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「帯広・オベリベリ・オペレペレケプ」・・・地名の話(16)

2010年02月04日 | 地名・地誌
帯広の地名の由来は、アイヌ語「オベリベリップ」と言われています。
十勝帯広が脚光を浴びる切欠は、明治13年から18年にかけてこの地域を「発生源」とする「飛蝗(トノサマバッタ)」の大発生です。
 この「飛蝗」は、しばしば小説や映画で紹介されたのでご存知の方も多いと思います。
一時期「イナゴ」と言われていましたが、最近は流石に「イナゴ」と云う人はなくなり「バッタ」と云うようになりました。

 江戸時代後期、例えば「松浦武四郎」などの「蝦夷地探査」の報告書などでは、現在の帯広市付近は「オペレペレケプ」」と記載されています。
明治になり先ほどの「飛蝗調査」で十勝に入った開拓使の報告書(明治一五年一月 開拓使札幌勧業係発行の「北海道蝗害報告書」)やその後当地に入植した「晩成社」の事業報告書、また入植者の日記などでは、「オベリベリップ」となり、その後「オベリベ」に変化しています。
 「オベリベ」の初見は、明治15年晩成社・依田勉三が「十勝外4郡戸長役場」に提出した「地所御下付願」に「十勝国河西郡オベリベリ」と記したものです。
しかし、当時の記録を保管していた「大津役場」が、明治31年、大正4年と2回の火災で資料を焼失しており、地名変遷の顛末がはっきりとしませんでした。

 「オペレペレケプ」から「オベリベリップ」更に「オベリベリ」に変化したようです。
この間の経緯を解明したのが郷土史家「井上壽」さんです。
井上壽さんは、わが母校の第1期卒業の大先輩です。
農業技官として主に病害虫の研究をされる傍ら十勝や道東の歴史・文化・民俗の研究に多大な成果を挙げられた大先輩です。
(写真は、帯広地名解で井上先輩が新発見をした事を報じた「十勝毎日」のもの)

 4年前に「飛蝗」関連の資料を大量に譲り受け、研究を引き継ぐように激励をされました。
昨年帯広を訪問した時、ご挨拶に上がらなければならないところ失礼をしてしまいました。
今年は「年賀状」が届きませんでしたので、ご高齢でもあり心配しています。


「オペレペレケプ」とは、現在一般的に(帯広川)の川尻が帯のように分かれている、という意味と解説されています。
しかし、この地名解は「すこし違い」ます。

 アイヌ地名「オペレペレケプ」(陰部・いくつにも裂けている・者)即ち(川口がいく条にも分かれている川)」と云うのが本来の意味です。
更に云うならば、娘(少女)をオペレケプ(o-perke-p 下の処が・割れている・者)とアイヌ語辞典にあります。

 あまりにも直接的な表現のため、承知の上で「改竄」した地名解にしたものと思います。
これは、十勝の大樹町 「大樹」地名解と同事情と思います。

 「オベリベリ」が「帯広」に変化する過程は次回にします。




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