ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

授業でいえない「公共」 3話 心を読む

2024-02-17 06:57:00 | 高校「公共」

【青年期の欲求】
青年期の自己形成の課題では、さまざまな欲求がある。この欲求が年齢によって、成長過程によって違ってくるということを言った人がいます。心理学者のマズローという人です。アメリカ人です。20世紀の人です。19世紀、20世紀ぐらいです。このあと出てくるフロイトが19世紀。そういう実現、1、2、3、4、5段階あって、生まれたままの最初は生理的欲求、これは一次的欲求と教科書に書いてある。それからだんだん違う欲求がででくる。一次的欲求、つまり生理的欲求というのは、おっぱい飲みたいとか、おしっこしたいとか、これは説明しなくても分かるでしょう。生まれたままの子供のというのはそうです。

余談ですけど、それが不思議なのは、母親というのはこの欲求が分かるんです。何で泣いているのか、私は分からなかった。子供が生まれた時に、なかなか男は分からない。なぜ泣いているのか分からない。でもおっぱい飲ませる母親はそれが分かるんです。それが私は非常に不思議で、なんでおまえは分かるのかと嫁さんに聞いたら、逆に何であんたは分からないの、と怒られていた。でもそれは、なかなか分からない。

いろんな欲求があるけれど、赤ちゃんの欲求はそんな複雑な欲求ではない。おしっこしたいとか、何か食べたいとか、暑いとか、寒いとか、気持ちが悪いとかです。それがだんだんと次に、安全の欲求になる。安全の欲求というのは、食い物の欲求ではなくて、少し高度ですね。まだ精神的・社会的欲求ではない。次に所属の欲求になる。どこかの集団に所属して安心する。小学生、中学生はそうです。高校生になると、バリバリそうです。それから、部活動とか一生懸命に頑張る。これは何かというと、自分を認めてもらいたい。自分が偉いじゃないけど、これは他人からの承認の欲求です。ここら辺になると二次的欲求です。これは社会的欲求になる。単純に腹が減ったとか、そういうレベルではない。


【自己実現】
そして最後が一番言葉は難しい。すぐには何のことか分からない。自己実現の欲求というのがある。本当の自分、これもなかなか分からないけど、とにかく本当の自分を実現したいということです。三番目、これが自己実現の欲求です。言葉でいうのは難しいです。君たち、胸に手を当ててよく自分に問いかけてみてください。君たちはどういう人間になりたいですか。
この自己実現の欲求と言うときに、考えてみると、社会的な欲求というのを経験した上でのことだから、単純に自分の欲望を満たす欲求、そんな単純なものではないんです。犬猫じゃあるまいし。これは大きく分けて二つです。自分のためにもそうであれば、君たちには社会的に相手のことを考える能力も備わっているから、自分と他人というのは同じ欲求を持っていることを知っている。承認もされないといけない。それから所属も、愛情も感じないといけない。これは、自分のためだけではなくて、他人のためにもです。こういう二つのものが自己実現です。自己実現という言葉が難しいのは、自分のためだけ、と誤解してしまうからです。


