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荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

桜井海岸のお台場

2017年02月19日 | 散文
今日の海は、春を感じさせる海です。


ひねもすのたりの風情です。


この長閑な海岸を少し行くと、道端に小さな薮が在ります。
薮を覗くと、こんもりしています。


ここが「お台場跡」です。
3基築造して、現存している真ん中の1基です。

説明板を読みます。
よくある説明板と違って、読みやすい文章です。
「アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の黒船を率いて、浦賀に来航したのは寛永6年(1853)6月3日である。鎖国日本は泰平の眠りから覚めた。松山藩では、海岸防備の強化を図り、松山藩の外港としての要地である三津浜港に台場を築造した。また松山藩預かり天領の越智郡桜井海岸にも台場を築造した。これらの工事は、安政2年(1855)4月より始まり、6月に完成している。


さらに、野間郡方面の海防を強化するため、菊間浜村と小部村浜手の2ヶ所に台場を築造する。
今治藩では、城下今治の海岸防衛のため、文久3年(1863)総社川裾・城下浜・天保山脇・浅川裾の4ヶ所にお台場を築造した。
この築造にあたっては、藩士・城下の町人・近郊の農民など約1500人の出役が命じられ、土俵12000俵が用意された。工事は3月から始まり年内に落成する。


松山藩・今治藩とも大砲鋳造のため、ご家中はじめ領内の銅、錫類の供出や各寺院の梵鐘などの徴発の触書を出している。
桜井のお台場の設計については不明であるが、桜井町役場の記録によると、下図の通りである。」


慌てふためいた様子が伺えます。
なお、桜井小学校で習った話では、梵鐘を大砲に見せ掛けて据えたと聞いています。
その話が本当なら、どうせこんな田舎に黒船が来るわけはない、と踏んで梵鐘を鋳潰さなかったしたたかさがあります。
一方で、徳川一門の松山・今治藩がそんな事をするぐらい、幕府の権威は失墜していたと言う事ですね。
勉強になりました。
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満潮の椀舟の港

2017年02月19日 | 散文
河口から港を見ています。
今日は満潮のタイミングで来てみました。


防波堤が水没しています。




満潮の港です。




古い方の防波堤はもっと沈んでいます。


満潮時には役に立たない防波堤です。


この木が印象的です。


木の根本には椀舟の港を伝える石碑があります。


「伝え聞く椀舟河岸やドンコ釣」


木を見上げます。
この空の青は、澄みきった冬の色です。


昔椀舟が出港して行った海も冬の青です。


遠く四国山脈に雪が見えます。
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