著名な音楽評論家、吉田秀和氏の自伝的エッセー集「永遠の故郷~真昼」です。「夜」、「薄明」に続く3作目で、このシリーズは、先に刊行された第4作「夕映」で完結しました。
いずれも町の図書室から借用して読みましたが、先行する3冊は、道立図書館から取り寄せていただき、また、最終巻の「夕映」はわざわざ(町で)購入していただきました。
ところで、同氏は1913年のお生まれで、今年98歳を迎えます。
「クラシック音楽の豊富な体験・知識をもとに、音楽の持つ魅力や深い洞察をすぐれた感覚的な言葉で表現、日本の音楽評論において先導的役割を果たす」と(Wikipedia)記されています。
その同氏の長い人生を回顧しつつ、時々のエピソードが氏の音楽人生にどのように投影していったかを「歌曲」への想いとともに語る新しい音楽評論のかたちです。
小生は、本書の第3編「真昼」の中で、シューマンの「初めての緑」に寄せられた、氏の小樽での体験に強い共感を覚えました。ご一読をお勧めします。
蛇足:このエッセイの雰囲気をお楽しみいただきたくて、以下、少し長いのですが、上記の部分を転載させていただきました。
"(小6で移住した)小樽ではたくさんのことが新しく、珍しかった。
その年は長年住みなれた現地の人にも何十年ぶりという厳しい冬となり、毎日毎夜雪が降り続いた。はじめは珍らしくておもしろがっていた私も流石にあきれかえり、あきてしまった。降り積る雪の始末も大変だった。いくら除雪してもきりがない。・・・
この異常な雪の冬の毎日を、かなり遠い学校まで通うのは、東京から来たばっかりの私には楽でなかった。スケート、スキーなんて初めてやってみるのは楽しくないことはなかったはずだが、今記憶に残っているのはこの雪の真白な色、威圧的な重さの感覚である。
しかし、そんな冬でさえ永遠に続くわけはなく、いつか終りが来る。
家の前の雪の山は日をおうごとに低く小さくなり、当時はまだ石炭ストーヴで寒さを凌いでいた家々の煙突から日夜吐き出されていた黒煙、煤のせいで黒く汚れたきたならしい塊りに変身する。
そのかわり、雪の下から顔を出してきた道路のあちこちに大小の水溜りが出来、やがて小さな川がちょろちょろ音を立てて流れてゆくようになる。そして、ある日、春の日差しに気がついたころには、その日差しを受けて、水の線がキラキラ光りながら走ってゆくのが見える。・・・
雪を踏みつけているうちに、ぐっと足を下に突っ込んだりもする。
雪の下は田んぼか何かだったのだろう。砕け散る雪氷の下にみずの流れるのが見え、キラッと光る。その流れをよく見ようと思って腰をかがめたら、その下に若草の小さな緑の塊がみつかった。それは、まるで小さな眼で私の方をじっと見詰めて来るみたいに光った。
びっくりした。小さな眼から光の矢が飛んできたといってもいい。その矢に射すくめられ、私の胸がキュンと締まった。・・・
雪の下の割れ目から、じっとこちらを見つめていた緑の草の小さな眼。それとネコヤナギ。何十年もたった今でも、はっきり覚えている。一生忘れないだろう。この日、これを通じて、私の中で何かが目覚めたのである。
シューマソの《初めての緑》作品35-4。
この歌をはじめて知った時、私はあの時の目覚めの感触に非常に近いもの、ほとんどそれに照応する音楽に出会ったと直感した。
ただ、私の目覚めはその後の私の人生の経過する中で甘美な思い出のようなものに倍音を帯びてきたけれど、シューマソのこの曲の底にはもっとずっと鋭い力で心を刺すようなものが流れている。ほとんど狂気に近いような戦懐の影を感じる時さえある。・・・"