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新「授業でいえない世界史」 7話の1 古代インド インダス文明~ヴァルナ制度

2019-08-26 08:55:41 | 新世界史3 古代インド

【インダス文明】 ここからはガラッと変わって、インドに行きます。
 インドは東の川と西の川に囲まれた地域です。西のインダス川、東のガンジス川。今はこのガンジス川がヒンドゥー教の聖なる川として有名です。しかしインドの文明はここからではなくて、西のインダス川から発生しました。ここも四大文明の一つです。
 インド文明のことをインド文明とは言わない。インダス文明と言います。インダスとは、インドのという意味だから、同じことですけどね。

 これが今から紀元前2500年といいますから、今から4500年ぐらい前に文明が栄える。約700年間ぐらい。
  なんでそんなことがわかるか。文字はないから土の中から掘り起こす。その遺跡がモヘンジョ=ダロです。それからハラッパーです。東のガンジス川ではなく、西のインダス川周辺です。
 そこの遺跡を見ると、どういったことがわかるか。普通は文明ができると王が出てくるんですよ。中国でも出てきたでしょう。神権政治という神様と繋がっている王権が。
 でもここには、王がいた気配がない。王の宮殿のような跡がないんです。なぜなのか。死者の住む街だったから、という話もあります。


インダス文明(1) UFO University ( UU )



※ 地中海地域と西欧の巨石文化において、死者儀礼と結びついた祭祀センターはメンヒルやドルメンによって、まれには聖所によって聖化されていた。・・・・・・すでにあきらかにされたように、真の巨石文化的「都市」は死者のために造られた、すなわち、それらは死者の都であったのである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P187)


 では、どういう人たちがここに住んでいたのか。民族でいうとドラヴィダ系の人、この説が有力です。どういう人か。今のインド半島の南の方に住んでいる人たちです。そのご先祖様です。



 【アーリア人】 これが紀元前1500年頃突如、滅亡する。なぜだかよくわからない。とにかく都市があったということはわかる。いろんな噂があります。急に寒くなったとか、急に洪水が来たとか、異民族がやってきたとか。決定打がありません。

 ただ、なぜ滅んだかはわからなくても、異民族がインドに侵入してきたというのは本当です。ドラヴィダ人が住んでいた所に、新しく別の言葉を操る顔かたちが違う人たちがやってきた。彼らをアーリア人という。これがちょうどインダス文明が滅んだ頃なんですね。
 このアーリア人が今のインド人の中心になっていく。もともとどこに住んでいたか。インドの北西です。中国史でも、中国のずっと西のほうとしてでてきた中央アジアというところです。カスピ海の東あたり、今はカザフスタンとか、トルクメニスタンとか、ウズベキスタンのあたりです。
 そういったところから、半分は農業し、半分は牧畜をやっている、牛とか馬を飼っている、そういうやや気性が荒い人たちが侵入して来て、ドラヴィダ系の先住民を征服していった。そして奴隷にしていった。


※ 中国人というのは、インド人の祖先がはじめは確かに牧畜民だったのが、のちに農業民となり、さらに都市生活者にかわっていったケースとはっきりことなっている。(世界の歴史3 中国のあけぼの 貝塚茂樹 河出書房新社 P99)


▼アーリア人の侵入


 それが今にいたるまでインドの社会構造をつくっています。インドは今でも強い階級社会です。いわゆるカースト制度です。今でも政治問題になります。



【リグ=ヴェーダ】 彼らアーリア人がどういう宗教や神様を信じていたかというのは一つの文献が残っている。彼らが神を祭る儀式や、その時の祈りの言葉とかを書きとめている。これを「リグ=ヴェーダ」といいます。

 神様の祭り方、やっぱり政治に神様は欠かせないですね。個人の信仰よりも、この時代は、政治とか国家に神様はからんでくる。個人の信仰は、もっと自我の不安が大きくならないと出てこないようです。この時代にはまだ個人よりも、自分の属する集団や部族全体の安泰を祈る気持ちのほうが強かったようです。それが個人が集団や部族から切り離されて、自我の不安を意識するようになると、個人の信仰上の問題が出てくる。しかしそれはもっと後のことです。

