【アケメネス朝ペルシャ】 この4つを再度まとめるのが、今度はイラン地方のメディアから独立した国、ペルシャです。王家の名前はアケメネス家という。だからアケメネス朝ペルシャといいます。紀元前550年~前330年。
今までオリエントで出てきた中で最大の国です。中国を除けば、この地域では最大の領域です。
※ イラン民族は、インド西北の山峡よりガンジス、インダス両河の沃野にはいってヴェーダ文化をつくり出したインドのアリアン民族とともにごく古い時代、おそらく前3000年紀に北方の某地、多分今日の南ロシアのステップにおいて半農半牧の共同生活を営んでいた。このことは、イランとアリアンの両語がともに「高貴なる」を意味する形容詞(arya)から出ていることのほか、全体としてイラン語(諸方言)とヴェーダのサンスクリットとが、・・・・・・文法的にも語彙的にも酷似していること、そればかりか両民族のあいだに共通する神名(たとえばミトラ)や宗教観念の少なくないことからも確実に推定できる。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P411)
※ メディア人とペルシア人とはたがいに独立したふたつの部族ではあったが、同様の習慣をもち、近縁の言語を用いる同系の部族という意識があり、危急の際には連合して共同戦線をはることが多かった。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P415)
▼アケメネス朝ペルシャの領域
西はインダスから、アラル海に接し、カスピ海に接し、さらに黒海に接して、ヨーロッパ側まで行く。アテネの手前まで行く。だからアテネと戦争して、のちにペルシャ戦争というのも起こる。アフリカのエジプトにも行って、大帝国を築く。
アラビア半島が入ってないじゃないか。いいんです、ここは砂漠だから。二千年後に石油がでてくるまでは、それほど注目されません。でも砂漠といって馬鹿にできないのが、世界ナンバーツーの宗教イスラーム教が、千年後にここから発生します。
ペルシャという今のイラン人の帝国が出てきた。この国はメディアから独立したものです。そして大帝国を築いていった。ペルシャ人というのは白人です。黒人じゃない。アラブ人でもない。白人の一種です。その王様で有名なのが、ダレイオス1世といいます。この名前はなまって、ダリウス1世ともいいます。
ダレイオス1世はダレイコス金貨を発行します。
※ ペルシア王キュロス二世(在位559~前550)は、帝国を形成する際にリディア王クロスソスを倒しましたが、クロイソスが作り出した「コイン」の発行システムは逆にペルシア帝国を征服したかたちになりました。・・・・・・ギリシアの歴史家ヘロドトスによると、ダレイオス1世1年間に36万7000キロもの銀を税として徴収し、それで、ダレイコス金貨とシグロス銀貨を大量に生産しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P19)
※ (ダレイオス1世は)貨幣制度の面においても、バビロニア、アッシリア起源の重量制に関係をもつ、リュディアおよびギリシア諸都市の通貨制度を取り入れ、これを再編成して、重量、金位、形式を統一し、その広大な領域内に通用させた。・・・・・・これがギリシア人によってダレイコスと呼ばれたペルシア帝国の金貨である。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P188)
また、ダレイオス1世は地方組織も拡充します。
※ ダレイオスをして、・・・・・・ととのった官僚的機構を工夫せしめたものは、その治世の初年における四方の反乱である。・・・・・・地方長官には、絶対に異民族を用いず、王族またはペルシア人の貴族の中から人を選んでこれにあてた。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P438)
※ ダレイオス1世は帝国を画一的に州(サトラピー)に分け、各州に知事(サトラップ)を置いて統治させた。これはアッシリアの制度を受け継いだものだった。知事は各州の軍事と民政の双方を掌握し、王族や貴族から任命された。特に徴税は重要な任務であった。知事は強大な権限をもっていたが、王は「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を巡回させ、彼らの動向を監視した。ダレイオス1世は金貨と銀貨を製造させた。アケメネス朝の地方行政で特徴的なのは、新しく行政区「サトラピー」が設けられたことと、各行政区が徴税区としても機能していたことである。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P27)
