ここ数カ月読書の方向性を探っていたのだが、ハイデガーのニーチェ観を念頭に読書を組み立てて行ってはどうか、という考えがひらめいた。今日は面白そうな本を手に取ったがどこかに置き忘れてしまう夢を見た。これも暗中模索のヒントである。
今日はスタジオパークのゲストで水木しげる夫妻が出ているのを見て心に残った。
最近水木しげる氏がドラマのなかでゲーテの言葉を引いて、「好きなことを続けていれば悩むものだ、好きなことをやって道が開けて来ないときは好機を待て」と娘にアドバイスしたというエピソードが頭に残っていたので、なおさら印象的だった。
今日は私の本棚にハイデガーの本が多いことを指摘された。ハイデガーのニーチェ観!それだ。
フーゴ・オットのハイデガーの難解な伝記「マルティン・ハイデガー、伝記への途上で」に久しぶりに取り組んだ。ニーチェ全集の「生成の無垢」の上下も注文した。
フーゴ・オットはヴィクトル・ファリアスの「ハイデガーとナチズム」を相当意識している。アプローチは違うがオットとファリアスは関心の在り処が似ているのである。
一級の思想家ハイデガーがなぜナチズムに期待をし、一時期にせよ加担したのか。政治的挫折を経験したその後大きく思想を転回させ、人間の側からよりも、存在の側から世界を見る哲学へ移行した経緯は何か、と言った話題が考えられる。
ナチズムに期待を裏切られ、閉じ籠っていた時期に、ハイデガーはニーチェの徹底的な洗い直しと批判を行った。果たしてその真意はどこにあり、その批判はどこまでが正当で、どこまでが言い過ぎなのか。ニーチェ関連の著作とハイデガー関連の著作を並行して読み、その迷宮の出口を見出せたら面白いことになるだろうと直感した。平凡社ライブラリーのハイデガーの「ニーチェ」を読み直し、「形而上学入門」を読み直し、ビーメルの「ハイデガー」を熟読し、と夢は膨らむ。
そんなわけで今日は読書の種がみつかったことに自分でも驚いている。私のなかでは夢で置き忘れた本も、水木しげる氏のゲーテのことばも、全てが繋がっていて、読書熱が再燃したのである。その先を期待するより、まずは一つ、歩を進めることにしよう。
生成の無垢が地面に顔を出し水晶たちが歌い始める