※ (リグ・ヴェーダ時代は)諸部族の上に王(ラージャン)が支配権をもって君臨した。王位は時として選挙によることもあったが、ふつうは世襲であった。ただ即位にさきだって、人民の承認をうる必要があった。王権はかなり強大であったが、各部族の集会の「同僚のうちの第一位にあるもの」という資格で選ばれた。つまり、集会に集まった人民の意志によって制限を受けたのである。部族全体にかかわる重大な用件について意志決定をするときには、部族の有力者たちが提示した方針を審議するため、部族の全員が出席する集会がひらかれたことは疑いない。しかしこの集会が実際にどのような役割をはたしたかは、史料不足のため、ホメロス時代の古代ギリシャの集会に類似しているということしかわからない。王の最大の義務は部族とその領域の保護であって、外敵と戦い、戦利品としての土地、奴隷、家畜の分配を行い、部族員に対する懲罰権をもっていた。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P92)


 もともとドラヴィダ人が住んでいた地域に、中央アジア方面から、北西のカイバー峠を通ってアーリア人が侵入してくる。
 では昔からそこにいた人は誰か。それがドラヴィダ人です。彼らはアーリア人の侵入によって、ところてん式に押し出されて南に移動する。だから彼らは今もインド南部にいるんです。彼らが南のドラヴィダ人です。
 北がアーリア人です。アーリア人は白人です。もともとはイギリス人やドイツ人と同じ人たちです。インド人とヨーロッパ人はちがうじゃないかと思うけど、実はご先祖はいっしょです。

 今もインド人は公用語の一つとして英語を使ってますが、それはイギリスの植民地支配という不幸な歴史があったためですが、それとは別にもともとのアーリア人の言葉がヨーロッパの言葉と近かったということもあるのでしょう。だから根づきやすかった。
 日本人に英語を根づかせようとするのとは、わけが違うと思います。我々が使う日本語は、英語とはまったく違った言語体系をもってます。語順からして違います。だから日本人が英語を習得するのは大変です。

 この二つの民族が混血して何千年と過ぎると・・・・・・ドラヴィダ人は肌の色が黒かったから・・・・・・インド人の肌の色はだんだん黒くなる。しかもインドでは南に行けば行くほど肌の色は黒くなります。逆に北に行けば行くほど白くなります。同じインド人でも、かなり肌の色の違いがあります。
 インド人は肌が黒い人とばかり思わないでください。侵入してきたアーリア人はもともと白人です。

※ 「リグ・ヴェーダ」の記述のなかからはっきりと読み取れることは、インドに侵入したアーリア人がダーサ(原住民)と戦い、河を渡って新しい地域をかれらから奪ったという経緯である。・・・・・・原住民の多くは、アーリア人の攻撃にさきだって山中へ避難し、逃げおくれたものや捕虜になったものは多くのばあいに奴隷にされた。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P67)

※ アーリア人が彼らの軍神インドラの庇護のもとに、先住異民族をつぎつぎに征服し、しだいにその勢力をパンジャーブ地方へと拡大していったことは、インド最古の文献である「リグ・ヴェーダ」中の、インドラの悪魔退治の神話に伝えられている。(ヒンドゥー教 森本達雄 中公新書 P75)


 彼らアーリア人が、ドラヴィダ人を征服して奴隷化していき、インドに根付く階級制度を作っていきます。これがカースト制度です。あとで言いますが、今も残っています。決して過去のことではない。現在に結びついています。

 そういう新しいアーリア人が、次にはどこに移動するか。そのまま東のガンジス川流域へ進出していく。これが紀元前1000年頃、紀元前1500年から500年過ぎたころです。そうすると自分たちは白い。もともと住んでいた人たちは黒い。白と黒で差別していく。こういう階級社会、階級制度のことを現在では、ヴァルナ制度という。ヴァルナとは、もともとの意味は肌ののことです。肌の色で差別が発生します。



【バラモン教】 インドの宗教は、今はヒンドゥー教ですが、その前の段階がある。彼らアーリア人が信仰していた宗教はバラモン教です。
 インド人の宗教の特徴は墓がないんですね。つまりここには中国や日本に見られるような祖先崇拝の観念が非常に薄いのです。だからといって日本と関係ないのではありません。それどころか日本が一番影響を受けた宗教は、このインドの宗教だと言ってもいいくらいです。