【葛藤】
それで二番目ですが、欲求にはいろいろな欲求がある。フグは食いたいけれど毒には当たりたくないとか、勉強はしたくないけれども、しないと怒られるとか、いろいろある。それぞれ葛藤がある。葛藤です。これは心理学用語で、日本の心理学は外国から来たから、もともとこれではない。コンフリクトという。親切に日本語に訳したら葛藤ということになる。「コンフリクト(葛藤)」と、日本語に翻訳してあるのはまだ親切なほうで、最近10年ぐらいでまたカタカナの字がますます増えた。教科書見たら漢字がないものもある。カタカナで丸覚えです。どんな意味かなと思ったら、自分で調べなさいということです。翻訳語さえなくなってきた。それでどんどんカタカナ文字が増えていく。
そういう葛藤です。いろんな欲求をかなえるのは難しい。高校生になればそれは分かるでしょう。自分のやりたいことの半分もなかなかできない。それで腐っていても何も前に進まないから、とりあえず少しずつやっとこう。そのとりあえずというのが大事です。これが適応です。100%やろうと思うと、私は「神様になりなさい」とアドバイスします。100%じゃないから気にくわないとか言われると「神様にでもなれ」と。そうでないと適応行動は取れません。でも
100%にはなれない。
適用しながらも、100%ではないから、どこかには欲求不満、これを抱えることになる。自分だけではないよ、みんなそうです。この欲求不満ももともとは英語ですから、フラストレーションといいます。訳して欲求不満です。この欲求不満があまりに高まると心が折れていく。人間は心が折れると、ちょっと困ったことになる。折れないようにしないといけない。成長とともに、ストレスも比例して大きくなる。体力のないところにストレスが来たら、小学生に大人みたいな要求してもできない。それは当たり前だから、年に応じてです。
君たちもそれに耐えられるように、その能力だけではなくて、うまくいかなかったときの心の強さも鍛えていかないといけない、という意味です。これを難しく言うと、欲求不満耐性という。耐える力ですよ。耐性というのは。これが難しくて、どうしたらいいですかと聞かれても、これは分からない。自分で強くなりなさいと言うしかないけど、一般的な言葉で言うと、欲求不満耐性です。社会の中で人間関係の中で、もまれるしかない。もまれてどうなるか、それは社会というのは、学校も社会の一種ですから、顔で笑って心で泣いてということはいっぱいある。


【防衛機制】
ここらへんが人間の心の、100%の欲求充足は赤ちゃんではない限りは、赤ちゃんは100%になるまで、何かグゼるでしょうが、そんなことしていたら、人間社会は成り立たない。そういう欲求不満を抱えるのは人間の常ですけれども、人間というのはそこで心が折れないようにする心の動きがある。これを防衛機制といいます。防衛というのは、自分を防衛するんです。
だからプラスの意味半分ですけど、あとよく見ているとマイナスの意味も半分ある。すべて手放しで素晴らしいというものではない。こういう心の動きがあるということを発見したのが、心理学者のフロイトです。心理学者のなかでは一番有名じゃないかな。ドイツ人です。ドイツ人なんだけど、ドイツ語文化圏の本当はオーストリアなんです。あのカンガルーの、という人がいるけど、あれはオーストラリアです。てれではなくてオーストリアです。ドイツの横にあります。今はヨーロッパの小さい国ですけども、昔は大帝国だったんです。


フロイトは、19世紀から20世紀にかけて、1856~1939年、別にこんなことを覚えなくていいです。ただいつ頃の人かということです。正確には国籍はオーストリア人なんですけど、民族的にはユダヤ人です。このユダヤ人というのを説明するにはとても時間がかかる。世界中で、人口は日本人の10分の1ぐらいしかいないんです。しかしとっても頭が良い。ノーベル賞とかよくもらっている。一番有名なノーベル賞をもらったユダヤ人は、アインシュタインです。こういう有名人がいます。アメリカ人がよくもらうといっても、アメリカ人のユダヤ人という人もけっこういます。これを言うのはとても難しいから、あとで少し言います。そういうユダヤ人です。

このフロイトが言ったこの防衛機制というのは、ハタから見てると分かるけど、本人はなかなか気づかない。これを発見した人です。無意識の発見です。それまでのヨーロッパというのは、人間の心はこういうふうにあるとする。それで、自分の心は自分が一番よく分かってる、それを考えるのが理性だとする。これが古代ギリシャのソクラテス以来の、ヨーロッパ人の考え方なんですよ。でもそうじゃないと言った。無意識がある。意識は海に浮かぶ氷山の氷です。海に浮かぶ氷山は、目に見える部分だけか。そんなことはない。ちょこっと氷が水面の上に見えていても、その何倍もの氷が水面下に隠れている。こういう無意識があるんだと言った。しかも、見えないんだ、自分に見えないんだといった。

