馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

夙川界隈・ニテコの池(地名の話2)

2018年04月13日 | 地名・地誌
 今日4月13日、「火垂るの墓」が放映されます。先日亡くなった高畑勲脚本・監督作品で追悼番組だそうです。

 今日偶々「火垂るの墓」の舞台になったニテコの池がある満池谷墓地に行ってきました。満池谷の墓地には当ブログの父母のお墓があります。
ニテコの池は火垂るの墓の主人公兄・妹が生活をしていた横穴(防空壕跡)があったところです。写真の左側に「松下幸之助邸」など新興経済人の豪邸があります。池の北側は震災記念公園、西宮市営墓地、越水浄水場などが整備されています。

 野坂昭如は、無頼なところのある人で決して褒められた行いをした作家でないように思います。それでも野坂昭如は「火垂るの墓」を書いただけで全てが許せるだけの名作だと思います。

 「ニテコの池」地名解;
 地名説話としては、西宮神社の大練塀を造る際、壁土をこの付近から採掘し、その土をここで練って運ばれたので「ネッテコイ池」と呼ばれた、と口碑で伝えられています。
地名屋はどの様に解釈するかと云いますと、先ず古地図や古文書を漁り、関連しそうな資料を集めます。
この場合、具体的な地形や地名を立体的に理解しないと中々説明が困難ですが、大まかに私見を述べてみます。
 「ニテコの池」「満池谷」の原形ができたのは江戸時代初期と思われます。
この近辺の郷村の灌漑用水は、夙川、御手洗川に頼っていましたが、耕地が拡大するにつれて新しい水源の確保に迫られ北側の仁川水系からの導水をしました。
文献から寛永18年(1641)とあります。
仁川上流の「井ノ口」から引かれた水が、途中を省略しますが満池谷に流入しそのため池が「ニテコの池」となりました。ここから西宮の各郷村の田畑に水を流した水路を「井手溝(イデコウ)と呼んでいます。
書道をする人は分かるでしょうが「井」を崩して書くと「仁」によく似た書体になります。また地名は古来より「好字」「佳字」を使用しますから、「井手溝」→「仁出溝」に変わり、即ち「イデコウ」→「ニデコウ」→「ニテコ」に変わったと思われます。
勿論、ここではごく簡単に結論だけを書きましたが、論証の過程では「和名抄」記載の各地の「井手」の地名解との整合性、西宮及び近隣各郷村の歴史の検証は欠かせない作業です。

※:2,009年 8月 5日「夙川界隈・にてこの池(地名の話2)」改編したものです。