通常アメリカはピルグリムファーザーズに代表されるイギリス系ピューリタンによる移民の国と思われている。
そしてこのピューリタン的倫理こそ、資本主義の精神を築いたものだと考えられている。
そのことを論証した本だと考えられているのが、マックス・ウェーバーによる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である。
しかし昨年9月以来のアメリカのサブプライムローン問題に端を発する世界同時不況は、そのこととは別の事実を突きつけているように思える。
アメリカが世界不況を引き起こしたのは今回が最初ではない。1929年の世界恐慌以来2度目である。
『サブプライムローン問題の本質は、「強欲資本主義」が貧乏人から金を巻き上げるために生み出したシステムである。』
(『強欲資本主義 ウォール街の自爆』 神谷秀樹著 文春新書 P130)
その結果リーマン・ブラザース証券は倒産した。
しかし、リーマン・ブラザーズを倒産させたリチャード・ファルド社長の昨年のボーナスは約45億円である。彼はユダヤ人である。
『アメリカの金融業界とマス・メディア業界を牛耳っているのは、多くは、ユダヤ系の優秀な人々である。』
『アメリカは、初期にイギリス系白人とともに、徐々にユダヤ人が移民として流れ込んできて、この両人種が契約を結んで建国した国である。』
(『世界覇権国家アメリカを動かす政治家と知識人たち』 副島隆彦著 講談社+α文庫 P249 P248)
第二次大戦以前は、そのことは広く知られていた事実だった。
学問の世界でもそうで、ユダヤ教の倫理とプロテスタンティズの精神が結びついていると考える学者がいた。
それが、ヴェルナー・ゾンバルトである。
ゾンバルトとウェーバーは同時代を生きた、ともにドイツの社会学者である。
① ゾンバルトが『近代資本主義』を書いたのが、1902年である。
② それに触発されて、ウェーバーが『プロテスタティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたのが、1905年である。
③ さらにそれに対してゾンバルトが『ユダヤ人と経済生活』(『ユダヤ人と資本主義』とも邦訳される)を書いたのが、1911年である。
この時代はまだナチスドイツによるユダヤ人虐殺が起こる前であり、ユダヤ人問題に対する政治的意図は、これらの著作には全くない。
純粋に学術的な著作である。
ウェーバーの『プロテスタティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)は、
それに先行する『ゾンバルトの「近代資本主義」(1902年)のユダヤ人に関するコメントに触発されて書かれたものである。』
(金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ 副島隆彦編著 祥伝社 P82)
ゾンバルトのユダヤ人に関するコメントを見て、ウェーバーは、ユダヤ人の他にもこれと似た現象があることに気づいた。
それが『プロテスタンティズム』であった。
ユダヤ教とプロテスタンティズムは全く別の宗教ではない。
歴史的にいえば、ユダヤ教の異端として発生したのがキリスト教であり、そのキリスト教の異端として発生したのがプロテスタンティズムである。
ユダヤ教 → キリスト教 → プロテスタンティズム
という流れになる。
ユダヤ教は神ヤーヴェのみを唯一神とする世界初の一神教である。キリスト教やイスラム教などの一神教の歴史はここから始まる。
それに対してキリスト教は、神ヤーヴェのみならず、イエス・キリストも神とする。さらにこれに精霊も合わせて、これを三位一体という難しい言葉をつくり、神の概念を3つに分けて考える。これは多神教的要素をうちに含んだ一神教である。
しかしプロテスタンティズムは、神と個人の一対一の関係を重視し、ただ一つの神という意識を強化したものである。
逆にいえばプロテスタンティズムは、キリスト教が強い一神教であるユダヤ教の方向へと先祖返りしたものである。
