学校」と「本郷高等小学校」の二つを擁する校舎として造られたそうだが、現在は一つの学校で、今に至る経緯がいまいちわかりにくい。そこで、現地にあるパネルや現在の区立第六中学校のサイトなどの情報を整理すると、以下のようになった。

本郷高等小学校〜文京区立第六中学校
1908(明治41) 本郷尋常小学校(現文京総合体育館の場所(本郷7-1))の一部を仮校舎として開校。
1910(明治43) 現在地(追分尋常小学校の隣接地)に木造3階建て校舎を新築して湯島から移転。
1933(昭和8) 「追分尋常小学校」と「本郷高等小学校」2校併置の鉄筋校舎落成。
1941(昭和16) 「東京市本郷第一国民学校(高等)」となる。
1947(昭和22) 3月、学制改革により廃校。4月、誠之小学校内に「文京区立第六中学校」が開設される。
1948(昭和23) 生徒増のため指ヶ谷分校を設置
1952(昭和27) 9月、本校が東京学芸大学付属追分小学校の一部に移転、誠之分校、指ヶ谷分校の3校体制となる
1955(昭和30) 汐見分校設置、4校体制となる
1960(昭和35) 元町分校設置(汐見分校解消)
1961(昭和36) 追分校舎全面使用となり、分校が全て解消する。

 区立第六中学校は元を辿ると本郷高等小学校に繋がるようだが、高等小学校が廃校となった1947年から、第六中学校が利用し始める1952年までの5年間は、その流れの校舎としては使われていなかったようだ。
 一方の追分尋常小学校はどうだったのかというと。

追分尋常小学校
1904(明治37) 現在地で開校
1905(明治38) 高等科を設置
1908(明治41) 学令改制により高等科を分離
1933(昭和8) 「追分尋常小学校」と「本郷高等小学校」2校併置の鉄筋校舎落成。
1941(昭和16) 国民学校令により追分国民学校となる。
1944(昭和19) 戦時下の男性教員の不足を補うために東京第二師範女子部が創設され、校舎が女子部の校舎として提供された。
1945(昭和20) 4月、追分国民学校が国に移管され、東京第二師範女子部附属国民学校となり、尋常科と高等科が併設された。
1947(昭和22) 尋常科が東京第二師範附属小学校となる。高等科は附属追分中学校となる。
1951(昭和26) 東京学芸大学附属追分小学校と、同中学校に改名。
1954(昭和29) 東京学芸大学附属追分中学校が附属竹早中学校に合併移転。
1961(昭和36) 東京学芸大学附属追分小学校が附属豊島校と共に附属小金井小学校に合併移設され閉校。文京区立第六中学校が当地の校舎の全面使用を開始。

 こちらは1904(明治37)年から1961(昭和36)年まで、約半世紀ここにあったが現在は無い。
 内務省作成の1906〜09(明治39〜42)の地図には学校を示す「文」マークが描かれている。この時点では本郷高等小学校は移転して来ていないので、これは追分尋常小学校を示しているようだ。
 また、1916〜21(大正5〜10)の地図にはコの字型の校舎が二つ描かれている。この頃は追分尋常小学校と本郷高等小学校がそれぞれ木造校舎を用いていたのだろう。そして震災後に両方を合わせたRC造の校舎が造られた。更に戦後、この併存状況が徐々に整理されて最終的に区立第六中学校のみになった、ということのようだ。

学校の沿革 - 文京区立第六中学校
文京区立第六中学校/向丘1丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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