荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

漱石山房に行き当たる。

2018年04月20日 | 散文
夏目坂から神楽坂へ向かいます。
大通りを走ってもつまらないので、例によって路地を行きます。


この道にこんな案内板がありました。


早稲田小学校前の路地です。


「明治の文豪、夏目漱石が晩年を過ごした家、通称漱石山房がこの地にあった。」との案内に行き当たりました。


ここが記念館らしいです。








隣には「漱石公園」が在りました。


漱石の銅像があります。


掲示板もあります。


「漱石の散歩道 明治の文豪夏目漱石は、現在の喜久井町で生まれて早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には、早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。漱石は、ときには一人で、ときには弟子達とこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら、歩いてみてはいかがですか?」


「漱石山房の記憶 夏目漱石は、明治40年9月、この地に引っ越してきました。そして大正5年12月9日、『明暗』執筆中に49歳で亡くなるまで、多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を『漱石山房』といいます。漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。これが『木曜会』の始まりです。『木曜会』は、漱石を囲む文化サロンとして、若い文学者の集う場となり、漱石没後の彼らの心のよりどころとなりました。」


正面の施設には投句箱が置かれています。


公園は記念館の裏を一周しています。


それにしても、今日の行き当たりばったりは凄い!
今日は好い散策をしました。


人生と散策は、道草しないとつまらない。
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夏目漱石の周辺を訪ねて。

2018年04月20日 | 散文
新緑が萌える雑司ヶ谷墓地です。






ここに夏目漱石が眠っています。
ドウダンツツジの白花が真っ盛りです。




漱石のお墓と別れて夏目坂通りに来ました。


地下鉄早稲田駅前です。


交差点の向こうには龍泉院の朱鳥居が見える場所です。


坂下に「夏目漱石誕生の地」の石碑が在りました。
呆気ないくらい簡単に行き当たりました。


周辺は学生街らしい飲食店が並んでいます。




彼と両親の写真もあります。


「夏目漱石(本名金之助)は、慶応3年(1867)1月5日に、夏目小兵衛直克と千秋夫妻の5男3女の末っ子としてこの地に生まれた。夏目家は、牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、喜久井町の名は夏目家の家紋『細井筒に菊』に因んで名づけられ、夏目坂も夏目家に因んで命名されたという。


漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家に戻り、再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子になった。9歳のとき塩原姓のまま実家に戻り、21歳のとき夏目家に復籍している。
この地での幼少期のことは、大正4年に書かれた随筆『硝子戸の中』に詳しく記されている。
この記念碑は昭和41年(1966)に漱石誕生100年を記念して新宿区が建立したもので、題字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。 平成29年3月31日」

最近の物なのですね。

石碑の裏にも碑があります。
「私の家は綺麗に取り壊されて、其あとに新しい下宿屋が建てられつつあった。・・中略・・3本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど奇形児の様になっていたが、何処か見覚へのあるやうな心持ちを私には起こさせた。

昔し『影参差 松三本の 月夜かな』と詠ったのは、或いは此松の事ではなかったらうかと考えつつ、私はまた家に帰った。『硝子の中』 夏目漱石生誕150周年 云々」

周囲は初夏の光に包まれた坂下です。


漱石の句に触発されて(漱石だけでなく、つつじまつりを詠んだ根津小学校の4年生にも)、おそらく中学校卒業以来初めてです。一句詠みました。
「自転車(チャリ)下る 燕の如し 夏目坂」


才能無し・・・。
コメント (2)
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