馬糞風リターンズ

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ICHIROより凄い天才打者「榎本喜八」

2012年03月31日 | スポーツ・人物
 ロッテなどで活躍した榎本喜八が死去しました。75歳でした。昭和の名プレーヤーがまた一人、世を去りました。
「神の域に行った」伝説の打者と言われた天才バッターで「変人奇人」として「奇行」も多かったとのことです。
当時、彼の在籍した大毎オリオンズはパ・リーグのためTV中継などは全くなく、日本シリーズ、オールスター、日米親善試合のような時以外見ることができませんでした。

榎本喜八・田宮健次郎・山内一弘のクりーアップトリオはミサイル打線と呼ばれました。

彼の打撃理論は「臍下丹田=せいかたんでん」に自分のバッティングフォームが映る様に・・」とか「土踏まずから足の付け根までの内側に、ユニフォームの縫い目に沿って一本のライン・・」と言うように常人には理解できないもののようであったようです。
 その為、打撃練習用の大鏡の前で30分以上も動かずにそのままの構えで立っていることもあったということです。普通大鏡の前では、素振りを繰り返しフォームをチェックするものですが、榎本の場合は構えたとき、右目にバットの先端が少し入ってくる状態がベストなので、その状態にもっていくために調整をしていたのだということです。
求道者のように野球だけに打ち込む榎本は、試合前の練習に1人だけ参加せず、ベンチで座禅を組んだまま全く動かず、瞑想にふけって精神統一していたという。また、ドジャースとの日米野球でも試合が始まるまでベンチで座禅を組んだまま黙考していたため、川上哲治監督が心配して試合に出場できるかどうか、尋ねたという伝説も残っています。

 私生活でも奇行が目立ち、「都市伝説」に近いような逸話に事欠かにい選手だったようです。
今のようにメジャーでプレーすることなど夢のような時代でしたが、来日しだドジャースの選手たちの評価は「日本のプレーヤーの中ではEnomotoがNO.1」だったそうです。
 引退後は野球界との交流を一切断ち「仙人」と言われ、名球界入りの資格である2000本以上の安打(通算314本)でありながら入会を拒否しています。
 彼の活躍した60年代は、正に我々が今宮高校生だった時です。当時のヒーローがまた1人いなくなりました。


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