【ゾロアスター教】 このペルシャ人の宗教は・・・・・・今はイスラーム教になっていますが・・・・・・もともとの伝統的な宗教としてはゾロアスター教です。
これいつ発生したかよくわかりません。この頃だという説と、いやペルシャよりも700年ばかり前だという説、700年の開きがある。つまりよくわからないということです。でもこれがイラン独自の宗教であることは確かです。
※ 前二千年紀には印欧語系の人々はインドとともにイラン高原にも進出している。インドでは原住民を征服しカースト制度の原型をつくったが、イラン高原では逆に原住民に同化吸収されてしまった。そのころ鉄器と騎馬術が急速に普及してきたので、新たな戦士団が形をなしつつあった。旧来の因襲的な秩序がすたれ、社会は混乱するばかりだった。このような混乱に満ちた世に生まれ、人々の苦難のすさまじさにゾロアスターは心をなやませた。・・・・・・
ゾロアスターには真の神は唯一のものであるという確信があった。その神とは叡智と光明の創造神マフラ・マズダーであった。・・・・・・ゾロアスター教はしばしば二元論の宗教といわれる。しかし、その教えるところは、光と善を実現する唯一の神である。・・・・・・正義に従った者だけが救済される。なぜなら、それらの者は死後の最終審判において天国に行くことができるのである。(多神教と一神教 本村凌二 岩波新書 P106)
※ インド・イラン人のそれまでの宗教において重要な要素であったところの超自然的な力は、たとえそれが害をもたらすものであったとしても神として尊ぶ、という側面は、否定されることになった。これは古くはダエーワと総称される神々であり、破壊的な力を所有するものとみなされていた。ゾロアスターにより彼らは明白に悪に属するものとされ、彼らを崇拝する人々と同様、滅ぼさねばならない敵となった。(世界の歴史 4 オリエント世界の発展 小川英雄・山本由美子 中央公論社 P104)
ゾロアスター教は、人は死んで終わりではなくて、それから本番が来るという発想です。だから死んだ後に最後の審判があって、天国と地獄に振り分けられます。天国に行く人と、地国に行く人。「そんなバカな」と言ったらダメですよ。「ホントですか」という話はしてない。「そういうふうに信じられてきた」という話をしています。そして「その信仰が社会を変えていく」ということを言っているんです。人の信仰の力はバカにできない。
【ユダヤ人の解放】 ペルシア人が良いのは、自分が信じてるからといって、人にそれを押し付けないことです。「おまえは別の考え方しているけど、まあいいだろう」と。
それで誰を解放したか。紀元前538年に、バビロンから、囚われの身になっていたユダヤ人を解放したんです。異民族に対しては寛容です。だからユダヤ人はペルシア人が好きです。解放してくれたからです。ただ全員がイスラエルに戻ったわけではなく、バビロンに留まったユダヤ人も多かった。だからこのあとも、バビロンはユダヤ教徒の拠点として繁栄を続けます。
※ バビロン「捕囚」が決して苛酷なものでなかったことは、ペルシアによる解放後もかなりの数のユダヤ人が自発的にバビロンに留まったことにも示されている。(聖書時代史 旧約篇 山我哲雄 岩波書店 P177)
※ バビロン捕囚で連れ去られた人々とその子孫のうち、ほんの一部分しかエルサレムにもどらなかった。残りの人々、すなわち彼らの大半は、東方で花開き、まさに沸き立ちつつあったユダヤ文化の中心地に定着し、そこで繁栄する道を選んだ。(ユダヤ人の起源 シュロモー・サンド ちくま学芸文庫 P292)
※ ユダヤ教徒もまた、前7世紀のバビロン捕囚以来、バビロンを一つの根拠地として確固とした民族集団を構成していた。・・・・・・バビロンのユダヤ教徒は、極めて安定した裕福な社会を形成した。その結果、ユダヤ教の正統的な教義は、パレスティナよりはむしろバビロンにおいて発展し、のちにバビロニア・タルムードの完成をもたらした。(世界史リブレット4 マニ教とゾロアスター教 山本由美子 P21)
※ イラン民族の民族宗教は、もともとは古代インドのヴェーダの宗教と同様の多神教であったが、おそらくザラトゥシュトラの改革によって、・・・・・・もっぱら主神アウラマズダを尊崇することを中心とする一神教に近いものとなり、倫理的な内容も「心正しく、ことば正しく、行い正し」きことに理想をおく、素朴ではあるが呪術的な宗教の域を脱した深い教えとなったものであろう。そして、善悪の二原理を認める二元論の世界観を根底とした。おそらくダレイオスの奉じたのもこの教えであろう。