ゾンバルトは資本主義の精神はユダヤ教に由来すると説く。
それに対してウェーバーはプロテスタンティズムに由来すると説く。
どちらが本当なのか。
これに対してゾンバルトは次のような結論を出す。
『ピューリタニズムはユダヤ教である。』
『資本主義の精神の形成にとって実際に意味があったように思われるピューリタンの教義の構成要素のすべてが、ユダヤ教の理念圏からの借り物であった。』
(『ユダヤ人と経済生活』 P383 P9)
(ピューリタニズムというのはプロテスタンティズムの一派である。プロテスタンティズムにはルター派とカルヴァン派があり、このカルヴァン派のことをピューリタニズムという。)
ゾンバルトはこうやって両者に矛盾しない答えを導き出したのである。
ゾンバルトは2つの異なる現象の中に、共通する一つの思想的基盤を見いだしたのである。
だから資本主義を研究しようと思えば、プロテスタンティズムを研究するだけではなく、ユダヤ教をも同時に研究しなければならなかったはずであるが、
ゾンバルトの主張は忘れられ、ウェーバーの主張だけが注目されることになって現在に至っている。
ゾンバルトの主張が忘れられたのはそれが学問的に否定されたからではない。
その後の世界的な出来事がゾンバルトの主張を忘れさせる方向に動いたのである。
それがナチスドイツによるユダヤ人殺害という悲劇である。
ドイツの敗戦とともにゾンバルトの主張も忘れられていった。
ゾンバルトは資本主義が良いとも悪いとも言っていないし、学問に価値観を持ち込むことを厳しく否定していたのだが(価値自由)、ゾンバルトが生きていた時代には、資本主義の勃興を否定的に見る風潮が強かった。
日本でもそうだが『金儲け主義』というのは、当たり前のようには認められないのである。
そういう社会の風潮の中では、ゾンバルトの主張とは無関係に、
資本主義のルーツがユダヤ教にあるとすると資本主義のイメージは悪くなり、
逆に、資本主義のルーツがプロテスタンティズムにあるとすると資本主義のイメージは良くなる、そういう構造を持っていた。
なぜならば、シェークスピアの『ベニスの商人』に見られるごとく、ユダヤ人の評価はヨーロッパ社会の中ではマイナスのイメージを持ってみられていたからである。
それに対してウェーバーは資本主義の精神の中にプロテスタンティズムの禁欲的精神を見いだした。
ユダヤ人の金貸しのイメージに比べると、プロテスタンティズムの禁欲の精神は、キリスト教徒にとっては評判が良かった。
このようななかで、ナチスドイツによるユダヤ人の虐殺後、ゾンバルトの主張が忘れられ、ウェーバーの主張が定説として定着すると、
資本主義の正当性も同時に増していった。
資本主義、生存競争、弱肉強食、自由放任、自由競争、そういった概念が次第に正当化されていったのである。
しかし今世紀に入って経済学の世界ではすでにそのような新自由主義的傾向に異論が唱えられていたし、
昨年9月に起こったアメリカ発世界同時不況は新自由主義や、グローバル資本主義に対して反省を求めつつある。
資本主義の精神を研究するためにはプロテスタンティズム的禁欲の精神からだけでは不十分であり、
ユダヤ教の研究も同時に行わなければならないということを、
すでに100年も前にゾンバルトは主張しているのである。
世界を動かすアメリカウォール街の金融界に対して、もう一度我々は冷静な目を持たなければならないのではないだろうか。
ゾンバルト以降の大まかな流れを示せば、
プロテスタンティズムとユダヤ教は資本主義を支える車の両輪であったが、
プロテスタンティズムがおもに産業資本主義を構成したのに対して、
ユダヤ教はおもに金融資本主義を構成していったのである。
1980年代には、アメリカの産業資本は凋落した。
だからアメリカは金融立国を目指した。
そこらへんからおかしくなった。
ユダヤ人とアメリカ金融資本は最初から結びついていた。
ユダヤ人とアメリカ金融資本との関係は根深いものがある。
(ゾンバルトの著書の一部は現在も刊行されているが、『近代資本主義』、『ユダヤ人と経済生活』(ユダヤ人と資本主義)の両書が絶版になっていることは残念である。)