※ ヒンズーの死者には墓がないのが普通である。・・・・・・インド全土において、祖先崇拝にはきわめてわずかな関与がなされるにすぎない。(比較文明社会論 シュー著 培風館 P41)

※ (インド人には、一族の)系譜を保存するということが、孝行にかかわる問題として、祖霊に対する供養になる、という感情は存しない。こうしたことはすべて、中国人の系図への関心とはっきりとした対照をなしている。(比較文明社会論 シュー著 培風館 P40)


 仏教の空の思想、「この世はもともと空だ」とか、聞いたことないですか。般若心経の「色即是空」、「空即是色」の「空」です。仏教思想は根本は「空」だから、人間死ねば空っぽになる。エジプト人のように再生を願って復活するためにミイラをつくったりしない。だから何も残らないように火葬する。火葬したら何も残らないでしょう。または墓をつくらずにガンジス川に流す。

※ インド人は生と死のすべてを自然の大きなめぐりと観じ、霊魂は肉体の死後も生きつづけ、天界の楽土に赴き、祖霊たちと再会したのち、やがて再びこの世に生まれかわるのだ。そして自分は、少なくとも今生で、あれこれ善い行いをしてきたのだから、来世はきっと現世より幸多く生まれるに違いない、そうした期待と信念を胸に抱いているのである。したがって、魂のぬけた亡骸に彼らはなんの未練ももたない。死体は空の器にすぎないのであり、蛇のぬけがらのように不要である。こうして周知のように、ヒンドゥー教徒は墓をつくらず、死者は荼毘に付し、遺骨は砕いて灰とともに天国に通ずる聖なる川に流すのである。(ヒンドゥー教 森本達雄 中公新書 P15)


 さすがに今は衛生上よくないということで、あまりしないようですけど、我々が小さい頃はよくそんな写真を本で見ていた。
 人が体を洗っているガンジス川で、死体がプカーっと浮いて流れている。殺人だ、と日本人だったら驚きそうなシーンを、インドの人たちは「また聖なる川に死体が流れているな」と平然としている。それで終わりです。だからインドには墓がない。
 日本も火葬しますけど遺骨を残します。そしてそれを墓に入れる。だから日本の仏教思想は完全に「空」ではない。別にそれがいけない、と言っているわけではありません。ただ違いを言っているだけです。

 アーリア人の考え方は、宇宙の神様はブラフマン、自分の心はアートマン、この2つです。バラモン教のバラモンはこのブラフマンが訛ったものです。

※ サンスクリットでは、この究極実在としてのブラフマンとヒンドゥー教の創造神ブラフマー(梵天)は同じ語だが、前者は中性名詞で主格形もブラフマンであるのに対し、後者は男性名詞のため主格形はブラフマーとなる。またブラフマンの力をつかさどる祭官のことをブラーフマナ(バラモン)という。(エンカルタ百科事典)


 BRAHMAN(ブラフマン) → BARAMON(バラモン)となります。ブラフマンとアートマン、なんかウルトラマンみたいですが、漢字でいうとです。中国人がこういう字を当てはめたのです。
 人生の目標は「こういう宇宙の神と自分の心を合体すること。それで人生は成功なんだ」というものです。でもそれはタダではできない。そこに修行という考え方も出てくる。
 これはヨーロッパのキリスト教徒ともだいぶ違う。中国から日本に仏教は伝わりますから、そういうのを漢字で梵我一如という。これは中国人がインド思想を漢字で表したものです。梵我一如とは「我が梵と合体して完全に消えてなくなること」です。インド人にとって理想の死に方は、無になることです。これは命の再生を願ってミイラをつくった古代エジプト人とも違いますし、復活を願うキリスト教とも違います。

 これができる人は、世の中の自分のいろんな欲求、これを「煩悩」といいますが、その煩悩から解き放たれて、すがすがしく心が解放された状態になることができる。その状態を「解脱(げだつ)」といいます。日本流にいうと「悟り」です。これが人生の目標です。
 そうなるためには、生きているうちから修行を積み重ねる必要があるのです。そういう修行をしないつまらない人間ほど、何度でも生き返ってしまう。それを「輪廻(りんね)」というのですが、最高の死に方はその輪廻の悪循環から解き放たれて、2度と生き返らない状態、つまり「無」になることなのです。

