今日は近所の雪解け水が流れる月寒川を見て、カフェラテ飲んで帰宅した。
帰って、デンオンのドヴォルザーク・コレクションを聞いて、
鈴木禅師の「禅八講」の本文を読む。
固有名詞は知らない人物ばかりだが、訳文が判り易い。
「禅は不可得という仕方で、自己に目覚めさせる」という
題が、「禅八講」の連続講義の頭についている。
不可得というのは聞き慣れない言葉だが、要は
論理法則を越えたところで、という意味である。
禅というのは、論理法則を越えたところで、
本来の自己に目覚めさせることだ、というのである。
論理法則を越えたところで、というのが西洋人や現代人には
分かりにくいかも知れないが、日本に住む人には
納得の行く話だと思われる。
思慮分別を離れたところに湧き水のような心の本体が働いている。
それは仏性と別物ではないが、言い当てようとすると逃れてしまう。
鈴木禅師の最終講義がこれだと言うことで、よほどの要諦だと察せられる。
三月に町を流れるせせらぎは心の綾と無縁ではない
帰って、デンオンのドヴォルザーク・コレクションを聞いて、
鈴木禅師の「禅八講」の本文を読む。
固有名詞は知らない人物ばかりだが、訳文が判り易い。
「禅は不可得という仕方で、自己に目覚めさせる」という
題が、「禅八講」の連続講義の頭についている。
不可得というのは聞き慣れない言葉だが、要は
論理法則を越えたところで、という意味である。
禅というのは、論理法則を越えたところで、
本来の自己に目覚めさせることだ、というのである。
論理法則を越えたところで、というのが西洋人や現代人には
分かりにくいかも知れないが、日本に住む人には
納得の行く話だと思われる。
思慮分別を離れたところに湧き水のような心の本体が働いている。
それは仏性と別物ではないが、言い当てようとすると逃れてしまう。
鈴木禅師の最終講義がこれだと言うことで、よほどの要諦だと察せられる。
三月に町を流れるせせらぎは心の綾と無縁ではない
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