今日もウルガータ聖書を読む。
「「あなた方は地の塩である。だが塩に味がなければ何で塩味をつけるのか。それは外に投げつけられ、人々に踏まれるだけである。あなた方は世の光である。山の上の町は隠れることができない。人は光を枡の下に置かない。そうでなくて、燭台の上に置く。そうすれば家のなかの全てが輝く。あなた方の光を輝かせなさい。あなた方の良い業を見て天の父を称えるためである。」とイエスが教えを説く部分を読んだ。
説教を始めてから間もないのでイエスの教えは勢いがある。堰を切ったように能弁に語るのである。その
一言一言が新鮮である。あなた方は地の塩である、あなた方は世の光である、と言われた時の聴衆の驚きと誇らしさ、嬉しさは言い知れぬものがある。
今日も中山恒夫さんの文典を読む。今日は受動形で未知の変化形だった。有田潤さんの本ではとりあえず、三人称だけ覚えておけばよいと、うまく記憶の節約をしてくれていた。
だが、中山恒夫さんの文典は端折らず全部の変化形を載せている。これが、初出の変化形なので記憶に定着しない。「尼居る 尼栗鼠 尼チュール、雨漏る、奄美に、海女ん人居る」と駄洒落で覚える。出来が悪いので苦肉の策である。
続いて大貫隆さんの文法書読む。今日のコラムは「ピラトがイエスに尋ねた。お前はユダヤ人の王か。イエスが答えた。それはあなたが言っていることです。」イエスは天の国がもうじき訪れると確信していた。それがイエスの行動の原動力だった。だが今その意味の網目が破れてしまった。処刑を目前として、ピラトの訊く問いは何と形式だけのものであろうか。そんなふうに大貫隆さんは解説している。
だが私はイエスが確信を見失っているとは感じない。イエスはイザヤ書の「無力に殺される羊であるメシア」の役割を神意として引き受けようと覚悟しているのだ。「できるなら、この杯を飲まないで済むように。だが私ではなく、神の意のままになりますように。」という悲愴な祈りを捧げている、預言の悲運と戦うイエスが居た。イエスは贖罪の羊としての悲運を引き受けた。弟子に「あなたはメシアです」と言われて、「そのことは黙っているように」、と口止めしたイエスである。イエスは自分の役割を自覚している。最初、洗礼者ヨハネのように悔い改めよ、神の国は近づいた、と宣教を始めたイエスだが、驢馬に乗り、エルサレムに入場して売り買いする者たちを追い出し、無力な羊の運命に突き進むイエスである。その苦悩は察して余りある。今日はロリン・マゼールのマーラー巨人、バーンスタインのグラモフォンの新録のイタリア盤のマーラー全集を聞く。
地の塩や世の光にもなれなくてわが身の程の小ささを思う
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