※ 「梵我一如」と「輪廻」という2つの矛盾したものが、どうして融合するようになったのか。この当時(ウパニシャッド哲学の時代)にあっては、この矛盾についてまだそれほどはっきりと意識されていなかったというのが実情であろう。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P125)


 そのためには修行しなければならない。修行せずにアンポンタンのように暮らしている人間は、幾ら年を取っても自分の欲望に押しつぶされて、苦しみの中に生きるしかない。完全に生きなければ、完全に死ねない。しかもそれを何度でも永遠に繰り返す。これが一番恐ろしいことです。

 そのインドの仏教が日本に伝わってくる中で、そのほかのインドの神様も日本の仏教の中に入ってきています。さっき言った全宇宙の神、ブラフマンは日本では梵天という。奈良の東大寺の大仏は、このブラフマンが仏教化したものです。そのほかにもいろんな神様がいて、インドは多神教の世界です。生きている間に時に応じていろんな神様を拝んでいいんです。

 インドの戦争の神様は帝釈天といいます。戦争神つまり人を殺す神様というのは「そんな神様がいるのか」と不思議な気もしますが、戦いの前に「ご武運を」と祈ることはどの社会にも見られる自然なことです。
 君たちは日本で連作回数最多の映画「男はつらいよ」シリーズとか知らないかな。「帝釈天で産湯を使い」という超人気の映画、渥美清の「男はつらいよ」シリーズがありました。あの帝釈天です。
 日本の戦争神、つまり武門の神様は八幡神です。鎌倉将軍家である源氏一族の守り神は、鎌倉の鶴岡八幡宮です。八幡神は武門の神様です。八幡さまは日本全国どこにでもあります。

 でもインドでは、他の地域に見られるような、神様同士の戦いは起こらなかったようです。あとで見るオリエントのように、神様同士の間に厳密な序列化は起こらないし、他の神様を殺して一つの神様だけを拝めということも起こりません。たぶんオリエントに比べて平和で、部族同士の血で血を洗うような戦いも少なかったのでしょう。だからいろいろな神様が生き残り、それに対する信仰が続いています。
 征服されていくドラヴィダ人も徹底して戦ったわけではなく、南に逃げるか、半ばあきらめてアーリア人の支配下に入ったようです。

※ (インド社会における)奴隷身分はきわめてゆるやかなかたちであった。ギリシア、ローマにおける奴隷のように、鎖につながれ、烙印を押され、鞭うたれて酷使されるのとはかなりちがっていて、温情をもってあつかわれている実例が多い。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P247)

※ ガンジス・ヤムナー両河地域に進出したアーリア人に対し、先住民は強く抵抗することはなかったようである。多くの者は第四のヴァルナ「シュードラ」とされた。・・・・・・シュードラはこのように隷属民として差別されたが、奴隷とは異なり、一般に自分の家族をもち、わずかではあるが財産を所有している。当時の社会には主人の所有物として売買や譲渡の対象となる「奴隷」も存在していたが、奴隷制は古代のインドでは発達しなかった。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P80) 


 インドでは奴隷制は発達しませんが、このことはあとで言う奴隷制の上に立脚したメソポタミア文明(オリエント)や、ギリシア・ローマ文明と異なっています。本当に虐げられた奴隷は、「苦しいときの神頼み」で「救ってください、言われたことは何でもしますから」、そういう絶大なる一つの神を生みだし、それにすがりついていきます。
 しかし、ここは日本と同じように、ありとあらゆる神々がいる多神教の世界になります。シュードラは奴隷と訳されますが、奴隷の意味が、西洋と東洋ではかなり違います。

 ただ死後の世界に対する関心は深く、死後、個体は無になっても、個人のアートマンは全宇宙の神ブラフマンと合体すると考えられていた。しかしそれはヨガのような厳しい肉体的修行が必要だと思われていた。