そしてユダヤ民族のヤーヴェの神の一神教には、自分たちの宗教にもっとも近いものとして共感がいだかれたのであろう。捕囚のユダヤ人を故郷にかえして、神殿を再建させるなど、とくにペルシアの王が好意を示した背景には、たしかに一因として宗教上の共感ということがあったかも知れない。同時にアウラマズダの宗教も、逆にユダヤ教に影を落とさずにはいなかったように思われる。善と悪との戦い、世のおわわりがきたときに死者が復活して受ける最後の審判などの思想は、あきらかにマズダ教の影響を考えさせる。(世界の歴史2 古代オリエント 岸本通夫他 河出書房新社 P441)
ユダヤ人をバビロン捕囚から解放してくれたアケメネス朝ペルシャの王がキュロス2世です。ユダヤ人にとっては救世主が現れたのです。
ユダヤ人は一神教徒で選民思想の持ち主です。「自分たちだけが選ばれたんだ」「オレは特別な人間なんだ」と思ったんです。
※(●筆者注) バビロン捕囚後のエルサレムは次のように支配者が変わる。
前586~539 新バビロニア
前539~333 アケメネス朝ペルシャ
前333~301 アレクサンドロス帝国
前301~198 プトレマイオス朝エジプト
前198~ 141 セレウコス朝シリア
前141~ 64 ハスモン朝・・・・・・ユダヤ人の一時的独立
前64~後395 ローマ帝国・・・・・・ポンペイウスの征服
※ (ハスモン家の)ヨナタンの栄達立は、ユダヤ内部におけるハスモン家の地位と意義に根本的な変化をもたらした。すなわち、それまで宗教迫害に対する抵抗運動とユダヤ人の解放戦線の指導者であったハスモン家の人々が、今やシリアの王権と結び付き、事実上その属王としてユダヤ人を支配する政治的・宗教的権力者となったからである。同時に、ハスモン家が大祭司の地位を手にしたことは、大きな問題をはらむものであった。第二神殿時代の大祭司職はアロン系のツァドク家によって独占され、それ以外の者はこの地位につけないはずであったからである。したがって一般祭司の家系にすぎないハスモン家の大祭司職就任は、この宗教的伝統に反するものであった。しかも、戦いの指導者で多くの流血と関わったヨナタンは、死と関わってはならないとされる大祭司の厳しい清浄規定から見ても大祭司にふさわしい人物ではなかった。(聖書時代史 旧約編 山我哲雄 岩波書店 P251)
※ (前141年からの)ハスモン家の支配者は、大祭司の地位と政治的支配者(王)の地位を兼務したが、このような聖俗の権力の一本化は、イスラエル・ユダヤの歴史でかつて一度も見られなかったものであり、むしろ新種の現象であった。しかも、ハスモン家にはそのいずれの地位に関しても、正当性に関して問題があった。前述のように、一般祭司の家系であるハスモン家は、本来なら大祭司の地位に就けるはずはなかった。しかもその地位は、異教徒であるシリア王の任命ないし承認によるものであった(聖書時代史 旧約編 山我哲雄 岩波書店 P258)
【アレクサンドロス】 しかしここに西からやってくるのが・・・・・・インドでも出てきたけれど・・・・・・ギリシャ北方から大帝国を築く大王が出てくる。ギリシャはまだやってません。この後やります。
世界史の難しいところは、地域ごとに縦にやっているから、大人物は横のほうから、まだ授業でやってないところからスーッと領土を横に広げると、突然やってくるような形になる。
これはある意味、仕方がない。5つの物語を同時に理解するには、テレビを5台同時につけておかないと説明できない。でもテレビ5台は同時に見れない。人間の頭はそれほど賢くありません。でも世界史はそうやって進みます。
アレクサンドロスの国がマケドニアです。これはギリシャの一部です。アテネの北、300キロぐらいのところにあります。ギリシャは狭いところです。そこの若きアレクサンドロス大王、英語読みでアレキサンダー、アラビア語読みでイスカンダルです。有名人は国によって何通りも呼び方があります。
彼は東方を征服し、まずこのアケメネス朝ペルシャを征服した。それが紀元前330年です。これで誰が見ても大帝国です。しかしもっと東のインドまで行こうとしていた、という話をインドでやりましたね。
しかしこの帝国は、ワンマン社長アレクサンドロスが・・・・・・これは殺されたという話があってどうもはっきり書いてないけど・・・・・・急死する。病死となっている。その瞬間にこの帝国は瓦解する。
国が続きませんね。こういうところが中国と違うところです。この地域ははてしない混乱のなかにあるということです。
▼アレクサンドロスの東方遠征
【三国分立】 そしてまたすぐ分裂していきます。
1つ目が、本家のあったマケドニア。
2つ目が、プトレマイオス朝エジプト。このエジプトに後で出てくる絶世の美女というのが、女王クレオパトラです。
