荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

桜井海岸

2015年11月07日 | 散文
前回の帰省時に来ましたが、確認したい事があって再度ここに来ました。
この石碑にある「椀船の港」についてです。


石碑の前にはこの小さな港しかありません。


この防波堤の用を成していないような石積みが、その港なのでしょうか?

だとしたら小さな港です。
漆器の船で賑わった面影はありません。

子供の頃「浜桜井」と呼ばれていた地域に来ています。

細い道が入り組んだ古い街ですが、パッと見半分の家が空き家です。
通行人にも逢いません。

子供の頃は地区一番の繁華街で、大変繁盛していた町です。

人が多くて活気があった町です。

この店も閉まっています。


正面に桜井漁協の建物が見えます。
隣りにこの界隈唯一の飲食店があります。

昔は飲食店も沢山あった街です。

漁協の向こうは港です。
防波堤の向こうに平地島が見えます。

昔からの光景ですが、いつのまにか堤防が新しく大きくなっています。

思ったより漁船が多く停泊しています。

現在住んでいる家全部が漁師みたいに感じます。

ひとりだけ黙々と仕事をしている人が居ました。

この時間は休憩中なのでしょうか?他に誰もいません。

・・・海岸近くのお稲荷さんです。

誰も居ませんが、お祭りの装いです。


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野々瀬古墳群を見学する

2015年11月07日 | 散文
生家の反対側から見る笠松山です。

この山は数年前に火災に遭って、こちら側がほぼ全焼しました。
その影響がまだ生々しく残っています。

その笠松山のふもとに、野々瀬古墳群があります。
今日までその存在を知りませんでした。

既報の「水大師さん」に行く途中の道に案内板があったので知りました。

「1号墳」別名七間塚。

ここの古墳群で一番大きなものです。

ミカン畑の中にあって、案内板が立っています。
「この古墳群は県下最大のもので、昭和初期の記録によると百基を超していたが現在は跡と共に四六基となり、なかでもこの七間塚は大規模なもので群を代表するものであろう。これらの古墳は横穴式円墳で、建立の年代は六世紀の終わりから七世紀半ばまでのものと考えられる。埋葬された人の数は多く、身分階級の範囲は広いものと推定される。」

へえ!?古墳とは身分の高い人が葬られているものだと思っていました。

入口を覗いてみました。

子供の頃の私だったら、中に入って遊んだことでしょう。
防空壕跡でよく遊んだ事を思い出しました。

「2号墳」
やはりミカン畑の中に、3号墳と並んであります。


「3号墳」

<案内板の記載内容>
「野々瀬古墳群は、瀬戸内海国立公園笠松山の麓に点在する県下最大規模の古墳群と言われており、確認できる古墳はいずれも円墳で、6世紀から7世紀前半に造られたものです。」

2号墳、3号墳から笠松山を見ます。
山麓なので、頂上しか見えません。

ミカン畑は奥手種でしょうか、実が青いです。

「4号墳、5号墳」
散々探しました。
看板は立っていませんが、前載の案内板から、ここの小高い土盛りがそうだと思います。
破壊されて、放置されたようです。

今はお寺の敷地内にあります。
左が4号墳で右が5号墳だと思います。

「7号墳」
笠松山に向かう(水大師さんへも向かう)道路沿いにあります。

<案内板の記載内容>
「昭和初期には松林の中に100基以上の古墳が確認されていましたが、戦後食糧増産の為に林を切り開き開墾されました。」

「8号墳」
7号墳の隣にあります。

<案内板の記載内容>
「その為多くの古墳が破壊され、現在、墳丘や石室が残っているものは20基程度です。」

「9号墳」
看板は立っていませんが、前載の案内板の地図から、ここがそうだと思います。
3基ならんでいますが、ここは殆ど原形を留めていません。

手前の黒い土の部分は、イノシシがみみずを探して、掘り返した跡でしょう。
郷里はイノシシの被害が甚大です。

「12号墳」別名五間塚古墳。

<案内板の記載内容>
「野々瀬古墳群の中では、七間塚古墳に次いで2番目に大きく、地元では王塚とも呼ばれています。(中略)平成元年にトレンチ調査を行った結果、首飾り(切子、玉、管玉、土玉)、耳管(耳飾り)などの装飾類や、鉄製品(鉄鏃、刀子、鉄鎌など)といった副葬品が出土しています。また周辺には陪塚と思われる石棺塚が新たに確認され、人骨などが出土しています。構築された年代は、石室構造や石棺遺物から7世紀前半と考えられています。」

「陪塚古墳」

石棺が露出しています。

「13号墳」
陪塚古墳の道路を隔てた向かい側の林の中にあります。

10号墳、11号墳は案内板にも記載がありません。
破壊されたのでしょう。

見学している間誰も通らない寂しい場所です。
ただ、色付いた早生ミカンが美味しそうです。

今は誰も欲しがらないような土地ですが、当時は古墳を破壊して畑にせざるを得なかったのですね。
自分たちの先祖なのに・・・。
生きて行くってのは、辛いですね。


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