荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

約50年ぶりのキャンパスから学生アパートへ、

2023年12月07日 | 散文

喫茶店脇の塀の向こうはキャンパスです。

 

随分綺麗になりました。

 

1・2年生時に主に使った教室の建物です。ここの小さな掲示板に、修了者(卒業生)名簿が、小さく、学籍番号で掲示された日の事を覚えています。よく泊まりに行った大原君の学生アパートから、そのアパートに住んで居た、めちゃめちゃギターが上手かった田口くんと一緒に見ました。大原君は2年時に留年していました。・・・建物は昔のままですが、教室の中が綺麗になって、照明が明るくなっていました。

 

見上げるビルは、3年生の時に主に通った教室です。

 

 

4年生時に通った研究室棟はあの場所でした。綺麗に大きく建て変わっています。歩いている学生が皆んなお洒落です。私の入学当時の4年生以上(大学院生とか留年生とか)の多くは、一張羅のブレザーをヨレヨレで着ていました。皆んな貧乏でした。私の頃から身の回りを気にするようになったように思います。

 

通学路を戻ります。当時在った店は見当たりません。

 

角を入ります。このうどん屋でしょうか?店名が違うようだし出入り口も左右違いますが、立地的に多分ここです。時々昼食を食べに来ました。

関西では、「きつね」と言えばお揚げが入ったうどんで、「たぬき」と言えばお揚げが入った蕎麦です。東京で言うかき揚げが入った「たぬき」は、関西では「ハイカラ」でした。「ハイカラ蕎麦」もありました。多分今でもそうだと思います。

・・・さて、通学路を1つ入ったここが銭湯だったように思います。

銭湯の前に、いつもたこ焼き屋の屋台が出ていました。たこ焼きだけで晩御飯を済ませたりしました。

この路地を行きます。あそこです。

 

ここです。大原君が住んでいた学生アパートです。彼とは気が合って、よくここに泊まって、さっきの銭湯に行きました。・・・2、3泊したある日の夕方、気になって田舎に電話したら祖母の死を知らされて、慌てて夜行で葬儀に帰省したことがありました。夜中に尾道に着いて、港の待合室で夜を明かしました。母が何度も住んでいたアパート「若岩荘」に電話したけど不在で、諦めていたそうです。あの時、「虫の知らせ」ってあるのだと思いました。

・・・玄関をよく見ると、カラオケスナックの貼り紙です?

1・2階の左右に合計20室くらいの部屋が有りました。毎日どこかの部屋で麻雀をしていました。大原君の部屋は1階の真ん中でした。あの辺りの日が差さない部屋です。いつも電気を点けていました。

 

駅に向かいます。当時も交番が在ったのでしょうか?お世話にならなかったせいか記憶にありません。

 

地下道を行ってみます。これも無かったように思います。未だに高架化していない田舎駅です。

 

ホームが広くなったように思います。通路と電車に乗る整列場所が描かれています。こんなにする程混雑していませんでした。学部学科の増設に伴って学生が増えたのか、真面目に授業を受ける学生が多くなったのでしょうか?それとも、マナーが悪くなった?

・・・次の、見ておきたい場所に移動します。


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