自分のことだから自分で分かるだろう? フロイトは分からないと言った。そんなことがあるもんかと反発を受けた。だから最初は、学者として生きて、常識を打ち破るような学者は、最初は不遇ですね。しかしこの無意識はみんなある。今では常識でしょう。しかしこれはまだいいんですよ。フロイトのいうこの無意識は個人で違う、個人的無意識であった。
しかし、この弟子にユングという人が出てくる。この人はもっと他の無意識があると言った。親の代から受け継いだ無意識というのが。これを集合的無意識と言った。これになると自分ではますます手に負えない。
時々、君たちも、私もそうですけれども、変な夢を見るでしょう。オレはなんでこんな夢を見るのかな、そして目覚めが悪い。あれは自分で分からない。言葉で言えないような、言ったらいけないような変な、とにかく、自分は変態じゃなかろうかと思うような、ありとあらゆる変な夢を見るんです。毎日じゃないよ。毎日そんな変な夢に苦しめられていたら、辛くて生きていけなくなるけど、忘れた頃に、この動きが出てくる。これは自分であやつれない。今日は楽しい夢を見ようと思っても見れない。そんなことをできるのは人間業じゃない。


一方で、無意識があるということは、理性が中心のヨーロッパで、理性への疑問が出てくる。ただ科学的には理性で考えないといけない。特に理系はそうです。数学的なもの、物理的なものは。感情で考えてもどうしようもないから。しかし人間というのはこれだけじゃないという。自分では制御できない心の動きがある。それが時々病理となって現れる。今これを疑う人はいない。

その防衛機制の動きは、様々な機能を分析すると8つある。
これが防衛機制です。防衛機制には8つある。

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1番目が「抑圧」です。ここに書いてあるのを見ていきます。抑圧は、欲求不満や不安を無意識に押さえ込んで、自分で押さえ込むということです。例が良いかどうか、例えば野球部が、とってもみっともない負け方をした。もう思い出したくない。そうすると思い出したくないから、家に帰ったらナイターのシーズンでしょ。好きな野球のナイターの番組を見ようと、弟がスイッチ入れると、コラー見るなと言う。思い出したくないわけです。これが抑圧です。しかし本人は、自分が自分の心を押さえていると分かってない。逆にそう言われた弟が、なんだ自分が負けたからだと、あとで陰口たたく。周りがわかる。これが抑圧です。

2番目に「合理化」がある。合理化というのは、実際は合理的ではない合理化です。自分が負けたときに、野球はもともと親父が、オレが小学校のときに無理やり連れてってくれ、野球させたんだ。本当はオレは野球したくなかったんだ。でもホントはしたいんですよ。こうやって親父が悪いんだとして、それですっきりする。こういうのが合理化です。あまり合理的ではない合理化です。


3番目の「同一視」というのは、練習がきつい。野球の練習をサボって、サボったことを思い出したくないから、自分の部屋にプロ野球の大谷翔平の大きい写真をドカンと掛けて、オレは将来こうなるんだ。でも練習はさぼった。全然一貫性がないわけです。スターと同一視して、オレはできるんだ、これで安心する。


4番目が「投射」。投射は同一視とちょっと似ている。相手の欠点を、人間はみんな欠点はあるけれども、ただ目につくのは、自分と同じ欠点にピッと反応する。それが分かる。こいつは自分と同じ欠点をもっていると思うと、ピっと反応する。自分のことを棚に上げて、おまえはこうだこうだと、自分と同じ欠点を特に指摘する。そのことで、どうも自分が同じ欠点を持っていることを知られたくない。ちょっと頭良いです。そういう心の動きもある。これを投射といいます。


5番目は「反動形成」です。これはよくある。小学校のいたずら坊主が、隣に座ったミヨちゃんが好きでたまらないけれども、逆に鉛筆を隠したり、消しゴムも取ったり、いたずらして気を引こうとする。それで逆効果になる。好きだからイタズラする。これは小学生がよくやる。これは反動形成という。


6番目は「逃避」です。逃げ込むことです。この逃げ込むことは、これは、童話のあのマッチ売りの少女が、寒い夜空でマッチを売って、誰も買ってくれない。使ったらいけない商売のマッチを擦って、自分が幼かった頃の、やさしいお母さんが生きていた頃の、家庭の暖かい風景が目に浮かぶ。最後は凍えてかわいそうな結果になるんですけど、解決にならないような所に逃げ込むしかないという、かわいそうな話ですね。


