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福岡城クリーンアップ作戦、聖照権現社水鏡権現社

2014-06-08 17:15:24 | リスク法務実務研究会

26.6.8

福岡城内クリーンアップ作戦に初参加。

今回が第8回目らしい(主催:福岡城・鴻臚館の将来を市民と考える実行委員会)。

リスク法務おもてなし団に声かけし、手嶋清子行政書士と深町義浩HP委員長にもご参加いただいた。

わが家は家族全員で参加。

朝9時ギリギリに集合場所の福岡城むかし探訪館に到着。

受付をし、コース毎にならんで説明。

黒田官兵衛効果で、福岡城昔探訪館に訪れる人の数が、前年の2~3倍だそうだ。

2割増、3割増でもかなり増加だが、2倍、3倍は大激増といえる(または、前年が少なすぎたか)。

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5コースに別れ、おもてなし団一行は3コースに。

上の橋門から出て、お堀端に沿って中央市民センター手前までいき、裏から戻ってくるコース。

起伏が少なく、子供連れには最適だったかと思われる。

意外とごみは少ない。

日曜朝の軽い散歩のような感覚だった。

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終了後、聖照権現社、水鏡権現社の碑(プレート)を探しに。

以前探しに行ったときは、結局見つけきれなかった。

今回は、事前に福岡城むかし探訪館の方に場所をよく聞いてから向かった。

ちなみに、指定された場所は、前回もそのあたりに行ったはずだが・・・という場所。

結論からいうと、完全な見落としで、簡単に見つかった。

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碑には、『水鏡権現聖照権現相御殿跡』と刻まれている。

水鏡権現社が黒田如水、聖照権現社が黒田長政を御祭神とする社。

明和5年(1768年)の創建時は長政を祀る聖照権現社だけだった。

創建したのは六代藩主黒田継高。

最後の「黒田の血」となった藩主だ。

筑前直方藩主黒田長清の長男として誕生、黒田宗家宣政の養嗣子となり、六代藩主となる。

このとき筑前分藩の直方藩は、元の筑前藩に編入された。

長好という名だったが、七代将軍家継にお目見えし、偏諱を賜って継高と名乗る。

「高」も黒田孝高(如水)からとったもので、如水と同じ黒田官兵衛を通称とした。

大河ドラマ「軍師官兵衛」が注目されているが、「官兵衛」は実は一人ではない。

継高は、男子を相次いで亡くし、黒田の血の跡取りを失った。

長男で世継ぎの重政を失ったのが、継高60歳のとき(宝暦12年・1762年)。

重政はまだ26歳だった。

次に三男長経を失ったのが、その翌年で、長経22歳(宝暦13年・1763年)。

親として、その気持ちはいかばかりだっただろうか。

また、黒田武士団の落胆も相当なものだっただろう。

10代将軍徳川家治の従兄弟・隼之助を養嗣子として迎えることになった。

長男重正の娘屋世を養女に迎え、隼之助と婚約させて母系血統維持をはかるも、屋世は11歳で亡くなってしまう・・・

明和6年(1769年)、継高は隼之助に家督を譲る(7代治之)。

聖照権現社が創建された翌年のことである。

継高は、黒田の血が自分の代で途絶えることに関して、せめて初代黒田藩主を祀る社を創建しようと考えたものと思われる。

長政の神号、武威圓聖照権現を、そのまま社の名称とした。

それから5年後の安永2年(1773年)、藩主は治之であったが、継高71歳のときに水鏡権現を祀った。

『黒田家譜』は、「聖照権現と同社に祭り給ふ。」とされていることから、当初は聖照権現社に合祀されたとみてよいと思われる。

のち、聖照権現社と水鏡権現社は、それぞれの社で祀られることになったようだ。

残念ながら、いつからそうなったのか、わからない。

どなたかご存知の方には、ご教示いただけると幸甚だ。

しかし、碑には「相御殿跡」とあり、相殿のように感じさせられる。


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