goo blog サービス終了のお知らせ 

よろずよもやまよろずたび

地元の写真と日々の雑感、写真日記です.
最近は陶芸三昧の日々ですが・・・

・・・接戦続く

2022-03-08 | 日記
石川県知事選の情勢調査というのが新聞に載っていた。
電話による聞取り調査のようで、数値で示されるのかと思い
紙面を眺めてみたけど、それが無い。
載せられない事情があるのかもしれないけれど、
紙面にある『調査結果に取材を加味した動向』で靄っとさせるより
『調査結果』と『取材』をそのまま示してもらった方がいいと
思った次第です。

ところで、有権者の数は金沢が約40%を占め、
金沢より南に約40%、能登地区には約20%がいます。
地域ごとに候補者に対する支持者の割合が異なるようで
たぶん金沢では元市長のA氏が強いだろうし
能登地区では元参議院議員のB氏が強いとのことです。
B氏は労働組合と立憲の支持を得たそうですが
このご時世ですから効果は?です。
むしろ維新の推薦を得ているCに分があるように思います。
それにC氏には別の影響力もあるようで
金沢より南の40%には大変有利のように思います。
と考えると・・・



A氏が金沢の半分を獲った場合 A≒B<C
A氏が金沢の3/5の場合   C≒A>B
何れにしてもC氏が一番有利なように思います。
あとはA氏が金沢でどれだけ頑張れるか・・・
ってな感じ(^^;

大聖寺藩について、つづき

2022-03-06 | 日記
さて、第三代の前田利直が1710年12月13日に死去すると、
跡を継いだのが加賀藩主・前田綱紀の五男、利章(としあきら)。
こいつがまた放蕩三昧な生活を繰り返して藩財政を悪化させ、
さらには凶作が原因で正徳2年(1712年)に百姓一揆が起こり、
享保17年(1732年)には幕命による江戸城改修工事による出費でさらに藩財政を悪化させた。
元文2年(1737年)9月6日に大聖寺で死去した。享年47。

で次が利章の長男、利道。
素行についての記録はないものの、
東海道吉田大橋架け替えの二度の手伝普請や
領内の災害などにより、藩の財政は逼迫した・・・とあり
良いことはなかったようです。

そして次の六代目が利精(としあき)
こいつがまたとんでもない奴で
遊廓に頻繁に通って女狂いとなり、
無頼と交じって好き放題にふるまうなど、
無法を繰り返すようになる。
これが江戸城内・幕閣にまで聞こえ始めると
加賀藩はほっとけなくなって強制隠居!

とまぁ、三代以降90年間、不幸が続く大聖寺藩なのです。
このあとも10万石への高直しや
幽霊藩主なんてエピソードがあるのですが、
それはまた別の機会に。

ところで、ろくでもない事ばかり続く大聖寺藩ですが、
人間臭いというか何というか、他の藩でも似たようなことが起きただろうし、
たまには良いことや面白いことがあって、笑っていた時期も
あったんじゃなかろうか、などと想像して
嫌いじゃない大聖寺の歴史です。

ワクチン3回目

2022-02-14 | 日記


コロナワクチン3回目打ちました。
翌日、寝返りできないほど肩が痛くて
「こりゃ大変だ・・・」と思っていましたが
次の日には痛みも治まり、熱も出ず、
2回目のときより軽い反応で済みました。

2回目を打ったとき、翌日に熱が出て、
その後2~3カ月の間五十肩の如しで
腕を上げるのがきつかったものです。
思えば2回目のとき、針を刺してから抜くまで随分と痛かったから。
きっと看護師さんが下手だったのだろうと思います。
で、肩の筋肉を傷めたんじゃなかろうか・・・などと。

というわけで、心配していた3回目ですが、杞憂に終わったようです。
早くコロナ禍が収まりますように!