7番目は「退行」です。これは、3才のお兄ちゃんがいて、次にお母さんが弟を産んだ。そしたら今まで、母親の愛情が一身に来ていたのが、弟に半分あげないといけない。それが嫌で、生まれたばかりの赤ちゃんのように駄々をこねていくと、構ってもらえる。成長するんじゃなくて、逆に生まれたばかりの赤ちゃんと同じようなことで母親の気を気を引こうとする。これも子供の頃からやる。これは犬猫はしない。犬猫よりも頭がいいけど、こういうのを退行といいます。


8番目に置き換えがある。置き換えの中の、「代償」というのは、他の欲求に置き換える。メロンは高くて、うまいです。病院に見舞いに行くときはよくメロンを持って行く。あれはおいしい。私もメロンは年に1回ぐらいしか食わしてもらえない。メロン食いたいというと、ミカンでも食べなさいと言われる。ミカンも嫌いじゃないから、それはぞれで満足できる。


本当は「昇華」が一番いいです。自分の不満を自分でちゃんと見据えて、どうすればいいかという緻密な努力、これはなかなかできないけど、その不満の中身をよく知った上で高い芸術性の絵を書くとか、音楽的才能を発揮するとか、大谷翔平のような、最初は二刀流はムリだムリだと言われていても、スポーツ界で才能を発揮するとか。これができる人は、偉い人です。

一番ダメなのでは、その合理的解決の二番目の「攻撃」です。メロンが食いたいけれども100円しか持たない。だから盗む、万引きする。これは破壊的行動です。身を滅ぼす自分は、前科一犯になる。犯罪です。頭にきたから殴る。昔、20年前は、この学校にもいたんです。おまえ、なんで人を殴るのか、ムカついたけん。それでいいなら、おまえ人間やめろ、というと、でもムカついたという。本気で言ってはいないんでしょうけど、これはダメです。

それで、一番最後、葛藤や欲求不満をどうすればいいかというと、意識的に受けとめて合理的にやる。前の合理ではなくて、よく自分で考えて合理的に解決する努力が必要ということです。でも、自分が自分のことを一番分かっているというのは、ウソでしょう。でも、それ以上に人は分からない。だから、分からない自分があったら、こういうで、こんな感じです。青年期になってくるとこの目が発達する。こういうのを自我といったりする。自分を見る目です。
    
  ↓  ↘
  自分  =  他人

自分を見て、これが出てくると何が分かるかというと、オレは他人といっしょだ、というのが分かる。ということは、自分が分かれば他人の心が分かる。逆に言うと、自分が全くわからない人間は、他人の心が読めない。

自分で自分の心を読むということです。こういう作業は、青年期、高校生ぐらいでは非常に大事なことだと思う。でもこれは楽しいことではない。結構イヤなことです。自分を見て、自分は素晴らしいなとは、あまり思わないでしょう。自分はダメだなあと。私と違って、自分は素晴らしいと思う人もいていいけど、まあそういう人は少ないんじゃないかな。ふつうは、オレはダメだなと、自分の至らなさが目につく。これは辛いことです。辛いことだけれども、それをやれると、相手の心が分かる。こういうことです。これが何か。これが社会性です。相手の気持ちが分からないで、犬猫じゃあるまいし、一つの饅頭の取り合いで、喧嘩ばかりするわけにはいかない。これは社会性です。こういう能力が青年期に出てくるということです。

