岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

ウグイスの初鳴きか?「ウグイス初鳴き前線」早くも北上…(最終回 3)

2009-03-19 05:08:20 | Weblog
 (今日の写真は昨日のものと同様に、昨年の3月23日に撮ったものだ。中央が山頂だ。左下端が耳成岩の東端にあたる。右側が山頂の東側外輪山になる。そして、中央に見える累々とした岩の下部が爆裂火口の一つである。
 この写真は、山頂からここまで降りて来た時に、撮った。私たちの足跡がくっきりと見えている。山頂東面の雪質は軟らかく、踏み跡が深くなるが、手前の足跡からも分かるように、この辺りは「硬く」て殆ど埋まらない。
 「山頂斜面」は軟雪のところもあるが、それが覆っている下面はがちがちの氷雪であって、凄く硬い。山頂斜面の上部に踏み跡が数本見えるだろう。これは、相棒と「滑落停止訓練」をした場所である。
 この風景、実際ならば4月から5月にかけてのものだ。今季も季節は猛スピードで推移している。昨日の気温は、私の温度計では、午後少し日射しのあった時には17℃を指していた。嬉しいと言うよりは「恐ろしい」と言った方があたっている。)


       ◇◇ 驚きだ。ウグイスの初鳴きを聞いた(3)◇◇
(承前)

 …ところで、この気象台や測候所が行っている「生物季節観測」には「ある程度」の決まりがあるようだ。
 例えば、「ヒバリ」は春でも秋でも急に暖かくなったりすると、一時的に少しだけ「さえずったり」することもあり、このような場合は「地上でさえずる」ことが多い。
 だが、これは「初鳴き」とはいわないのだそうだ。あくまでも、「空を飛ん」で、「空中にホバリング」して「さえずっている」場合が該当するという。
 「ツバメ」の「初見」も、上空をただ飛んだり、上空を通過したのを見ただけの場合は「」とはならないそうだ。
 あくまでも、「ツバメ」が家の軒先を飛び回って営巣場所を探すような行動をしているなど「繁殖行動」を初めて見た場合がそれにあたるという。
「モズ」も秋に初めて「鋭い絶叫調の高い鳴き声(高鳴き)」を確認した日が「初鳴き日」とされるというのだ。
 このような「決まり」を考えると先日の朝に聞いたウグイスの鳴き声は、どうも「初鳴き」と呼べるものではないような気持ちになる。
 まあ、いいだろう。「世間や気象台」が受け容れてくれなくても、私の今季の「ウグイスの初鳴き」は「2009年3月16日」であるとしておこう。

 さて、これら「気象台や測候所」による「生物季節観測」としての「サクラの開花宣言」や「ウグイスの初鳴き」発表がなくなるという、私にとっては「ショッキング」なニュースに接した。
 何故「ショッキング」なのかというと、ここまで人々の生活が「自然の現象」から切り離されて、科学的な器具によって集められるデータだけによる「判断」に支配されていくということへの驚きと寂しさを持ったからだ。

 江戸時代の俳人、小林一茶の俳句に「地車におっぴしがれし董哉」や「花董がむしゃら犬に寝られたり」というのがある。一茶は60ものスミレの句を吟じている。
 一茶が捉えるスミレは「人々の生活」の中で「おっぴしがれ」たりしながら、元気に生きているものであり、地車の下敷きになりながらも、苦しそうにしているわけではなく「痛いなあ!」と言いながらも、笑っているものなのだ。
 これは、「自然の諸現象」と人間が「共生共存」していたことの証しであろう。お互いが仲のいい友だちなのだ。これは何も、一茶に限ったことではなかったろう。
 一茶が暮らしていたその当時、そして、住んでいた場所は、「自然と人間」が対等な関係を保っていた素晴らしいところだったのである。つまり、誰もが「生物季節観測」を大事にしていたのだ。これが、美しい日本の原風景を日本人の「内面」から支えて育ててきたのである。

 2009年3月4日付の「読売新聞」によると政府は2010年度までに、全国の18気象測候所を全廃する方針だという。

 測候所は、天気や気温といった定時の気象観測のほか、住民からの気象の相談にも対応する地方機関である。
 1996年に96ヶ所あったが、これまでに78ヶ所が無人で自動観測をする「特別地域気象観測所」に変わった。機械計測するのは気圧、雨量、震度などだ。
 このことに関して、気象庁は「機械化で秒単位の観測が可能になった。全データは気象庁に自動的に送られ、予報や警報に生かされる」とメリットを強調している。
 しかし、このように強調すればするほど、逆に「失われること」の大きさをついつい意識してしまうのだ。
 機械計測の中には「視程計」という機械がある。これで、空気中の水蒸気や雨粒の量、気温などから、雨、雪、みぞれなどを判別するのだそうだ。ただし、「視程計」では「霰(あられ)と雹(ひょう)の区別」はつかないし、しかも、晴れと曇りの区別もつかないという。
 だから、「日照計や気象衛星の画像で、雲の量を推計して」判定しているのだそうで、「天気の判定」はやや苦手なのだそうだ。
 文明といわれる科学的な機器だけでは出来ないことがある。だからこそ、「自然物が好きだという気持ちと、それを自分と平等に扱うということ」・「人間以外の生き物の声、言い分を”聞いて訳す”ということ」・「同じ命を持つものへの優しさを持つこと」・「すべての生き物の時間を人間の時間的な尺度にしないこと」をいう「自然への共感能力」が必要なのだ。
 この「自然への共感能力」の具体的な延長線上にあるものが「生物季節観測」ではなかったのだろうか。
 だが、「初霜や初氷」の便り、「サクラの開花」や「セミの初鳴き」などの「生物季節観測」は廃止されてしまうのだ。これらの観測は「地球温暖化の指標」としても注目されつつあるが、1世紀近く続いた記録が途切れた地域も多いという。
 測候所が消えた地域はサクラの開花宣言もなくなる。観測に支障はないのだろうか。地域の人から学ぶ「気象の知恵」が予報を作る参考になったという話しも聞く。
 最後に記者は「天気の変化をコンピューターで予測する現在、測候所の廃止は時代の流れかも知れない。でも、そんな時代のせいなのか、人の経験や季節の便りといったぬくもりのある気象情報が消えるのを惜しむ声は根強い」として記事を結んでいた。

 追記:今朝7時20分、ゴミ出しのため、外に出た。はっきりと確実に、大きく甲高い、しかも一つづりの「ホーホケキョ」を聞いた。これはもう、「ウグイスの初鳴き」に間違いない。2009年3月19日の朝である。場所は弘前市田町、熊野宮境内である。(この稿は今回で終了する)