大聖寺藩について

2022-02-05 | 日記


義兄は歴史に詳しい。
いろいろ調べたことを記事にして渡してくれた。
でも、そこに九谷焼が絡んだ話というのは、殆どない。
他の文献にも見当たらない。

しょうがないので以下に勝手に綴る。

大聖寺藩は寛永16年(1639年)6月、加賀前田家第三代当主、
利常が隠居するさいに加賀藩から7万石を割いて立藩させた。
同じく富山藩を10万石で立藩させている。
富山藩には利常の次男・利次を、大聖寺藩には三男・利治を立てた。
そのとき大聖寺藩初代当主利治は若干22歳。
まぁ棚ぼたというか、なんというか、そりゃもう嬉しかったことでしょう。
冷や飯食いから、あっと驚く一国の藩主なんですから。
また小堀政一(遠州)から手ほどきを受けた茶人であったそうで、
始めた古九谷(九谷焼の元になる)の器を手に、嬉しさ余って「やったぁー!」とか
叫んでいたかもしれません。
ところが43歳の若さで死去する。そして、その意を継いだのは弟の利明です。
利明はWikipediaによれば「富国政策を重視して藩政を確立した名君」とのことです。
そして1692年に死去しているのですが、ここまで立藩してから約50年。
古九谷も50年ほどで廃窯しているとのことで、どうやら次の代に問題があったようです。

で、第三代は利明の子、前田利直なんですが、徳川綱吉の寵愛を受け藩政は家臣に任せっきり、
あげくに弟の利昌が徳川綱吉の葬儀・法要の前日に、饗応役筆頭の織田秀親を刺殺!
(そのときの様子についての描写
 ・・・彼の右手を押さえ小刀で胸から背中、肩、頸を突刺して絶命させた)
こりゃ、赤穂事件の再来! 
もう、ひっちゃかめっちゃかじゃぁありませんか!
まぁ不幸中の幸いは本懐を遂げたこと。
利昌の切腹で一件落着しています。

で、まぁ焼物どころじゃなくなったんだろうね。
無理もない。

注)前田利昌 Wikipediaより
元禄5年(1692年)、大聖寺藩3代藩主である兄・利直から1万石を分知され大聖寺新田藩を立藩、大名となる。同藩は領地を持たず、大聖寺藩の収入分から1万石分を与えられただけで、独自の藩庁などの行政機関は持っていなかった。
宝永6年(1709年)1月15日、東叡山寛永寺で行われた5代将軍徳川綱吉の葬儀に際し、中宮使饗応役を命じられる。同役の大准后使饗応役は以前から仲が悪かった大和国柳本藩主の織田秀親であった。2月15日、翌日の将軍徳川家宣の参詣の行事について書かれた老中の奉書が届けられた際、饗応役はそれを回覧することになっていたが、秀親は利昌に見せようとしなかった。その場で利昌は一時小刀に手をかけるも、赤穂事件のことを考えて一旦踏みとどまった。翌2月16日、利昌は寛永寺吉祥院の宿坊で、家老の木村九左衛門に秀親を後ろから羽交い絞めにさせた上で刺殺した[1]。その後山城国淀藩主・石川義孝に預けられ、同月18日に切腹となった。凶行前日、利昌は家臣の木村九左衛門に赤穂事件について感想を求め、木村は「内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられた」と返答したという。
大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されたが、すぐに大聖寺藩に還付された。

ハート

2022-01-26 | 日記


しばらく前に見たカメムシ。
背中にハート印。
それはともかく、ふと頭をよぎったこと・・・
今は令和、その前が平成で次が昭和・大正・明治と続き・・・江戸時代
我ながら「はぁ?」です。
明治の前の和暦について知らないのは、私くらいだろうか。とほほです。
調べると慶応・元治・文久・万延・・・と延々と続くのですが、
それぞれの期間が短くて、平均すると約6年半。
中には2カ月なんてのもあったりして・・・
で、まぁ、とくに何か言いたいことがあるわけでもありません(^^;

明日の選挙

2021-10-30 | 日記


自民党の議席が減るというような報道があるらしい・・・
TVを見ないのでネットの情報だけだけど。
理由はコロナ対策に対する不満や自民議員の不祥事への憤慨などなど
それでも他の党を選ぶ気がしないのは、
言われるほど菅内閣はわるくなかったような気がするから・・・
というわけで、明日の選挙、結果は如何に?


ワクチン接種2回目

2021-06-29 | 日記


昨日のことです。
起床するとなんとなく全身がだるくて、頭が痛く、ぼ~っとします。
というわけで、何も手がつかず、
母を医者に連れて行った以外、だらだらと過ごしていました。
夕刻になり娘がやって来て
「そりゃワクチンの副反応! 顔も赤くて熱っぽい」
と言われて、はたと気づいた。
前日の日曜日、ワクチン2回目を接種したのです。

こういう事象があるということは、
まぁ、それなりにワクチンとしての
効果というか、影響力があるのでしょうね・・・
これで、外出しても少しは安心かな。