※【比べること】
※(●筆者注) 「考える」ことの本質は「比べる」ことにあるようです。我々はあまり意識しませんが、比べる対象がなかったら、「違い」が分かりません。その「違い」が分からなければ「考える」ことはできません。これが思考の本質なのです。料理のプロは、味の違いが分かるからプロなのです。医者は、病気の違いが分かるからプロなのです。比べて、同じか、違うかが分かること、これが思考の本質です。
 同じように見えて違うものもあれば、違うように見えて同じものもあります。どこが同じで、どこが違うか、そこまで見分けることができるようになると、それは「分析」と呼ばれます。でもそのベースにあるのは、どちらも同じ「比較すること」です。これを我々の脳は無意識にやっています。
 そして同じもののグループができあがると、それが「概念」と呼ばれるものになります。これは現実社会では存在しないもので、頭のなかでしかとらえることのできないものです。「愛」とか「憎しみ」とかは目に見えない一つの概念です。「神」も人間がグループ化しえた一つの概念です。
 鉄が磁石にくっつくことと、リンゴが木から落ちることはまったく別のことだと思われていましたが、ニュートンはそれを同じことだととらえました。そして「引力」という概念を生みだしました。これを見た者はいませんが、今ではその存在を疑う人はいません。「星の王子様」を書いたサンテグジュペリは言いました。「だいじなものは目に見えない」と。人間は、目に見えないものを見ることができます。
 さらに人は、自分が考えていることと、他人が考えていることを「比べる」ようになります。こうやって、考えている自分を見て、その考えている自分をさえ考えることができるようになります。これが「メタ認知」です。これも自分と他人を「比べる」ことがベースにあります。
 この「比べる」という脳の働きは、もともと別のことをしていたパソコン同士がある時ふと結びつくようなもので、自分が意図してできるものではないことが多いのです。例えば、磁石のことを考えているときと、リンゴのことを考えているときとでは別のパソコンが働いていて、磁石とリンゴのあいだには何のつながりもありません。その無関係なものが、ある時ふと結びつくということは、何かの拍子で思考と思考とが重ね合わせられるということで、思考が重層的になるということです。それは右の頭で磁石のことを考え、左の頭でリンゴのことを同時に考えていないとできないことです。例えて言えば、らせん階段を上りながら、上から下を見おろすような感じです。
 われわれは人と話しながら、よく別のことを考えたりします。先生から怒られながら、「先生の顔はゴリラに似ているなあ」と関係のないことを思ったりします。人間の脳はこのようなことを3つも4つも同時に行っています。そしてそこから似たものを引っ張り出してきます。でも先生の顔がゴリラに似ているからといって、「先生はゴリラだ」とはしません。でも鉄が磁石にくっつくのと、リンゴが木から落ちるのは、「引っ張られていることは同じなんだ」と気づくことはできます。こうやって、似ていても違うものと、違うけど同じものを、仕分けしていきます。
 それは頭のなかで多くのパソコンを同時に動かしていないとできないことです。そこから「違うけど同じもの」を一つのグループとして概念化していきます。
 これはものごとを視覚でとらえることではなく、機能でとらえることです。機能をとらえることは、脳の働きそのものです。われわれは脳の働きそのものを比較しているのです。これがわれわれ新人の脳に特徴的なことです。


その社会性が出てこずに、自分の心が分からないと、相手にウソをつくようになる。人はなぜ他人にウソをつくか。そうじゃないでしょう。人は他人にウソをつく前に、まず自分にウソをつくんです。そのウソが分からないから、他人にもウソをつくんです。自分にウソをついていることが分からないから、他人にウソをついても平気なんです。相手の心が分からないからウソをついても平気なんです。でもウソつきは泥棒の始まりです。みなさんも気をつけましょう。
「自分に厳しく」と昔はよく言われたけど、自分に甘い人は、他人にウソをつくんですよ。それは自分が自分についたウソを見抜けないからです。すると他人にも同じレベルでウソをつくようになるんです。でも他人は、自分のウソは分からなくても、他人のウソは分かるものです。


【遺伝と環境】
今日もあんまり進みませんね。こういうことばかり言うから。

自分を見ていくと、自分がどういった人間かというのが、最初は分からないけど、年とともに少しずつ分かってくる。自分が他人と違うということも分かるし、分からないなりに自分の性格も分かる。

性格のことをパーソナリティという。性格、個性、または人格かな。これをパーソナリティという。キャラクターというと性格です。キャラがあるという。パーソナリティというのは、もうちょっと深いね。
そのパーソナリティというのは、ではどうやって形成されてるのかというのが、これではよく分からない。ただ言えるのは、親と子は当たり前ですけど、似てる。似てるけど違うでしょう。兄弟も似てるでしょう。似てるけど違う。一つには遺伝的要素がある。遺伝的要素があるんだけれども、双子にも二種類あって、二卵性双生児と一卵性双生児。遺伝子情報が全く一緒なのは一卵性双生児ですが、その一卵性双生児をいろいろ事情があって、別の親のところで育てたら、同じ人間になるかというとこれもまた違う人間になる。