 また死の世界を支配するヤマという神さまは、日本の閻魔(エンマ)大王です。生きている間に悪いことすると、三途の川を渡るとき、天国に行くか地獄に行くかというとき、閻魔大王に地獄に行けと言われて、そのときに針千本飲まされたり、舌を抜かれたりする恐い神様です。
 これは民間信仰ですけど、その舌を抜く神様の閻魔(エンマ)大王は、もともとインドのヤマという神様です。死後の世界を支配する神様です。

 それから、コンピラ船ふね♪ で有名な神社がある。日本の金比羅神です。これはインドではクンビーラという神様です。このクンビーラがコンピーラになり、コンピラになる。これももともとインドの神様です。

 それからアスラ神という怒ったら恐ろしい神様がいるんですが、日本史では奈良の興福寺の阿修羅(アシュラ)像として有名です。顔が3つ、手が6本、三面六臂の神様です。真っ赤な顔して非常に人気がある神様です。これももともとはインドのアスラ神です。
 さらに遡れば、このアスラ神は、隣のイランのゾロアスター教の神様であるアフラ・マズダがインド化したものです。AFURA → ASURAというふうに訛ったものです。

 日本はこういうインドの神様を取り入れながら、同時に祖先崇拝を維持していきます。この祖先崇拝とインドの宗教を日本人がどのようにして融合していったかという問題は、われわれ日本人の宗教観念にとって重要なことです。日本人はどんな宗教でも取り入れる無宗教な国民ではありません。そこには異なる宗教を融合させるための努力がつづけられていきます。
 しかし融合できないものはきっぱりと、はねつけるときもあります。その代表的なものは、16世紀に伝来したキリスト教の拒絶です。しかしそのことは日本史で見ていくことになります。

※ リグ・ヴェーダに登場するこれらの神の中には、ゾロアスター教の神々やギリシャ・ローマの神々と共通するものも多い。例えば、天神ディヤウスはギリシャのゼウス、ローマのユピテルに、天空・友愛の神ミトラはゾロアスター教の大陽神ミトラに相当する。 また仏教にともない遠路わが国に伝来したものが多い。例えばインドラ神は仏教世界を守護する帝釈天、河神サライヴァティーは知恵と弁舌と財宝の神である弁財天、死者の国の神ヤマは地獄の支配者の閻魔大王としてわが国でも民間信仰の対象となっている。香川県の琴平町に祀られている金比羅はガンジス川のワニ(クンビーラ)に由来する竜神である。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P54)

※ インド・アーリア人の宗教は他のインド・ヨーロッパ系諸民族と同じく、天体、天空、大地など、自然の威力を崇拝するもので、主な神々は33体を数えた。 最も重要な上の1つは風雨の神インドラであった。
 人間が死ぬと霊魂は冥界に行き、ヤマ(死者の王、閻魔)に面接し、現世における生活の批判をされ、賞与または処罰されるものと信じられた。このころには転生の思想はまだ信じられていなかった。ヴェーダの宗教は古代イラン人の宗教と密接に関連しており、イラン人の最高神アフラ・マズダは、ヴェーダのヴァルナ神に類似している。しかしイランの宗教は前600年頃、ゾロアスターによって改革され、古い神々の多くは崇拝されなくなるが、ヴェーダ時代のインドの神々は、しだいに新しい神々によって交替されはしても、その影響は決して消滅しなかった。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P95)



【ヴァルナ制度】
 インドでは、そういう神様を持っていた白い肌の人たちが、黒い肌のドラヴィダ人を支配していくうちに階級社会をつくっていきます。
 これは俗にカースト制と言ったほうが通りがよいかもしれない。カーストが違うと、同じ教室ですら勉強できない。結婚するなどとんでもない。一緒に飯も食えない。そんなに根強い。カーストはポルトガル語だから、最近はこれを現地流にヴァルナ制度という。ヴァルナは「色」という意味です。白い人間が黒い人間を征服したから。これには4階級あります。

※ 「リグ・ヴェーダ」のときには支配階級としてこのクシャトリヤは確かに存在していたし、また王位はふつう世襲であったから、その当時、たとえ胚芽的なものであったにせよ、一種の貴族階級が存在したと考えられる。・・・・・・さらに部族をブラフマン(神権)、クシャトラ(王権)、ヴィシュ(平民)に区分している箇所があるから、種姓制度はまだ発展の途上にある萌芽にすぎないことは事実としても、後代の整った組織への素地がすでに存在していたことは否定できない。おそらくこの説をより妥当と見るべきだろう。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P91)



