千駄木へはいつもの路地から入ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/5f/e0d820b9657e569bfed4a7d5202eef27.jpg)
「満足稲荷神社」
民家の脇に石碑というか表札があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/30/d85307083ec14dc85e4245c6db223f69.jpg)
案内板を読みます。
「この稲荷神社は通称『満足稲荷』とか『東(あずま)稲荷』とか呼ばれています。祭神は稲を司る神、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)です。江戸時代、当地は上野寛永寺領内、輪王寺の御薪林で東山と呼ばれていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/01/71fdd13d81458690a1afdea64e73399b.jpg)
明和4(1767)年正月、御薪林の住民が京都伏見稲荷本宮より、宮司羽倉摂津守信郷から御神体を授かり、当地に勧進鎮座したのがこの社の興りです。
満足稲荷と呼ばれたのは、豊臣秀吉が文録年間(18921~697年)、伏見桃山時代守護神として伏見稲荷を鎮座してから幸運に恵まれ『満足、満足』と呼称した故事によります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/71/9cf6c189d4d3bfa3ed695fd94beaef6e.jpg)
たび重なる戦災、自然災害で社殿の破損が進んだため、町内の崇敬者により、昭和27(1952)年今日のような社殿が造営復興されました。神社には、高村光雲作の神輿や江戸期の絵馬が保存され、境内も江戸の面影を今日に伝えています。
本殿からの景色です。
住宅に囲まれ、子供の遊具がある小さな境内です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/ef/ab20b21346a91762b2b14105bb313336.jpg)
先ず、輪王寺の領地が広かったとは聞いていましたが、ここまでとは思っていませんでした。
次に、境内に「江戸の面影」は感じられません。
そして、本殿を覗きましたが、神輿や絵馬は見当たりませんでした。
そんな説明を読んだので、高村光雲の旧宅へ行きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/29/a29ca5cae245c4c640b1dbc579cba6ce.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/c7/56fd3ad8a2e05ba632a362e06273b797.jpg)
門内を覗きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/ce/d98b33bdcc8451252c91e96ba8b37dba.jpg)
「高村光雲・岡周(とよちか)遺宅
高村光雲(1852~1934年)は、浅草の生まれで旧姓中嶋 仏師高村東雲のもとで木彫を学び、師に認められてその姓を継ぎました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/25/e09c47cf440f7579d254a2523a7e3d65.jpg)
明治23年、東京美術学校(現芸大)の創立と同時に、教授 帝室技芸員となり、以後30余年にわたり後進を指導しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/ad/c94514610b4e1980cb1fd2469f7d804f.jpg)
明治木彫会の中心として、伝統的木彫の正統を伝えました。
代表作に「老猿」「西郷隆盛像」や「楠公像」などがあります。
詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)は光雲の長男で、大正3年長沼智恵子と結婚と同時に、ここから近くの千駄木5-22-8へ転居しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/ae/0b43c11318d7ffd0b38fa754eb9d4613.jpg)
鋳金家の高村岡周(1890~1972年)は、光雲の三男で家督を継ぎました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/3d/3750ff8985472ea3f5a0dfe2d62f1ba2.jpg)
昭和8年、東京美術学校教授になり、鋳金家協会を作りその会長になりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/c3/4582e3d19ae7a948f88c0fe1671d3242.jpg)
「島村詩碑」や「鼎による花入」などの作品があり、日本芸術院会員や「人間国宝」に推されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/8c/effc0820e8f9da5a9093e9a9eb987894.jpg)
また、昭和39年新年御歌会始に召人となりました。
光雲の遺宅跡に昭和33年住宅を新築し、昭和47年に没しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/0e/126e65debbe660372b6af6e1e52e5bbc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/a6/a647958af3e48839be195ed4592acf79.jpg)
柔らかな西日の午後でした。
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「満足稲荷神社」
民家の脇に石碑というか表札があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/30/d85307083ec14dc85e4245c6db223f69.jpg)
案内板を読みます。
「この稲荷神社は通称『満足稲荷』とか『東(あずま)稲荷』とか呼ばれています。祭神は稲を司る神、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)です。江戸時代、当地は上野寛永寺領内、輪王寺の御薪林で東山と呼ばれていました。
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明和4(1767)年正月、御薪林の住民が京都伏見稲荷本宮より、宮司羽倉摂津守信郷から御神体を授かり、当地に勧進鎮座したのがこの社の興りです。
満足稲荷と呼ばれたのは、豊臣秀吉が文録年間(18921~697年)、伏見桃山時代守護神として伏見稲荷を鎮座してから幸運に恵まれ『満足、満足』と呼称した故事によります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/71/9cf6c189d4d3bfa3ed695fd94beaef6e.jpg)
たび重なる戦災、自然災害で社殿の破損が進んだため、町内の崇敬者により、昭和27(1952)年今日のような社殿が造営復興されました。神社には、高村光雲作の神輿や江戸期の絵馬が保存され、境内も江戸の面影を今日に伝えています。
本殿からの景色です。
住宅に囲まれ、子供の遊具がある小さな境内です。
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先ず、輪王寺の領地が広かったとは聞いていましたが、ここまでとは思っていませんでした。
次に、境内に「江戸の面影」は感じられません。
そして、本殿を覗きましたが、神輿や絵馬は見当たりませんでした。
そんな説明を読んだので、高村光雲の旧宅へ行きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/29/a29ca5cae245c4c640b1dbc579cba6ce.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/c7/56fd3ad8a2e05ba632a362e06273b797.jpg)
門内を覗きます。
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「高村光雲・岡周(とよちか)遺宅
高村光雲(1852~1934年)は、浅草の生まれで旧姓中嶋 仏師高村東雲のもとで木彫を学び、師に認められてその姓を継ぎました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/25/e09c47cf440f7579d254a2523a7e3d65.jpg)
明治23年、東京美術学校(現芸大)の創立と同時に、教授 帝室技芸員となり、以後30余年にわたり後進を指導しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/ad/c94514610b4e1980cb1fd2469f7d804f.jpg)
明治木彫会の中心として、伝統的木彫の正統を伝えました。
代表作に「老猿」「西郷隆盛像」や「楠公像」などがあります。
詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)は光雲の長男で、大正3年長沼智恵子と結婚と同時に、ここから近くの千駄木5-22-8へ転居しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/ae/0b43c11318d7ffd0b38fa754eb9d4613.jpg)
鋳金家の高村岡周(1890~1972年)は、光雲の三男で家督を継ぎました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/3d/3750ff8985472ea3f5a0dfe2d62f1ba2.jpg)
昭和8年、東京美術学校教授になり、鋳金家協会を作りその会長になりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/c3/4582e3d19ae7a948f88c0fe1671d3242.jpg)
「島村詩碑」や「鼎による花入」などの作品があり、日本芸術院会員や「人間国宝」に推されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/8c/effc0820e8f9da5a9093e9a9eb987894.jpg)
また、昭和39年新年御歌会始に召人となりました。
光雲の遺宅跡に昭和33年住宅を新築し、昭和47年に没しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/0e/126e65debbe660372b6af6e1e52e5bbc.jpg)
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柔らかな西日の午後でした。