遺伝的情報が同じでも、育つ環境によって違う。この二つ、遺伝と環境。これは、100年ぐらい、どちらが正しいのかという論争があったけど、どっちも正しいか。どっちも正しくない。足して2で割ったぐらいですね。この二つの要因がからむ。ただ環境のほうは、自分の努力次第でどうにかなるけれども、親から受け継いだ遺伝情報は受け入れるしかない。今さら変えられないでしょう。
これは受け入れるしかないです。どうしようもない。人間の力が及ばないところです。イヤ遺伝子組み換えとか、またアメリカあたりで、生物学者が言うかも知れない。これは4~5年前に中国がやった。受精卵の遺伝子をゲノム編集とか、触っている。これからどんな時代になるのか。これをやり始めると、ちょっと私も分からないことが起こり始めてます。

君たち青年期というのは、他人との比較を通して、前も言ったと思うけど、自分が分かることです。自分が分かるとは何かというと、分かるというのは、まず違いが分かるということです。違いが分かるためには、比べないといけない。比べるのが社会的第一歩です。何が分かるの前に、まず違いが分かることです。あいつはここが分かっている。オレはここが分かっていない。そういう違いです。

他人と比較すると、自分というのが分かる。でも他人の芝生は良く見えるんですね。なんか相手が上のように思う。よくある劣等感です。それはプラス・マイナスの両面あります。少しでもましな人間になろうとなろうとする努力もでてくる。
しかしパーソナリティというのは、遺伝も違うし環境も違うでしょう。これは、同じ5人兄弟でも、昔は多かったんです、一番上で生まれるか、一番下で生まれるか、それだけで人間のでき方は違う。同じ遺伝情報でも。長男は、長男なり、末っ子は末っ子なりに。それぞれ違う。

だから、人の能力は均等ではないです。平等じゃない、とまでは私も言わなくていいかなと思うけど。ただ均等じゃない。これは次で言うけど、もって生まれた性格の違いというのがある。


【人間三類型】
これがパーソナリティの類型ということで、1番目は、クレッチマーという人の人間三類型です。
パーソナリティのクレッチマー。クレッチマーというのは、ドイツ人です。ドイツの人で時代は1888年から。フロイトよりもちょっと後の人です。この人は、50年前の私が高校のときから一貫して、公民の教科書に載ってます。君たちの教科書から落ちたのは、法然さんとか、親鸞さんとか、そういう日本の思想化、宗教化なんか、今年からいっぱい教科書から落ちましたけど、この人は落ちないです。

3類型というのは、まず体型で、①やせ形・細身、②それから太った人、③それからキン肉マン・闘志型。体型もかなり関係している。書いてある通りです。
1番目の痩せ型というのは内面的、非社交的かな。非社交的です。
2花目の太っちょおじさんというと、言葉がペラペラと、愛想よく話す。社交的です。
3番目のキン肉マン・筋肉質というのは、非常に誠実ですけど、時として怒った時には手がつけられない。爆発的に怒る。昔そんな先生がいました。今はそんなことすると新聞から叩かれるけど。生徒指導の先生とか。しかし今や社会が変わって、まず新聞から叩かれる。少なくなったというより、見なくなった。体罰のこと言うとあまりよくないね。筋肉質は爆発性ありです。


【アニマとアニムス】
さっき言ったユングです。この人は1875年から。ユングの横に書いてください。個人的無意識とは別に、集合的無意識というのを主張した。集合的無意識です。普通はこうなっているけど過去(図)、意識がこれだけだとすると、個人的無意識がこれだけ、その下に集合的無意識がある。これ一言でいうと深い闇です。これはホントに闇です。この人は、フロイトもそうだったですけど、特に第二次性徴から第二の誕生とか、肉体的な変化がある。そこで人間の心は大きく作り変えられるんです。異性に対する好みというのも、そこで深く沈んでいく。
教科書には書いてないけど、男性像、女性像というのをアニマとアニムスといった。自分で意識的に作ったわけじゃないけれども、男がもってる理想とする女性の像があるとした。これをアニマという。
逆に、女がもつ理想的な男性のイメージ。これをアニムスという。これは変えられない。私も、私の理想の女性というのは高校のときから一貫して変わらずにある。それはそれで理想と現実でいいことです。別にそれを実現しなくてもいいことです。