バラモン】 一番上は、日本でいえばお坊さん、バラモンです。インドではお坊さんが一番偉いんです。アレッ、と思いませんか。王様はその下なんですよ。

※ 部族の司祭者たちは、祭祀を頻繁に取り行って勝利や繁栄を祈願した。また機会あるごとにラージャンの偉業を讃え、気前いい贈与を求めている。ラージャンは、獲得した富のかなりの部分を祭祀のために消費し、また金銀、牛、馬、女奴隷などを司祭者に贈った。司祭者も同じ部族の成員であったが、祭祀の規則が複雑となるにつれて、その職は世襲されるようになり、その結果、ラージャニヤとは別の階層の形成が促された。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P58)

※ インド古代史を通じてバラモンは、宗教や儀礼にかかわる議論では王権に対する自己の優越をあくまでも主張したが、現実の生活においては、王に従属し、与えられた職務を果たすことによって地位と収入を保証されている。・・・・・・
 バラモンはまず、特別な儀式によって王権の正統性を保証し、また呪術の力によって王と王国に繁栄をもたらす。こうした役割を果たすバラモンのなかで最高位にあっあるのが、宮廷司祭長のプローヒタである。次にバラモンは、王の守るべき神聖な義務を説くことによって、政治に参加した。王は法の制定者ではなく、バラモンの伝持する聖なる法(ダルマ)に従って統治する者とみられたからである。この面でもプローヒタが指導的役割を果たしている。さらに知識階級としてのバラモンは、大臣や裁判官として、また上下の役人として王に奉仕する。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P76)

※ (アメリカ・インディアンの)ズニ族の政治の中心は、6人の僧侶からなる議会で、魔法が使われた場合どうするかとか、いつ誰が宗教儀式を行うか。といったことを決めた。・・・・・・僧侶の議会によって任命される、世俗政府とでも呼ばれる非宗教的政府があった。・・・・・・しかしこの政府の役人は、僧侶の議会がいつでもくびにすることができたから、たいした力はなかった。要するに神政政治の国家であった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P155) 

※ 祭政一致の性格を強くもっていた当時の政事のなかで、王の諮問に答え、これを補佐する重要な顧問官として、「リグ・ヴェーダ」の讃歌が高い評価をあたえているのは、王の専属の司祭であるプローヒタ(扈従司祭・こしょうしさい)である。かれらは行政、司法業務をたくみに処理するバラモン政治家の先駆者であったばかりでなく、王にしたがって戦いにおもむき、祈祷と呪文によって王が勝利を得ることを助けた。その報酬は莫大であった。・・・・・・ヴェーダ時代の軍勢は、戦争のときには王によって指揮された。戦争には部族全員が従軍し、祈祷と呪文によって勝利をねがう司祭たちに鼓舞されたのである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P93)



【クシャトリア】 王様はクシャトリアといって、バラモンの下です。王様よりもお坊さんが偉い。普通は逆ですよね。王様が普通は一番偉い。でもインドではその王様の上にバラモンがいる。

※ 紀元前10世紀ごろから、北部インドの中原を占拠したアーリア人が、ここに多くの都市国家を建設した。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P98)

※ 後期ヴェーダ時代(前1000~600頃)には、ガンジス・ヤムナー両河地域を中心に、部族王制といえる形態をとった国家が割拠した。これらの国はいまだ部族制を脱却してはいなかったが、部族集会は力を弱め、前代のラージャン(首長)よりもはるかに強い権力を持ったラージャン(王)が登場した。・・・・・・
 そうした王に特別な権力と地位を与えるための儀式が、バラモンによってさまざまに執り行われた。まず王は、頭上から聖水をそそぐ灌頂儀式をともなう即位式を挙行し、一般人とはかけ離れた神聖な力の持ち主であることを誇示した。・・・・・・祭式を執行したバラモンたちは、莫大な報酬をえたという。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P66)

