のんのん太陽の下で

初めての一人暮らしが「住民がいるんだ・・・」と思ったラスベガス。
初めての会社勤めが「夢を売る」ショービジネス。

「バン!」という大きな音

2011-04-29 | KA
 ネバダバレエでの練習が始まる前、『Viva Elvis』のダンサーに会うと、彼はここで捻挫をしてしまい、ショーに一週間出られなかったと言っていました。私の身体もギシギシしていました。集まりが遅く十五分ほど遅れて始まりましたが、私は復習まで充分に出来たので、良かったです。練習の途中で、仙骨周辺が固まりそうな感覚になりました。手を当てて温めると、硬さは腰の方に上がってくる感じでした。
 昨日と同じスケジュールでしたが、昨日よりほんの少しだけ時間に余裕があり、十五分くらい休むことが出来ました。
 仲良くしている仲間の一人が、熟考を重ね、新しいショーへの参加を決めたそうです。とても淋しくなりますが、もしも受け入れなかったら絶対に後悔すると私は思います。決断を決め、ほっとしながら目を輝かす姿は、良いエネルギーに満ちていました。
 二回目のショー、踊っている途中で「バン!」という大きな音がしました。あまりにも大きな音で、舞台のどこかで問題が発生したのだろうと思ったことは覚えています。その後、私はいつの間にか立ち上がれなくなっていました。立ち上がろうとしても、右足を着くと床が斜めになっているようで立てないのです。天井といいますか、真上という感覚も失った感じでした。床に倒れ、這いつくばいました。それから手で支えて起き上がり、膝立ちをしてフルートを回しました。左足は正常であることが理解でき、左足を床に着いて立ち上がると、左脚を軸にバランスを取りながらフルートを回しました。右足は床に着けずとも、右股関節は使えることを理解し、右脚を上げながらフルートを回しました。それは、本能的に動いている感じでした。頭で考えたというより、身体が反射的に動いた感じでした。
 ようやくリフト5は下がっていきました。お客様から見えなくなると、床の上に仰向けに寝転がり、天を眺めました。たくさんのことが頭をめぐっていました。長い時間に感じました。
 フィジオが迎えに来ました。問いかけに
「アキレス腱を切ったと思います。」
 と言いました。「すぐに自分で診断しないように。」と言われましたが、それは確実だと思われました。二人に抱えられながら、片足で歩いてエレベーターまで行き、三階に着くとデイヴが背負ってくれました。私は冷静でした。自分で判っていたので、彼に自分で判断しないように再度言われ、彼が診てから切れていることを告げられても、涙も出ませんでした。
 来週頼まれていたロスアンジェルスの仕事のこと、今日はじめて通し練習が出来たクリスタの振付、KAだけでなく、そのこともみなさんにご迷惑を掛けることになります。すぐに、知らせなくてはならないと思いました。
 乳母役のゲイルが来てくれました。いろいろとお世話をしてくれ、エピローグに出ないで良いかステイシイに確認を取り、「今はあなた専用の乳母だから。」と言い、ずっと付き添ってくれていました。 私は松葉杖で楽屋に戻る途中、亜梨ちゃんに「今後六カ月は出られないようなのでよろしくお願いします。」と頼みました。
 楽屋に戻り、不自由な足、やるべきことがいろいろあること、みんなが声を掛けてくれるので、帰り支度を進めるのに時間が掛かりました。今日ペンデュラムデビューのズラには、事が起きたのが二回目のショーで、彼女にとって一回目ではなく二回目であったとはいえ、まだ慣れない本番の待機中に目の前で起こった私の事故を見ていると気付き、申し訳なかったと思いました。
 ようやくお化粧を落とし、シャワーを浴びました。この状態でアパートのシャワーを使用するのは困難と思ったので、床続きで段差なくシャワーを浴びられる仕事場で汗を流しました。
 フィジオに戻りました。土曜日、日曜日は病院が休みなので、お医者様に診て頂くのを月曜日まで待たないといけないそうです。そんなに待ったら、切れた腱が離れていってしまうのではないかと問いましたが、それはないそうです。足を包帯で巻き固定させ、膝下まであるブーツを履きさらに動かないようにしました。痛み止めの薬と、冷却のための氷を入れるビニールを下さいました。家に帰っても氷は無いので、今晩の分の氷もお願いしました。そして、亜梨ちゃんのことを話し、お願いをしました。
 楽屋に戻る途中、バックステージテクニシャンがお客様を舞台裏にご案内していました。二回目のショーをご覧になったということなので、私は謝りました。彼らは温かく声を掛けて下さいました。そして、「最後までプロフェッショナルだったわ。」とおっしゃって下さったのですが、プロフェッショナルはこんな怪我の仕方をしないことでしょう。
 帰り支度をして楽屋を出ると、そこに居たカツラ担当の方は、「ドアを開けるわね。」と一緒に来てくれました。ゲイルが「ノリコを送る。」と言うと、ジャニンも行きたいと言ってくれたそうで、ゲイルの車の後をジャニンの車が付いて、アパートまで二台の車で二人で送ってくれました。部屋でしばらくいろいろと話しをして、この状態の私に何が必要か、考えてくれていました。明るい将来のことも話して、「用事があったらいつでも連絡してね。」と言いながら帰っていきました。
 たくさんの仲間が連絡をくれました。この不自由さでは、これからいろいろとお世話にならないと過ごしていけないことでしょう。たくさんの仲間が付いていてくれるのは、本当に有難く、心強いことです。
 日本で身体を診て頂いている先生にご連絡すると、お電話を下さいました。そして、固定の仕方が間違っていることが分かりました。包帯だけで固定をし直しましたが、その後、歩行保存療法という方法を知り、ウエブサイトでギプスの仕方を見、真似をしてギプスを作ってみました。家にあるもので作ったので強度が足りず、これでは歩けませんが、包帯だけより良い感じで固定されました。
 五月末からの休暇に、両親と旅行をしようと思っていたのですが、こんな状態では、車を運転することも出来ません。どうするかなと思い、電話をしてみました。なかなか通じず、通じるまでと思い、『Choreographers' Showcase』に私の代わりに踊ってくれるダンサーを探したり、連絡したり、至急連絡を取るべきところにメールなどをしていました。結局、夜空が少し明るくなるまで起きていることになりました。

 今日は年齢のことを考えていました。『Choreographers' Showcase』の忙しいスケジュールに対して、「自分が決めた事だから。」と言った友人の言葉を思い出していました。一回目のショーが終わると疲労を感じ、珍しく口に出してていましたが、身体は動いていました。特に本番では、良く身体が動いていました。だからこそ、加減しなかったのだと思います。本番前は、今日を乗り越えられれば、と思ったことも事実ですが、実際には乗り越えられませんでした。KAが始まり、欠勤すること無く歩み続けてきました。少々の怪我は乗り越え、騙しながら出ていました。ここまで大きな怪我では、隠すことも出来ません。KAのショー最後の花火のような「バン!」という大きな音と共に、歩みがきれいに止まりました。潔く止まってくれて、良かったと思います。六歳でバトンを始め、初めてとなるこれからの空白の六カ月を、有意義に過ごしたいと思います。
コメント (7)
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