3つ目が、セレウコス朝シリアです。
この3つに分裂します。
分立の続きを書くと、
四国対立 → アッシリア → 四国分立 → アレクサンドロス → 三国分立、となります。果てしないです。
【ヘレニズム文化】 ペルシャを征服したのが、ギリシャ人のアレクサンドロスだったから、分裂した後もギリシャ風の文化はペルシャに残っていく。これをヘレニズム文化といいます。ヘレナはギリシャ人の別名です。ヘレニズムとはヘレナ風つまり「ギリシャ風」という意味です。
文化と文化が自然と融合していったような平和なイメージで語られますけど、実際はそういうものじゃありません。ヘレナであるギリシャ人が、ペルシャ人たちに自分たちの文化を強制的に押しつけていったんです。それが一つの文化名にまでなったということは、その強制が徹底していたということです。
文化を融合させるときに一番手っ取り早いのは、血を混じり合わせることです。混血させることです。ギリシャの荒くれ兵士たちに、ペルシャの女性をあてがって子供を産ませるんです。20~30年も経てば、その子供たちはギリシャ文化とペルシャ文化を両方受け継いだ大人になる。戦争に強姦・略奪はつきものです。そして戦争が終わると、どこの国でも子供がいっぱい生まれます。
問題は、ペルシャ人女性が不本意にギリシャ人の子供を産んだということです。世界市民主義とか、コスモポリタニズムとか立派な言葉で言われますが、その裏にはそういう事実が隠されています。一つの民族文化が、他の民族文化と何の強制もなしに融合することはありません。
※ 実際にアレクサンドロスらがペルシアでおこなったことは、配下の武将たちによるペルシア男性の大虐殺と、ペルシア女性の集団強姦でした。父や兄弟を殺したギリシア人とペルシア人女性が好きこのんで結婚することなど、あろうはずがありません。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P51)
そうやってペルシャはギリシャ風の文化に染まります。そのギリシャ人は、神様でもなんでも人間の姿の通りにつくっていく。そのギリシャ風の文化が浸透したイラン地方つまりペルシャで、また別のギリシャ風の国がでてくる。
【パルティア】 これがパルティアです。紀元前3世紀~紀元後3世紀だから、これはけっこう長い。約600年間です。ペルシャ地方、イランの北東部あたりからおこったイラン系遊牧民の国です。カスピ海東南地域のパルティア地方から、イラン系遊牧民を率いる族長アルサケスがセレウコス朝から独立し、アルサケス朝パルティアを開きました。
ではペルシャ語を使ったのかというと、公用語はギリシャ語です。王様が使っている言葉、宮殿で使われている言葉はギリシャ語です。こういうふうにこの国はギリシャ文化の強い影響を受けています。イラン人がギリシャ語を使っている。
インド北西部には、ギリシャ風のバクトリアという国も出来ます。
この頃の中国は漢の時代で、このパルティアは王家の名前がアルサケスであったことから、中国史には「安息」という国名で出てきます。
しかし、「俺たちはイラン人だ、ペルシャ人だ、俺たちはもっとペルシャ人の誇りを持っていいんだ」、そう思う人たちも多くいて、次にそういう国にとって代わられます。
【ササン朝ペルシア】 これがササン朝ペルシャです。226年の建国です。ササン家という王家です。前はアケメネス家という王家だった。今度はササン家という王家です。この国は、イラン系遊牧民ではなく、イラン系農耕民を勢力基盤とした国です。約400年間、651年まで続きます。
のちこれを滅ぼすのが、正統カリフ時代のイスラーム国家です。
この国の特徴は、「オレたちはパルティアの後釜じゃない、イラン文化を大事にしたアケメネス朝の跡継ぎなんだ、600年前に滅んだ国の跡継ぎなんだ」という民族の気概です。
「オレはペルシャ人だから、ペルシャ語を使うのが当たり前だ、ギリシャ語なんか使わない、オレはペルシャ語をつかう、ペルシャ人がペルシャ語を使うのは当たり前だろう」、こういう形でペルシャ文化が復興していく。
※ パルティアでは、支配階級であるイラン系遊牧民が非征服民である農耕民と融合するにつれ、1世紀頃からしだいにイランの伝統文化の復興がはかられるようになり、ゾロアスター教が信仰を取り戻すようになった。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P31)
そのササン朝ペルシャの領域ですが、カスピ海の南半分、それから黒海まで達して、トルコまではいかない。バビロニアまで。アケメネス朝ペルシャよりもやや小さいけれど、それでも大帝国であることには変わりはありません。