※ ブラーフマナ時代(前800~前500)には部族連合の国家のあいだで戦いが繰り返され、弱肉強食によって多くの部族が併合された過程で、王権がしだいに形成されていく。この王権形成の歴史は、ローマの共和制のうちから皇帝権が生まれていく過程を頭において考えると理解されるだろう。
 平等な市民権をもったローマ市民のなかで、その序列が第1位にあるもの(プリンケップス)にすぎなかった統領が、しだいにその権限を自分の一身に集め、・・・・・・人民に対して絶対的な権限を持つもの(ドミヌス)として皇帝に成長していく。それと同じように、古代インドでも、これまで部族の代表者としての資格をもつにすぎなかった族長が、のちには強大な王権をうちたてるように成長していくのである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P113)

※ 王権の強化を目的とするこれらの儀式により、王の神格化への道が踏み出されたが、部族制を脱却しきれていないこの段階では、それはまだ形式的なものにとどまっていた。一方、儀式を執り行うバラモンは王に向かって、かれら(バラモン)を尊び、かれら(バラモン)の教えに従うことを誓わせている。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P67)

※ リグ・ヴェーダ時代の部族制社会からブラーフマナ時代(前800~前500)の王制国家へと脱皮していく過程は、部族の有力な家系のひとつにすぎなかった族長の家が、王家としての権威を高めていくすがたを示すものにほかならない。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P115)

※ 後期ヴェーダ時代(前1000~前600年頃)におけるアーリア人の活動の中心は、ガンジス・ヤムナー両河地域であった。・・・・・・アーリア人部族のなかでも最有力であったバラタ族の王国の都は、ヤムナー河畔で今日のデリーの地にあたるインドラプラスタと、その東北のガンジス河畔に建設されたハスティナープラにあった。二大叙事詩の一つ「マハーバーラタ(バラタ族の大史詩)」は、バラタ族内部の王位と領土をめぐる争いをテーマとしている。・・・・・・デリー北方のクルクシュートラの平原でたたかわれたというこの天下分け目の大戦争は、現実には前9世紀ころ部族を二分して争われた小規模な戦闘であった。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P68)


 でもこのことはイスラーム教と似ていて、イスラーム教国家も国家の頂点の大統領の上にはさらに宗教指導者がいます。だから王様の政治力によってではなくて、イスラーム教の宗教力によって社会が秩序づけられています。だから宗教国家です。

※(●筆者注) イスラーム社会には、強力な神がいても、強力な神官はいなかった。だから神官に邪魔されることなく、神の代理としての強力な王権(カリフ)が発生した。
 しかし次に述べるギリシャでは、強力な神官はいなくても、強力な神そのものがいなかった。神がいないところでは強力な王権のもつ宗教性は発生しない。だからギリシャに王は発生しなかった。
 このインドでは、王権を加護する強い神がいないにもかかわらず、バラモンという強い神官団が発生した。これにより王権は発生しても、王の力はバラモンにより抑制された。


 ただバラモン教はイスラーム教のように強い一神教ではないから、バラモンの支配は緩やかです。ということはバラモン教による国家統一は難しい。国家を統一するほどの強い強制力は持ちません。

 そういうバラモン教の世界で、なぜ仏教という新しい宗教が生まれたか。仏教はバラモン教による階級社会がイヤだったからです。
 そうすると王様は「そうだそうだ、バラモンは威張っている」、そう言って仏教になびいていく。王様と仏教はこの関係で良好です。バラモンは王様の上にいるんだから、王様にとっては目の上のたんこぶです。王様にとってはその権威は邪魔になる。そうやって広まったのが仏教です。仏教の平等思想はバラモン否定です。

 さらにその下の商人や農民はヴァイシャという。ここまでが白い人です。特に新しい都市社会で生きる商人たちは仏教になびいていく。
 さらにその下がある。肌の黒いドラヴィダ人はシュードラ、これは奴隷です。
 バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラこの4つです。

 カースト制は、それをなくそうと今も憲法でつとめているけど、なかなかなくならない。
 インドの王は力を持ちにくい。上にバラモンがいるから。インダス文明も王がいなかった。バラモン教もそうです。ヒンドゥー教もそうです。だからインドの古代王権は弱いんです。だから、のち16世紀にインドに帝国が復活するときは、支配層はヒンドゥー教ではなく、別の宗教つまりイスラーム教になっていきます。
続く。


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