しかしこういうのをずっと温めながら、人間の芸術、芸術が何かというのもよく分からないけど、音楽家とか絵描きさんとか、芸術性というのはどうもこれと関係している。理想とする女性の像、これが男の中では一番キレイですね。女にとってもそうかも知れない。こういうのと芸術性は何か関係していると思う。これが崩れると、ちょっとまずいんです。そしてこれは前回言った、男らしさ、女らしさとも関係している。それが崩れると、人格そのものが成り立たない。人格にはそういう性の深みがある。


【内向と外向】
教科書的にはユングは、何を言ったかというと、人間には、内向きの人と外向きの人、どっちがいいじゃないです。こういう類型に分けられる。興味関心が、面白いなあと思うものが、内側の人は自分の内側に向かう。こういう無意識のこととか、自分の心の動きとか、こういうのを面白いなと思う人。
それから外向的というのは、自分よりも、人がどう動いているか。日曜日にこの人とこの人が何をして遊んだかとか、そういうところにも興味を感じる。どっちがいいかじゃないです。自分が好きなことを選んでいいということです。
小学生にこんなことを言っても分からない。自分が内向きの人間なのに、外側の人間と比べてばかりとか、自分が外側の人間なのに、内側のことが分からずに悩んだりとか。やっぱり内側の人間は内側のことに興味をもてばいいし、外側の人間は外側のことに興味をもてばいい、どっちがいいということではないです。


【アイデンティティ】
それで次です。青年期というのは、いろいろ言い方があって、モラトリアムの時期でもあるし、マージナルマンといって、大人と子供の境界人でもある。
こっちが大人、逆が子供、二つに引っ張られるんですよ。引っ張られる人間というのは分裂する。分裂すると心が壊れる。分裂しないことがいいんです。一つになったほうがいい。どうにか両方から引っ張られることから自分を守らないといけない。あやふやながらも、どうにかまとまったら、これをもつことが、言葉としては、これも難しい言葉ですけど、アイデンティティと言います。
こういうのが青年期の課題です。青年期、自分で意識して培っていかないといけないもの、自分が自分であること。こういうことを言った人がエリクソンという。この人は2回目です。アメリカの20世紀の学者、心理学者です。
でもこのアイデンティティというのは、これでは分からない。IDカードとかいうじゃないですか。IDカードのIDは、アイデンティティのIDです。IDカードとは、自己証明書のことで、カードと自分がいっしょのことです。自我同一性という。漢字で書いても難しいね。しかしこれが青年期は、非常に波が高くて、これを維持できるかどうかというのが、君たちにとっての試練です。本当は試練なんだけれども、発達課題という言葉をつけた。課題というのは、自分が努力して時間作って、成し遂げて提出しなければならないものです。これを発達課題と名付けた。

ではアイデンティティとは、どういうものか。なかなか説明しきれないけど、ただイメージです。私のイメージでいうと、自分を見るがこうある。この目はイヤなんですよね。自分で自分を見るというのは。しかし、まあ自分はこんなもんかなあと。100%じゃないけど、まあオレはこんなもんかな、まあゆるせるという感じ。それが納得です。アイデンティティというのはこれだろうと思う。
100%の自分にこだわったら、神様になってくださいとしか言いようがない。人と神様の違いは、私はそこだと思うよ。神様がいるかどうかは知らないけど。ただ神様のことは思想家、これからヨーロッパのことをいうけど、神様がいっぱい出てくる。神様どこにいるんですかと、他の学校で聞かれたけど、そんなこと、私は知りゃしないです。

ただ社会科の教師をしていて分かるのは、日本はともかくヨーロッパでは神様の考え方が変わると、確実に何が変わるか。社会全体が変わっていく。これは言える。神様がいなくなったことは、人類史上一度もないです。宗教がなくなったことはない。これは言える。
終わります。



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