【マニ教】 この一帯には、今まで出てきただけでも、いろんな宗教が発生しています。
ペルシャ人はゾロアスター教だった。
その後、まだ言ってないけれど、ユダヤ教からキリスト教が生まれてい。
インドは仏教です。
そういう宗教がすでにこの一帯には広がっています。その中で「ゾロアスター教だけが俺たちイラン人の宗教だ」というと、1つの民族としてはそれでいいんだけれども、宗教同士はよくケンカするんです。
「ケンカしないように、みんなとりいれていこう」、そうやってゾロアスター教・キリスト教・仏教を全部取り入れて融合させた宗教がこのササン朝で出てくる。これがマニ教です。これが一世を風靡する。非常に一時流行るんです。
ただ考え方としてはペルシャ文化はゾロアスター教です。それに対して、このマニ教は何でも屋です。「何をしているのかよく分からない」という批判があって対立関係になる。
マニというのは人名で、3世紀の人です。イラン人なんですけど、最初はユダヤ教に近かったらしい。実はユダヤ人は前6世紀のバビロン捕囚からの解放後も、バビロンに留まった人のほうが多くて、そこでけっこう豊かに暮らしていた。それから700年経ったこのころも、バビロンは文明都市として繁栄しています。
マニはそんなバビロンで育ちました。もう既にキリスト教も発生して、ペルシアの伝統的なゾロアスター教のほかに、一神教のユダヤ教やキリスト教もはいってきて、それらが混在していたようです。この一神教の拡がりは、アラビア半島も同じで、かなりのユダヤ教徒やキリスト教徒がそこに住んでいました。このことはこの400年後にアラビア半島から強力な一神教であるイスラーム教が発生する前提になります。
マニの宗教はその逆で、そのような一神教に疑問を持ち、ざまざまな宗教を融合したマニ教を創始したのです。しかし時代は急速に一神教に傾いていきます。4世紀にはローマ帝国がキリスト教を国教とし、7世紀にはもっと徹底したイスラーム教がアラビア半島に発生します。キリスト教もイスラーム教も一神教です。そしてマニ教は弾圧されるようになります。
※ マーニー(マニ)が4歳のとき、(父の)パテーグは・・・・・・家族ともどもグノーシス主義の一派になるユダヤ教の洗礼派、もしくはエルカサイ派と呼ばれるグループにはいったので、マーニーはこのグループのなかで育った。マーニーはこうして、父母のゾロアスター教徒的伝統を受け継ぎながら、アラム語で意思を疎通するバビロニアという土地に住み、ユダヤ教とグノーシス主義的教養とをあわせもつことになった。(世界史リブレット4 マニ教とゾロアスター教 山本由美子 P25)
※ ユダヤ的なものは彼(マニ)の興味を引かず、むしろ彼を苛立たせた。彼はユダヤ教の律法の書を嫌悪していた。・・・・・・なぜなら、その書は、依然としてモーセ律法に仕えつづけるものであり、マニのかつての仲間たち、すなわち洗礼教団の信徒たちをして、自分たちもキリスト教徒だと言いながら、なおもモーセ律法のくびきの下に従属せしめていたからである。この矛盾の自覚が、彼にエルカサイ主義と訣別することを決意させたのである。(マニ教 ミシェル・タルデュー 白水社 P66)
※ (マニ教では)世界は悪魔的な実体、すなわちアルコーン(悪魔)たちの身体から創造された。そして人間は最も醜悪な姿をとった悪魔的な力が作り出したものである。・・・・・・人間存在は、宇宙の生命と同様に、聖なるものの敗北がもたらしたスティグマ(負の印)に過ぎない。(世界宗教史4 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P257)
ササン朝ペルシャでなぜマニ教のような、ミックス宗教がでてきたか。これは商人と関係があるんです。この国は中継貿易で儲けている商業の国です。生産ではなくて貿易中心です。貿易というのは、近くで販売してもたいして儲からない。日本のものを遠く東南アジアとかアフリカとか、ずっと遠くにもっていくと、値段が10倍にも20倍にもなる。
ということは、当然考えが宗教の違う人と仲良くしないと商売できない。だからマニ教のようなミックス宗教が好都合です。そういう誰とでも調和できるような宗教がいい。
ササン朝は中継貿易が非常に重視されていた通商国家です。パルティアのような遊牧民ではなく定住民に基礎を置く国ではあるけれども、純粋な農業国家ではない。通商がかなりの比重を持ちます。
そういうジャンル分けをすると日本は農業国家です。中国も農業国家です。しかしこのあたりは砂漠で農業はできない。ちょっと考え方が違うんです。
これで終わります。ではまた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます